これから
病室が笑い声に包まれていると、控えめなノックの音が響いた。箒が「はーい」と返事をすると、ゆっくりと扉が開く。そこに立っていたのは、九条玲子プロデューサーだった。いつもはきりりとしたスーツ姿の彼女が、今日はどこか疲れ切った表情で、目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。手には小さな花束を抱えていた。
「九条さん……」
初奈が呟くと、九条は静かに病室に入り、まず達也のベッドの前に立った。そして、深々と頭を下げた。
「浅見達也さん、今回のことは本当に、言葉もありません。ルミナスプロダクションのスタッフとして、これまで起きていたことを止められなかった。あなたにこんな怪我をさせてしまったことも、櫻坂初奈を守れなかったことも、すべて私の責任です。本当に申し訳ありませんでした」
達也は慌てて首を振ろうとして、また痛みに顔をしかめた。
「い、いえ!九条さんは何も悪くないです!むしろ、初奈ちゃんのことをずっと気にかけてくれていたのは九条さんだって、僕、知ってますから」
九条は顔を上げ、少しだけ目を潤ませた。それから、初奈の方に向き直る。
「櫻坂さん。あなたにも、謝らなければならないことが多すぎます。大山を止められなかったこと、あなたがどんどん追い詰められていくのを見ていることしかできなかったこと。プロデューサーとして、何の力にもなれませんでした。本当に、ごめんなさい」
初奈は静かに首を振った。
「九条さんは、いつも私の話を聞いてくれました。衣装を自分で縫いたいと言ったときも、グッズを手作りしたいと言ったときも、いつも背中を押してくれた。それだけで、十分でした」
「……ありがとう」
九条はハンカチで目元を押さえ、それから改めて顔を上げ、四人のアイドルを見渡した。
「実は、今日ここに来たのは、もう一つ話があるからなの」
九条は背筋を伸ばし、真剣な表情で言った。
「ルミナスプロダクションは、今日付けで事業を停止し、近く破産手続きに入ります。神宮寺前社長の逮捕と大山の不祥事を受けて、スポンサーがすべて撤退しました。それ自体は当然の報いだと思います。でも、あなたたちには何の責任もない。だから」
九条は一呼吸置いて、続けた。
「私、新しい事務所を立ち上げることにしました。まだ構想段階で、何も決まっていないけれど、もしよければ、あなたたち四人を、最初の所属タレントとして迎えたい。ルーチェプロダクション。イタリア語で『光』を意味する言葉よ。今度こそ、アイドルを搾取しない、歌と夢を大切にする事務所を作りたいの」
病室が静まり返った。最初に口を開いたのは、ぼたんだった。
「……悪いけど、断る」
九条が少しだけ肩を落とす。ぼたんは腕を組んだまま、きっぱりと言った。
「オレはもう、事務所ってだけで信じられねえ。九条さんのことは信頼してる。でも、組織になるとどうしても、上に立つ人間が変わることもある。そうなったとき、また同じことが起きねえとは限らねえ」
「ぼたんちゃん……」
「オレはこれから、フリーでやる。自分のことは自分で守る。そのほうが性に合ってる」
るるかも静かにうなずいた。
「私も、同じ気持ちです。九条さんには感謝しています。でも、しばらくは自分の足で立ってみたい。弟や妹にも、お姉ちゃんは自分で道を選んだんだって、胸を張って言いたいから」
「ウチもや!ウチもフリーでやる!」
箒がぴょんと手を挙げた。
「ウチはまだまだ新人やけど、自分で仕事を取って、自分で歌っていくわ。初奈お姉ちゃんたちと一緒なら、なんでもできる気がするんや!」
九条は少しだけ悲しそうに、それでも微笑んで、最後に初奈を見た。
「初奈ちゃんは、どうするの」
初奈はしばらく黙っていた。窓の外を見ると、太陽はもう西に傾き始めている。長い一日が終わろうとしていた。
「……私も、お断りします」
「そう」
「ごめんなさい、九条さん。でも、私ももう、事務所に所属するのは怖いんです。それに」
初奈は振り返って、ベッドの上の達也を見つめた。
「彼が守ってくれたこの夢は、今度は私が、自分の力で育てていきたいんです」
九条は涙をぬぐい、しっかりとうなずいた。
