新しい家
田中先輩と伊藤先輩から鍵を受け取った初奈は、その足で達也のアパートへと向かった。住所は二人が書いてくれたメモに記されている。都内でも下町と呼ばれる地域の、駅から徒歩十五分。家賃の安さで選んだであろう築三十年の二階建てアパートの、二階の一番奥。初奈は古びた鉄製の階段を一段一段踏みしめながら、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえるのを感じていた。
(私、本当に来ちゃった)
手に握りしめた鍵は、道中ずっとポケットの中で温まっていた。金属のはずなのに冷たくなくて、まるで彼の体温が残っているかのようだった。
部屋番号二〇三と書かれたドアの前に立つ。隣の部屋からはテレビの音がかすかに漏れ聞こえ、どこかで誰かが夕飯の支度をしているのか、ほのかに味噌汁の香りが漂ってきた。初奈は深く息を吸い込んで、鍵を差し込んだ。カチリ、という小さな音がして、ドアがゆっくりと開く。
(お邪魔します)
誰もいないとわかっていても、初奈はそう呟かずにはいられなかった。
六畳一間の質素な部屋だった。壁にはアニメのポスターが数枚貼られ、窓辺には小さな観葉植物が一つ。本棚には参考書と漫画がきっちりと背表紙を揃えて並べられ、机の上には使いかけのノートとペンケース。ベッドはきちんと整えられていて、シーツには一つも皺がない。真面目な彼らしい、整理整頓の行き届いた空間だった。
(これが、達也くんの)
初奈はそっと部屋の中を進み、本棚の前に立った。参考書の隣に、さりげなく置かれたCDが目に入る。
それは、初奈のデビューシングルだった。音羽堂の前で手売りしていた、あのCD。大山に踏み砕かれてしまったものとは別の一枚が、ここにもある。ケースは少し擦り切れていて、何度も何度も開け閉めされたことを物語っていた。
その隣には、手作りの缶バッジが飾ってあった。初奈が初めて自分でデザインして、ぼたんとるるかと三人で作った、あのグッズ。星の絵が描かれた缶バッジ。そしてポストカードも、アクリルキーホルダーも、すべてが大切そうに飾られている。
(過激路線のグッズは、一つもない)
初奈は気づいていた。大山に強要されて作った写真集も、過激な衣装のブロマイドも、この部屋のどこにも置かれていなかった。彼は本当に、初奈の歌だけを見ていてくれたのだ。初奈の胸の奥が、じんわりと熱くなった。
ふと、以前渋谷で見かけた光景を思い出す。田中先輩と伊藤先輩が達也にグラビア写真集を押し付けていた場面。彼は必死に「僕のじゃない!」と叫んで逃げていた。あれから数ヶ月。初奈は悪いと思つつも、ベッドの下や本棚の隅をそっと覗いてみた。あの時の写真集が、もしかしたら、と。
(ない)
ベッドの下にも、クローゼットの奥にも、そういった類のものは一切なかった。初奈はホッとして、そしてすぐに自分の行動を恥じた。疑うような真似をしてしまった。でも、それ以上に、何もなかったことが、ただただ嬉しかった。
(ごめんなさい、達也くん。それと、ありがとう)
その後、初奈は借りたシャワーを浴びた。病院から直行したため着替えは持ち合わせておらず、仕方なくクローゼットから拝借した彼の白いシャツとスウェットを身につける。ぶかぶかの袖をまくりながら、押入れから布団を引っ張り出した。シーツからは、彼の匂이가した。柔軟剤の優しい香りと、ほんの少しだけ汗の匂いが混ざった、達也くんの匂い。
(ドキドキする)
初奈は布団に包まりながら、自分の心臓がうるさいくらいに脈打っているのを感じていた。天井を見つめながら、色々なことを思う。ここが彼の部屋で、彼の布団で、彼の匂いに包まれている。そんな状況を考えれば考えるほど、顔が熱くなった。この胸の鼓動はなんだろう。そう思ったが、それが何なのかはもうとっくにわかっていた。ただ、まだ認めるのが照れ臭いだけで。
眠りにつく直前、初奈はそっと呟いた。
(おやすみなさい、達也くん。明日、また逢いに行きます)
十二月二十八日。年の瀬も迫った早朝、初奈は病院への道を急いでいた。手にはコンビニで買ったサンドイッチと、小さな花。病室のドアを開けると、達也はベッドの上で奇妙なほどに身を固くしていた。背筋をピンと伸ばし、まるで金縛りにあったかのように一点を見つめている。初奈が入ってきても、ぎこちなく首を動かしただけで、まともに目を合わせようとしない。耳が真っ赤なのは、朝日が差し込む窓のせいだけではないようだった。
「おはようございます、達也くん。どうかなさいましたか」
「お、おはようございます。初奈ちゃん、あの、その」
達也は言葉を詰まらせ、包帯の巻かれた指をもじもじと動かしている。彼は今朝、田中先輩から「初奈殿が達也氏のアパートに退院まで住むでござる」と聞かされ、それ以来ずっとこの調子だった。初奈にはすぐに察しがついたけれど、あえて何も言わずに彼の言葉を待った。
「ぼ、僕の部屋、すごく散らかってなかったでしょうか。というか、僕の部屋に初奈ちゃんがいるって、あ、いや、住むって、その」
「とても素敵な部屋でした」
初奈がにっこりと微笑むと、達也の動きがぴたりと止まった。初奈はゆっくりとベッド脇の椅子に腰掛け、彼の手にそっと触れながら続ける。
「整理整頓が行き届いていて、真面目な達也くんらしいお部屋でした。私のグッズも、ちゃんと飾ってくれていて、しかも、変なグッズは一つもなくて」
「み、見ました!? ていうか、変なグッズって」
「それに布団もふかふかで、あたたかくて」
初奈は少しだけ間を置いて、いたずらっぽく微笑んだ。
「ずっと住みたいくらいです」
達也の顔が、一瞬で茹で上がった。耳どころか首まで真っ赤になり、口をパクパクさせている。
「ず、ず、ずっと、!? は、初奈ちゃんが、ぼ、僕と、いや、その、あの!」
初奈はそんな達也の様子を、小首をかしげてじっと見つめていた。自分の言葉が彼にどれだけの影響を与えたのか、本当にわかっていないようだった。
「あの、私、何か変なことを言いましたか?」
「い、いや! 変じゃない! 変じゃないけど、その!」
彼がこうして慌てふためくたびに、初奈の心臓も実は同じくらい跳ねている。でもそれは、苦しいドキドキじゃなかった。むしろ心地よくて、ずっとこのままでいたいと思えるような、そんな鼓動。
「あ、そうだ。私、退院したら達也くんに返しますからね」
「返す? 何を」
「あなたの、場所です」
初奈はそう言って、優しく微笑んだ。その笑顔を見て、達也はしばらく言葉を失っていたが、やがて、照れ臭そうにうつむきながら、小さな声で言った。
「ずっと、いてもいいですよ」
初奈の目が、見開かれた。今度は彼女の顔が、みるみる赤くなっていく。二人とも真っ赤な顔で見つめ合い、どちらからともなく照れ笑いをこぼした。
十二月の朝日が、白い病室を金色に染めている。窓の外では、新しい年を待つ街のざわめきが聞こえていた。すべてが終わり、すべてがこれから始まる、そんな予感に満ちた、静かで温かな朝だった。




