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新しい私の、新しい一日


十二月二十九日。年の瀬も迫り、街は正月を迎える準備で慌ただしい。早朝の静けさの中、初奈は達也のアパートの一室で目を覚ました。窓から差し込む柔らかな冬の陽射しが、六畳一間の小さな部屋を優しく照らししている。壁に貼られたアニメのポスターも、本棚に並んだ参考書も、すべてが昨日と同じ場所にある。でも、そのすべてが初奈にとってはまだ新鮮で、どこかよそよそしくもあり、それでいて不思議と落ち着く風景だった。布団から這い出して、まずはカーテンを開ける。窓の外には、年の瀬の準備に慌ただしい商店街の朝の光景が広がっていた。

「よし」

初奈は小さく気合を入れると、昨夜洗った洗濯物を抱えてベランダに出た。るるかに教わった通り、洗濯機の使い方はもう覚えた。次は干し方だ。プラスチックの籠から取り出したのは、彼の白いシャツと、自分のカーディガン。しわを伸ばして、ピンチで留めて、風で飛ばないようにぎゅっと挟む。隣のベランダには、同じように洗濯物を干す主婦の姿があった。こうして誰かの日常に交ざっていることが、初奈には何よりも新鮮だった。

「できた」

初めて自分で干した洗濯物。風に揺れる白いシャツを見上げながら、初奈は自然と微笑んでいた。

その後、初奈は台所に立った。るるかに教わったことを、一つひとつ思い出す。

「卵焼き。まずは、ボウルに卵を割って」

冷蔵庫から卵を二つ取り出し、恐る恐るボウルの縁にぶつける。最初は殻がうまく割れずにひびが入るだけだったが、何度か試すうちにコツを掴んだ。菜箸で白身と黄身が混ざるようにかき混ぜて、砂糖と塩を少々。分量はまだ手探りだけれど、るるかは「最初は適当でいいのよ」と言ってくれた。

フライパンに油をひいて、卵液を流し込む。じゅわ、という音がして、甘い香りが部屋中に広がった。焦げないように慎重に、それでいて思い切りよく。端からくるくると巻いていく。あ、少し破れた。でも大丈夫、形は悪くてもちゃんと卵焼きだ。

「できた」

ちょっと不格好だけど、それでも確かに卵焼きだった。初めて自分で作った卵焼き。おそらく、今まで食べてきたどんな料理よりも愛おしい一品だった。

昼前、初奈は病院に向かった。手には朝作った卵焼きを詰めた小さなタッパーと、コンビニで買ったおにぎりが入った袋。病室のドアを開けると、そこには思いがけない光景が広がっていた。

「あ、初奈ちゃん!」

達也の声だ。彼はベッドの上で上半身を少しだけ起こしていて、その周りには数人の子供たちと、車椅子に座ったお婆さんが二人。よく見れば、達也の手には折り紙の鶴が握られていて、子供たちは彼に新しい折り紙を教わっているところらしい。お婆さんたちは、そんな様子をにこにこと見守っていた。

「達也くん、この方たちは」

「あ、同じ病室の。っていっても大部屋なんですけど。この子たちは小児科の子で、こっちの方は」

「あんた、この子の彼女かい?」

車椅子のお婆さんが、にんまりと笑って初奈に尋ねた。達也が慌てて手を振る。

「ち、ちが!」

「恋人じゃありません!!」

初奈も思わず一緒に叫んでいた。二人の声がぴったりと重なって、病室に響き渡る。お婆さんたちは腹を抱えて笑い、子供たちは「お兄ちゃんたち顔真っ赤だよ!」と指を差してはしゃいでいる。

「そうかいそうかい。まあ、どっちでもいいけどねえ。若いっていいねえ」

お婆さんが目尻のしわを深くして笑う。達也は枕に顔を埋め、初奈は持っていたタッパーで顔を隠すように俯いた。でも、その顔は二人とも笑っていた。

病院からの帰り道、初奈は自然と足取りが軽くなるのを感じていた。彼と話せたこと、同じ時間を過ごせたこと、それだけで世界が少しずつ色づいていく気がした。

アパートに戻ると、るるかが待っていた。

「あらあら、いい匂い。今度は何を作るの?」

「今日は、サバの味噌煮に挑戦したいんです。るるかさんに教わりながら」

「うふふ。いいわよ」

るるかは手際よく材料を並べていく。サバの切り身、ショウガ、味噌、みりん、酒、醤油、そして顆粒のだし汁。彼女はエプロンを借りると、慣れた手つきでショウガを千切りにし始めた。