「わかった。残念だけど、あなたたちの気持ちは尊重する。でも、これだけは覚えておいて。私はいつでも、あなたたちの味方だから。困ったことがあったら、いつでも連絡して」
そう言って、九条は花束を初奈に手渡し、静かに病室をあとにした。
九条が去ったあと、ぼたんが初奈に近づいて言った。
「初奈、一緒にやろう。四人で」
初奈の心臓が、どきりと跳ねた。それは、ずっと夢見ていたことだった。四人で肩を並べて、歌いたい歌を歌う。誰にも邪魔されずに、自分たちの言葉で。でも、初奈はまだ、自分が再び人前に立てるとは思えなかった。あの露出の多い衣装。あの引き攣った笑顔。まだ、思い出すだけで体が震えた。
「私……まだ、人前に出るのは、怖くて」
「アイドルをやめるのか」
ぼたんの問いに、初奈は俯いた。
「わかりません。やめるつもりは、ないんです。でも、すぐには」
すると、それまで黙って話を聞いていた達也が、かすれた声で言った。
「初奈ちゃんの歌……僕は、待ってます」
初奈は顔を上げた。
「達也くん……」
「無理しなくていいです。でも、初奈ちゃんがもう一度歌いたいと思ったときは、僕はまたサイリウムを振りに行きます。何百回だって、何千回だって」
初奈は涙が込み上げてきて、言葉が出なかった。でも、自分の中に確かな気持ちが芽生えているのを感じていた。
(また、歌いたい)
彼が命がけで守ってくれたこの夢を、なかったことにしたくなかった。いつになるかはわからない。それでも必ず、またあのステージに立ちたいと思った。
九条玲子が病院を出ると、冬の夕暮れが街を包んでいた。1人歩道を歩く。コートの襟を立て、マフラーに顔を埋めるようにして。街は年の瀬の慌たださに包まれ、誰もが急ぎ足で行き交っている。年の瀬のセールを知らせる看板、クリスマスが終わって正月飾りに変わった街路樹。そのすべてがまるで遠い世界の出来事のように感じられた。
(何が、新しい事務所よ)
九条は自分の内なる声に責め立てられていた。先ほど病室で四人のアイドルたちに告げられた言葉がまだ胸の中でぐるぐるとは回っている。
『もう大人は信用できない』『事務所というものに入りたくなかった』
それはかつて彼女が守ると誓った少女たちの声だった。なのに彼女は守れなかった。社長と大山の暴走を止められなかった。組織の中にいて上からの命令に逆らえず見て見ぬふりをしていた時間が確かにあった。その結果がこれだ。少女たちの心には深い傷が残り浅見達也という一人の少年が全身に大怪我を負った。彼女が立ち上げようとしている新しい事務所、Luce、イタリア語で「光」。なんとおこがましい名前だろう。あの子たちに光を見せるどころか闇を押し付けたのは自分ではないか。
(あの子達にあんなことを言わせてしまった私にその資格があるの?申し訳なさしかないじゃない)
涙が溢れてきた。30近い女が往来の真ん中で泣いている。通行人がちらりと彼女を見てでもすぐに目を逸らす。年の瀬の忙しい街中で誰も立ち止まってはくれない。一人で泣くにはこの街は広すぎた。
その時だった。
「九条さん!!」
後ろから誰かが走ってくる足音が聞こえた。それも一人じゃない。何人もの足音が彼女を追いかけてくる。九条が涙を拭って振り返るとそこには水瀬アリアと見覚えのある女性たちが立っていた。ついさっきまで病室で達也に感謝を伝えていた大山に傷つけられた元アイドルたちだった。
「あなたたち、どうして」
「九条さん」
アリアは肩で息をしながらも真っ直ぐに九条の目を見つめた。
「私たち、聞いてしまいました。九条さんが新しい事務所を立ち上げるって。そこで、もし、もしよかったら」
アリアは後ろの女性たちと顔を見合わせてそれから再び九条に向き直った。
「私たちもその事務所で再スタートしたいんです」
「え?」
「九条さんは昔から私たちのことを気にかけてくれていました。大山に潰された私たちを見捨てずに連絡先を教えてくれた。病院にも見舞いに来てくれた。どんなに上から睨まれても私たちの話を聞いてくれました」
後ろの女性たちも口々に言葉を紡いでいく。
「私、もう歌えないと思ってた。でも浅見さんが戦ってくれて初奈ちゃんの歌を聞いて、もう一度、もう一度だけ歌いたいって思ったんです」
