年越しのそばに
十二月三十一日。大晦日の朝、初奈はアパートの小さな台所に立っていた。窓の外では、年の瀬の商店街が最後の買い出しに追われる人々で賑わっている。年の瀬の慌たださをよそに、彼女は誰かのために何かを作るという幸せに浸っていた。
まな板の上には、卵焼き、ほうれん草の胡麻和え、ウィンナー、そして昨夜の残りの煮物。卵焼きは何度か練習したおかげで、随分と綺麗な形に焼けるようになった。ほうれん草は茹で加減が難しくて少し柔らかくなりすぎたけれど、胡麻の香りでごまかせている。
「包丁にも、少し慣れてきたかも」
自分の手を見つめながら、初奈はそっと微笑んだ。一週間前までは包丁を握ることすら怖かったのに、今ではちゃんと食材を切ることができている。小さな進歩だけれど、それが彼女には何よりも誇らしかった。
それから初奈は、出来上がったおかずを弁当箱に詰めていった。ピンクの蓋の可愛らしい弁当箱は、昨日商店街で自分のお金で買ったものだ。お嬢様だった頃は当たり前のように与えられていた物も、今は一つひとつ自分で選び、自分の意思で手に取っている。蓋を閉める前に、最後の仕上げとして梅干しを白米の真ん中にそっと置く。
「よし、できた」
それは完璧な弁当ではなかったかもしれない。でも、初奈が初めて一人で作った、誰かのための手作り弁当だった。
病室に着くと、達也は窓の外を眺めていた。
「おはようございます、達也くん」
「あ、初奈ちゃん。おはよう、って、なにそれ、もしかして」
「お弁当です。私が、作りました」
初奈が包みを開くと、達也は目を輝かせた。卵焼きに、ほうれん草の胡麻和え、小さく切ったウィンナー、そして昨夜の残りの煮物が彩りよく詰められている。ご飯の上には梅干しが一つ。
「すごい! これ、全部初奈ちゃんが!? 推しの手作り弁当とか、僕、もうこれで一生分の運使い果たしたかも」
「そんな大げさですよ、でも、その、喜んでもらえて嬉しいです」
ふと、達也が自分の両腕を見下ろした。まだ包帯が巻かれていて、自由には動かせない。彼が「でも」と言いかけたのを、初奈はそっと制した。
「わかってました。だから」
初奈は、勇気を振り絞って言った。耳どころか首まで真っ赤になりながら。
「た、食べさせてあげます」
「えっ」
「えっ」
二人の声がぴったりと重なった。達也もまた一瞬で顔を真っ赤にして、口をパクパクと開け閉めしている。
「い、いいよ! そんな、悪いし!」
「悪くなんかありません。達也くんは私のために手が動かなくなったんですから、その、これは、その、責任というか」
「初奈ちゃんのせいじゃないし! ていうか、推しに『あーん』されるオタクとか、それもうオタクとしての領域を超えてるっていうか!」
「だ、誰も『あーん』なんて言ってません!」
二人はしばらく真っ赤な顔で見つめ合っていたが、やがて初奈が意を決して箸を手に取った。卵焼きの欠片を箸でつまみ、そっと達也の口元に運ぶ。達也も観念したように、目をぎゅっと閉じて口を開けた。
「ど、どうですか」
「美味しい、です」
「よかった」
初奈は心から安堵して微笑み、それから二人はお互いの顔がまだ赤いことに気づいて、同時に照れ笑いをこぼした。箸を運ぶ初奈の手はかすかに震えていて、その震えが伝わらないようにと願いながら、卵焼き、ほうれん草、ウィンナーと順番に口元へと運んでいく。ウィンナーを食べた達也が「これ、タコさんになってる」と嬉しそうに呟き、初奈は「足がちょっと曲がっちゃいましたけど」と照れながら笑った。
そうして、初めての「あーん」は、大げさなものではなく、ただ静かに、確かにそこにある二人の時間だった。それはぎこちなくて、恥ずかしさで、でも確かに温かい時間だった。
その時だった。
「失礼します。検温に来ました、あら」
カーテンを開けた看護師が、二人の様子を見て目を丸くした。初奈はとっさに身を乗り出し、達也を隠すようにベッドの周りのカーテンを勢いよく閉めた、はずだったが、バランスを崩して彼の胸に手をついてしまう。気がつくと二人の顔はほんの数センチの距離にあって、お互いの息がかかるほど近くに感じられた。
「っ」
「っ」
二人は無言で、弾かれたように身体を離した。看護師はくすりと笑いながら「お邪魔しました」と言って、そっと病室をあとにした。
「ご、ごめんなさい!」
「ぼ、僕の方こそ!」