「まずは、だし汁にショウガを入れて沸騰させるの。顆粒で十分だからね。沸騰したらサバを入れて。煮汁をすくってかけながら煮る。これが味を染み込ませるコツよ。火が通ったら、味噌をとき入れて十分煮るの。味噌はね、赤みそと白みそを四対一くらいでブレンドすると、ぐっと深みが出るのよ」

初奈は必死にメモを取りながら、るるかの手元を覗き込む。味噌を溶き入れるタイミング、火加減、煮汁のかけ方。すべてが新鮮だった。

「火を止めたら、そのまま自然に冷ますの。このときに味が身に染み込むから。食べるときにもう一度温めて、ネギとミョウガの細切りを乗せて、煮汁を少々かければ。できあがり」

「いい匂い」

思わず声を漏らしたのは初奈だけではなかった。いつの間にか、部屋の入り口にぼたんと箒が立っていた。

「お前ら、また料理かよ。いい匂いにつられて来ちまった」

「ウチらも味見係や! るるかさんの料理は絶品やからなあ!」

初奈が「どうぞ」と声をかけるより先に、二人はすでに靴を脱いで部屋に上がり込んでいていた。四人で囲む小さなテーブル。ほかほかと湯気を立てるサバの味噌煮を中心に、るるかが手早く作った副菜が並ぶ。

「いただきます」

サバの味噌煮は、身がふっくらと柔らかく、味噌の甘みとショウガの香りが絶妙に調和していた。初奈は一口食べて、思わず目を見開く。

「美味しい。本当に美味しいです、るるかさん」

「うふふ。初奈ちゃんが頑張ったからよ。味噌のブレンドも上手にできてたわ」

「いやほんと、これうめえわ」

「ウチ、もう三切れ目や! おかわり!」

四人の笑い声が、アパートの小さな部屋に響く。それは、かつて事務所のスタジオで練習に明け暮れていたあの日々と少し似ていて、それでいてどこか違う、新しい日常の風景だった。

夕方になり、ぼたんたちが帰っていく。ぼたんは「また来る」とぶっきらぼうに言い残し、箒は「今度はたこ焼きパーティーや!」と宣言し、るるかは「次は洗濯機の応用編を教えるわね」と微笑んで去っていった。ドアが閉まり、部屋に一人きりになる。急に静かになった空間で、初奈はしばらく玄関に立ち尽くしていた。

「そうだ。ダンスをしよう」

初奈は部屋の中央に立つと、目を閉じて深呼吸をした。頭の中に浮かぶのは、大山に強いられたはしたない振り付け。身体をくねらせ、男たちの視線を集めるための動き。あの振り付けを、自分の身体から消し去りたかった。自分のダンスを取り戻すために、体が覚えている古い記憶を、新しい動きで上書きしていきたかった。

音楽はスマートフォンから。かつて路上で歌っていた頃の、自分のオリジナル曲を流す。静かなバラードに合わせて、初奈はゆっくりと身体を動かし始めた。あの頃の自分が確かにここにいることを確かめるように、指先まで意識を集中させる。はしたない動きじゃない、初奈がもともと持っていた、しなやかで優しいダンス。身体を動かしていると、雑念が消えていく。大山の声も、社長の冷たい目も、お父様の平手も、全部が汗と一緒に流れていく気がした。

一時間ほど練習して、汗をかいた身体をシャワーで洗い流す。るるかに教わった通り、洗濯機のスイッチを入れてから浴室に向かう。温かいお湯が、疲れた筋肉をほぐしていく。

「気持ちいい」

そして、柔軟剤の香りがする布団に潜り込む。暗い天井を見上げながら、初奈は今日一日のことを振り返った。洗濯物を干して、卵焼きを作って、病院に行って、お婆さんに「彼女かい」と聞かれて、達也くんと一緒に真っ直ぐ否定して、それからるるかさんと料理をして、ぼたんさんと箒ちゃんも来て、みんなで笑って、ダンスをして、シャワーを浴びて。

「これが、私の新しい一日」

誰に決められたわけでもない。誰に命令されたわけでもない。自分で選んで、自分で動いて、自分で作り上げた一日。こんな日が来るなんて、あの事務所の倉庫で震えていた頃は想像もできなかった。

「明日も、頑張ろう」

初奈はそっと呟いて、目を閉じた。眠りに落ちる直前、脳裏に浮かんだのは。病室で笑う達也の顔だった。

「明日も、逢いに行こう。彼に、逢いに」

そうして、初奈の新しい一日は静かに更けていく。窓の外では、大晦日まであと二日と迫った街の灯りが、冬の夜空に優しく瞬いていた。


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