「私も、外に出るのが怖かった。でも今日ここに来られて、九条さんならもう一度だけ信じてみたいって」
「ルーチェに入れてください。私たちにももう一度だけチャンスをください」
九条はその場に立ち尽くした。さっきまであんなに自分を責めていたのに今は胸がいっぱいで声が出ない。
「あなたたち、本気なのね」
「本気です。あの子たちが断ったから私たちはその代わりじゃない。私たちは私たちの意志であなたについていきたい」
「っ」
次の瞬間、九条玲子は歩道の真ん中で声を上げて泣いていた。29歳のキャリアウーマンがみっともなく鼻をすすり子供のように嗚咽を漏らしている。通行人が何事かと振り返るがもう気にならなかった。アリアがそっと彼女の肩を抱き他の女性たちも集まって自然と円陣のようになった。
「ありがとう、ありがとう!!」
九条は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて空に向かって叫んだ。
「初奈、達也くん、あなたたちのおかげで私はまだ走れる!!」
彼女の叫びは年の瀬の雑踏の中に吸い込まれていった。それは悲しみの声ではなく新しい始まりを宣言する産声のようにも聞こえた。
夕方になって、病院の面会時間が終わりに近づき、みんなが帰り支度を始めた。田中先輩と伊藤先輩は「達也氏のアパートの掃除をしておくでござる」と言い残して颯爽と去っていった。剛田さんも「また来る」と静かに頭を下げ、病室をあとにした。
初奈は自分の荷物をまとめながら、ふと手を止めた。帰る場所がない。櫻坂邸はもう自分の家ではない。寮は昨日までルミナスの施設だったから、もう使えない。ぼたんが初奈の様子に気づいて、声をかけた。
「初奈、お前、今日どこに帰るんだ」
「……まだ、決めてなくて」
「なら、オレんちに来い。狭いけど、一晩くらいなら」
「でも」
「遠慮すんな。るるか先輩も箒も、それでいいだろ」
「もちろんよ。初奈ちゃん、困ったときはお互いさま」
「ウチんちもええで!布団は一つしかないけど!」
みんなが口々にそう言ってくれて、初奈は胸がいっぱいになった。
そのとき、廊下の方から、田中先輩と伊藤先輩の声が聞こえてきた。どうやらエレベーターを待っているらしい。
「達也氏のアパート、めちゃくちゃ散らかってるでござるよ。引っ越してから一度も掃除してないんじゃないか」
「左様。今日中にあの部屋をなんとかせねば。あれでは人を呼べないでござる」
「人を呼ぶといえば、達也氏はしばらく入院だから、あのアパート、誰か住んだほうが管理上も良いでござるな」
初奈はその会話に、ぴくりと反応した。そして振り返り、ぼたんに言った。
「ぼたんさん。やっぱり、私、行きたい場所があります」
「どこだよ」
初奈は少しだけ迷って、でもはっきりと言った。
「達也くんのアパートに、住めないでしょうか」
ぼたんの顔がみるみる険しくなった。
「はあ!?お前、正気か!?アイドルが、男の部屋に転がり込むとか、そんなの許されるわけが」
「初奈ちゃん」
るるかが、そっとぼたんの腕を取った。いつも通りのおっとりとした微笑みだったが、目は真剣だった。
「初奈ちゃんが自分で決めたことなら、私たちが口を出すことじゃないと思うわ」
「るるか先輩……でも」
「初奈ちゃんは、ずっと一人で頑張ってきたの。これからは、初奈ちゃん自身が幸せになることを選んでいいのよ」
ぼたんは口を開きかけて、閉じた。何か言いたそうだったが、るるかの穏やかな目を見て、ため息をついた。
「……わかった。でも、ちゃんと定期的に連絡しろよ。何かあったらすぐに言え。それから」
「ふふ、ありがとう、ぼたんさん」
田中先輩と伊藤先輩はお互いの顔を見合わせてから恭しく初奈に鍵を差し出した。
「初奈殿、これが達也氏のアパートの鍵でござる」
「達也氏には拙者たちから伝えておくでござる」
鍵を受け取った初奈の手の中でそれはずっしりと重く感じられた。それはただの金属の塊じゃない。自分の意思で掴み取った未来への鍵だった。
「ありがとうございます。大切にします」
初奈は空を見上げた。冬の夕焼けが街をオレンジ色に染めている。明日はきっといい天気だ、そんな予感がした。