二人はしばらくどちらからともなく俯いていたけれど、やがてどちらからともなく小さく笑い出した。カーテンの向こうの小さな密室で、年の瀬の静かな午前がゆっくりと流れていく。
午後、初奈に付き添われて達也はリハビリルームに向かった。
広々としたリハビリルームには、様々な器具が並び、窓からは柔らかな冬の陽射しが差し込んでいる。すでに数人の患者がそれぞれのリハビリに励んでいて、その中には小児科の子供たちの姿もあった。達也がリハビリを始める頃にはすっかり彼らと仲良くなっていて、部屋に入るなり「あ、お兄ちゃんだ!」と歓声が上がる。
「いくぞ、浅見くん。今日から少しずつ歩行訓練を始める」
理学療法士の指導のもと、達也は平行棒を掴んで立ち上がろうとしていた。折れた両足はまだ完全には戻らず、体重をかけるだけで痛みが走る。それでも彼の顔に諦めの色はなかった。初奈は、そんな彼の姿をじっと見つめていた。
(あの日もそうだった)
スポーツ大会で、靴擦れをこらえながら何度もバーに挑んでいた達也の背中。そして今も、彼は諦めない。決して、諦めない。
「達也くん、私も手伝います」
初奈は彼の横に立ち、そっと彼の腕を支えた。看護師ではないから専門的なことはできないけれど、それでも、隣に立つことはできる。彼が転びそうになったら支えることくらいはできる。自分の手が、誰かの役に立つ。そのことが初奈にはたまらなく嬉しかった。
「あ、お姉ちゃんもいる! お兄ちゃんとお姉ちゃん、また一緒にいる!」
それを見ていた子供たちが、きゃっきゃと笑いながら囃し立てる。
「ふたりとも顔が赤いよー! 恋人同士なんだー!」
「またラブラブしてるー!」
達也は真っ赤になって首を振った。
「ち、ちがうって! 初奈ちゃんは、その、推しで、僕はただのオタクで!」
初奈はまた、真っ赤になって口籠る。
「そ、そういうのじゃなくて、その」
そんな二人の様子に子供たちは大はしゃぎで、理学療法士もつられて笑っている。リハビリルームは笑い声に包まれ、初奈も達也も恥ずかしさのあまり俯きながらも、やはりどちらからともなく小さく笑っていた。
アパートに帰ると、部屋の前に見慣れた三つの人影があった。
「おせえぞ、初奈!」
「あらあら、待ちくたびれたわ」
「初奈さん! 今日は年越しそばパーティーやで!」
ぼたん、るるか、箒が口々に叫ぶ。三人は手に手に買い物袋を提げていて、るるかがエプロンを借りるより早く台所に立ち、手際よく天ぷらを揚げ始めた。海老、かぼちゃ、れんこん、ししとう。油の跳ねる音と香ばしい匂いが、アパートの小さな部屋いっぱいに広がっていく。
「すごい、るるかさん。天ぷらまで」
「うふふ。年越しそばには天ぷらがつきものよ。そばも茹でるから、ちょっと待っててね」
そして午後十一時。四人はこたつを囲んで年越しそばをすすっていた。るるかの天ぷらはサクサクで、そばつゆの出汁が身体の芯まで温めてくれる。箒が「海老天もう一個!」と叫び、ぼたんが「それはオレの獲ったやつだ」と取り合い、るるかが「あらあら」と笑って新しい海老を揚げに行く。そんな他愛のない時間が初奈にはたまらなく愛おしかった。
「年越しそば、美味しいですね」
初奈がそう呟くと、るるかが温かいお茶を差し出しながら穏やかに笑った。
「ええ、本当に。こんな風に年が越せるなんて、思わなかった」
「そうだね。オレたち、ついこの間まであんなにどん底だったのにな。大山に怯えて、病院で泣いて。なのに今、こうして四人で年越しそば食ってる」
ぼたんがしみじみと言うと、箒もそばを啜りながら小さく笑った。
「ウチ、みんなで笑って年を越せるのが、こんなに嬉しいことやとは思わへんかった。また来年も、みんなで集まろうな。絶対やで」
その瞬間、箒の言葉に誰かがかすかに鼻をすすった。誰からともなく全員の目が潤み、こたつの上に置かれた年越しそばの湯気が揺らめく。それは悲しい涙ではなく、この場所に辿り着けたことへの感謝の涙だった。
「来年も、その次も、ずっと」
初奈がそっと呟き、四人は顔を見合わせて笑った。窓の外では、どこか遠くで除夜の鐘が鳴り始めている。今年が終わり、新しい年が来る。何もかも変わってしまった一年。もう戻れないものも、失ったものもある。でも、こうして今、確かにここにある温もりは誰にも奪えない。新しい年も、きっと大丈夫、そんな予感が四人の心を満たしていた。




