初奈の料理奮闘記
病院からの帰り道、アパートへ向かう道すがら、初奈はふと足を止めた。夕暮れの住宅街には、どこからか味噌汁の香りが漂ってくる。カレーを炒める匂い、焼き魚の香ばしい匂い。家族の夕食の時間が近づいていることを知らせる、優しい匂いだった。
「……お腹、空いたな」
そう呟いて、初奈はあることに気がついた。食事をどうするか、これまで考えたことすらなかったのだ。
櫻坂邸では、いつも料理人が三食を用意してくれていた。栄養バランスの整った献立、季節の食材を使った上品な味付け。初奈が台所に立つことは一度もなかった。事務所の寮に住んでいた頃は、そもそも食欲が湧かず、サプリメントとゼリー飲料で済ませることがほとんどだった。
つまり、初奈は一度も自分で料理をしたことがなかったのである。
「スーパー……」
そういえば、と記憶をたどる。スーパーマーケットという場所には、子どもの頃、母と一緒に一度だけ行ったことがあるかもしれない。でも、それは遠い記憶で、ほとんど覚えていなかった。初奈はスマートフォンの地図で近所のスーパーを検索し、おそるおそる足を踏み入れた。
自動ドアが開くと、そこは初奈にとって未知の世界だった。野菜、肉、魚、調味料、冷凍食品、日用品。ありとあらゆるものが所狭しと並べられ、主婦らしき人々が慣れた手つきで商品をカゴに入れていく。初奈は入口で立ち尽くし、まずどこに行けばいいのかすらわからなかった。
「ええと……まず、お米……?」
米売り場にたどり着くまでに五分かかった。しかも、米には「コシヒカリ」「あきたこまち」「ひとめぼれ」など様々な種類があり、どれを買えばいいのかまったくわからない。初奈は悩んだ末に、一番小さい袋を手に取った。それから野菜売り場に行き、キャベツとニンジンと玉ねぎを選ぶ。肉売り場では、鶏もも肉と豚こま切れ肉のどちらを買うべきかでまた悩んだ。調味料売り場では、醤油だけでも五種類以上あって、途方に暮れた。
結局、簡単そうなレシピをスマートフォンで検索しながら、なんとか基本的な食材を買い揃えることができた。レジでの支払いも、最初はバーコードの読み取り音にびくびくしていたが、店員が優しく教えてくれて、どうにか無事に会計を終えた。
アパートに戻り、初奈は台所に立った。といっても、ワンルームの簡素なキッチン。シンクと一口コンロと小さな冷蔵庫があるだけだ。まずは基本の料理として、レシピサイトで見つけた「鶏肉の照り焼き」と「味噌汁」に挑戦することにした。スマートフォンをレシピ画面にして、エプロンを身につける。やる気だけは十分だった。
「ええと、まず鶏肉を一口大に切って……あっ」
包丁の扱いがぎこちなく、鶏肉は大小バラバラの不格好な形になった。フライパンに油を引いて火をつける。レシピには「中火」と書いてあるが、中火がどのくらいの火加減なのかわからない。とりあえずコンロのつまみを真ん中に合わせた。
鶏肉をフライパンに入れると、じゅわっと音がして油が跳ねた。
「きゃっ!」
初奈は思わず後ろに飛び退いた。その間に鶏肉の端が焦げ始めている。慌てて菜箸でひっくり返すが、今度は生焼けなのか焼きすぎなのかわからない。それでもなんとか火が通ったように見えたので、醤油とみりんと砂糖を加えて絡める。レシピでは「照りが出るまで炒める」とあるが、照りとは何なのか。初奈がもたもたしているうちに、フライパンの中のタレが焦げついて煙が出始めた。
「火事!?」
初奈は慌てて換気扇を回し、窓を開けた。煙はなんとか収まったが、フライパンの中の鶏肉は黒く炭化し、タレは苦そうな匂いを放っている。
味噌汁も惨憺たるものだった。だしの取り方がわからず、顆粒だしを入れすぎて塩辛くなり、具の豆腐はぐちゃぐちゃに崩れ、ワカメは溶けるまで煮込んでしまった。
テーブルに並んだ「料理」を見つめながら、初奈は深いため息をついた。
「……食べられないことは、ない。多分」
恐る恐る一口、黒焦げの鶏肉を口に入れた。表面は苦く、中は生焼けで、タレは塩辛い。味噌汁はもはや味噌の塊のような濃度で、しょっぱくて飲めたものではない。初奈は箸を置き、しばらく黙って自分の「作品」を見つめていた。お嬢様育ちの自分には、こんな初歩的なことすらできないのかと思うと、情けなさが込み上げてくる。胸がきゅうっと締めつけられるような感覚に襲われて、涙が出そうになった。だけど、ここで諦めたら、何も変わらない。初奈はスマートフォンを手に取り、るるかに電話をかけた。
三十分後、アパートのチャイムが鳴った。玄関を開けると、るるかがエプロンと買い物袋を手に立っている。
「うふふ、呼ばれて飛んできました」
「るるかさん……!すみません、急に呼び出してしまって」
「いいのよ。それより、まずはこの惨状をなんとかしましょう」
るるかは台所を見て、一瞬だけ目を丸くした。黒焦げのフライパン、塩辛そうな味噌汁の鍋、散乱した調味料。けれど彼女はすぐに微笑み、手際よく片付けを始めた。フライパンを洗い、まな板を拭き、冷蔵庫の中身を確認する。その手つきは見事で、まるで料理番組を見ているようだった。
「まずは基本からね。包丁の持ち方、材料の切り方、火加減の見方、調味料の計り方。一つずつ、一緒にやりましょう」
「はい!よろしくお願いします」
るるかの指導は丁寧でわかりやすかった。包丁は刃の根本から先端に向かって動かすこと。玉ねぎを切るときは繊維に沿って切ると涙が出にくいこと。中火とは炎が鍋底にちょうど当たるくらいの火加減であること。初めて知ることばかりだった。
「味噌汁はね、だしを取るところから始めると格段に美味しくなるの。でも今は顆粒だしで十分。分量さえ間違えなければ、ちゃんと美味しくなるから」
「分量……」
「そう。大さじ一杯、小さじ一杯。これをきちんと計るだけで、味は大きく変わるわ」
初奈はるるかの指導のもと、もう一度鶏肉の照り焼きに挑戦した。今度は火加減も、調味料の分量も、るるかがそばで見ていてくれる。フライパンの中で、鶏肉がこんがりと焼け、醤油とみりんの甘い香りが部屋に広がる。味噌汁も、顆粒だしの量を正確に計り、豆腐は崩さないようにそっと入れて、ワカメは最後に加えた。
完成した料理を口に運ぶと、初奈は思わず声を上げた。
「……美味しい!」
「うふふ、よかった。初奈ちゃん、筋がいいわ。初めてとは思えない」
「るるかさんのおかげです。ありがとうございます」
初奈は心の底から感謝した。一人だったら、きっと挫折してコンビニ弁当に逃げていただろう。
「るるかさん、私、これからも料理を教わりたいんです。時間があるときに、少しずつでいいので」
「もちろんいいわよ。でも、どうして急に料理を?」
初奈は少しだけ言い淀んでから、正直に答えた。
「このままじゃ、達也くんが退院したときに困ると思って」
言った瞬間、自分の言葉の意味に気づいて、初奈の顔がぼっと赤くなった。
(いま、私、達也くんが退院した後のことを考えてた。自然に。達也くんと二人で暮らす未来のことを、何の疑いもなく)
「ち、ちが、そういう意味じゃなくて、ただ、達也くんはまだ足が動かないから、退院してもすぐには料理ができないだろうし、せめて私が何か作れたらって、ただそれだけで」
「うふふ」
「るるかさん、笑わないでください!」
「笑ってないわよ。ただ、とても素敵なことだと思っただけ」
るるかは本当に嬉しそうに微笑んで、初奈の手をそっと握った。
「初奈ちゃん、あなたが誰かのために何かをしたいと思う気持ち、それがあなたの一番の魅力なんだから」
初奈は俯いたまま、耳まで真っ赤になっていた。それでも、否定はしなかった。るるかの言う通りだった。誰かのために、何かをしたい。それが私の原点だった。あの日、誰かの世界を美しくしたいと願ってアイドルになった。今度は、たった一人の人のために、料理を覚えたい。それもまた、同じ気持ちなのだと初奈は思った。
るるかが帰ったあと、初奈は一人で片付けをしながら、冷蔵庫の中を整理した。卵、牛乳、野菜、豆腐。ほんの少しずつだけれど、確かに自分の手で選び、自分の手で料理した食材たち。それを見ていると、なんだか誇らしい気持ちになった。
そして、冷蔵庫のドアを閉めながら、初奈は小さく呟いた。
「……達也くん、美味しいって言ってくれるかな」
そんな未来が、すぐそこまで来ていた。




