歌が繋ぐもの
達也の病室は、朝からちょっとしたお祭り騒ぎだった。
ぼたん、るるか、箒、田中先輩、伊藤先輩、剛田さん。すでに六人もの見舞客がひしめいている。そこへ追い打ちをかけるように、廊下から複数の足音が近づいてきた。それも一人や二人ではない。ナースステーションの方で何やら慌ただしいやりとりが聞こえたかと思うと、病室のドアが遠慮がちにノックされた。
「失礼します。浅見達也さんは、こちらの病室でしょうか」
顔を覗かせたのは、初奈よりも少し年上に見える女性だった。華奢な体に、シンプルなワンピース。顔色はまだ少し青白く、目の下にうっすらと隈がある。彼女がドアを完全に開けると、その後ろに控えていた何人もの女性たちの姿が明らかになった。ざっと見て五人以上。いずれも若く、それぞれが病み上がりのような面差しをしている。
「あなたたちは」
初奈がそう尋ねようとした時、最前列の女性がベッドの上の達也を見て、その目を大きく見開いた。次の瞬間には、もう涙がこぼれている。
「浅見さん、ですね。私、以前アイドルをしていた者です。大山に、大山に潰されて、もう歌えなくなって、でも、あなたが、あなたが大山を」
彼女はそこまで言うと、言葉にならない嗚咽を漏らした。その後ろにいた女性たちも、次々と涙をこぼし始める。彼女たちこそ、達也が訪ね歩いた元アイドルたちだった。歌えなくなった人、夢を諦めた人、外に出られなくなった人、この世を去った人の友人。みな大山に傷つけられ、それでも九条さんから連絡を受けてここに駆けつけてきたのだ。
「立てるようになったんです。外に出られるようになったんです。あなたが、あなたが戦ってくれたから」
「おかげで、私も、もう一度歌いたいって、そう思えるようになって」
女性たちは次々とベッドに近づき、口々に感謝の言葉を紡いでいく。
「ちょ、ちょっと待ってくださいみなさん! ぼ、僕は、そんな大したこと! ていうかそんなにたくさんの人が!」
達也はと言えば、全身包帯だらけで身動きも取れないまま、女性たちに囲まれて真っ赤になっていた。こんなに多くの女性に泣きながら感謝されるという未知の体験に、脳が処理能力を超えているのが傍目にもわかる。助けを求めるように周囲を見渡したが、ぼたんは腕を組んでニヤニヤしているだけだし、るるかは「あらあら」と微笑むばかり。箒に至っては涙をぬぐいながらも「たっくんモテ期やん」と茶化している。田中先輩と伊藤先輩は「達也氏、これがオタクの到達点でござる」と謎の感動をしているし、剛田さんは黙って何度も頷いている。
「だ、誰か助けて!」
彼がそう叫ぼうとした時だった。
病室のドアが、もう一度開いた。今度は静かに、控えめに。そこに立っていたのは、初奈がよく知る顔だった。
「水瀬さん」
水瀬アリア。スターライトプロダクションの先輩アイドルであり、初奈がアイドルを目指すきっかけになった人。学園祭で見たあの日の彼女とは違って、今は華やかなステージ衣装を脱ぎ、地味な私服でそこに立っていた。顔は青白く、かつての輝きは影を潜めている。
「桜坂さん」
アリアは初奈の顔を見るなり、深く頭を下げた。
「ごめんなさい。私のせいで、私があの日、学園祭であんなライブをしなければ、あなたはアイドルを目指さなかったかもしれない。大山みたいな男がいる世界に、あなたを誘ってしまった。私が、私が、あなたを」
アリアの声は震えていた。これまでずっと抱え続けてきた罪悪感が、今にも彼女を押し潰そうとしているようだった。だが初奈は、静かに首を振った。
「水瀬さん。顔を上げてください」
初奈の声は優しく、しかし芯が通っていた。
「私は、アイドルにならなければよかったとは一度も思っていません。辛いこともたくさんありました。怖いことも、苦しいことも。でも、それ以上に、大切なものを見つけられたから」
初奈はチラリとベッドの上の達也を見やってから、再びアリアに向き直った。
「それに、あなたのせいで大山に遭ったとしても、水瀬さん自身もまた大山に傷つけられた被害者です。被害者が、別の被害者に謝る必要はありません。だから、だから、もう自分を責めないでください」
「櫻坂、さん」
アリアは、その場に泣き崩れた。彼女はずっと後悔していたのだ。あの日、学園祭でアイドルの素晴らしさを伝えなければ、この少女は大山に傷つけられずに済んだかもしれないと。でも初奈は、そんなアリアを優しく抱きしめた。
病室は静寂に包まれ、アリアの嗚咽だけがかすかに響いている。そこへ、おずおずと声を上げた者がいた。
「あの、すみません」
ベッドの上の達也だった。包帯まみれの手を持ち上げ、痛みに少し顔をしかめながらも、彼ははっきりと言った。
「それ、違うと思います」
病室の空気が、ふと止まった。みんなの視線が達也に集中する。その中で彼は、さっきまで女性たちに囲まれて慌てふためいていたのが嘘のように、静かな口調で話し始めた。それは彼の心からの思いだった。決して上手い言葉ではなかったが、それがかえって彼の真っ直ぐさを物語っていた。
「僕は、勇者でも英雄でもないんです。大山に勝ったのは、正直、まだ信じられないし、覚えてもいません。でも、覚えてることが、一つだけあるんです」
達也は天井を見上げながら、記憶の糸をたぐり寄せるように続けた。痛み止めが切れかけて全身がズキズキと痛む中で、それでも彼ははっきりと思い出していた。
「すごく、怖かった。でも、初奈ちゃんの歌が聞こえた気がして。『待ってるよ』って、そう歌ってるのが聞こえて、それで、なんかもう、身体が勝手に動いて、気がついたら立ってたんです」
彼は照れ臭そうに笑って、初奈の方を向いた。
「初奈ちゃんの歌は、ずっと前から僕の勇気でした。僕だけじゃない。初奈ちゃんが路上で一人で歌ってたとき、そこにいたのは僕だけだったけど、でも今はこんなにたくさんの人がいる。みんな初奈ちゃんの歌に惹かれて集まった人たちで、僕はその一人に過ぎません」
そして達也は、病室にいる全員を見渡して言った。アリアにも、元アイドルたちにも、田中先輩にも、伊藤先輩にも、剛田さんにも、ぼたんにも、るるかにも、箒にも、そして初奈にも。
「初奈ちゃんの歌が、みんなを繋いでるんだと思います。だから、初奈ちゃんの歌が、みんなを救ったんだと思いますよ。僕はただ、その歌を守りたかっただけです」
一瞬の静寂。そして、
「達也くん」
初奈が、涙でぐしゃぐしゃの顔で彼の名前を呼んだ。ぼたんは照れ隠しに顔を背け、るるかはハンカチで目頭を押さえている。箒はもう遠慮なく声を上げて泣いていて、田中先輩と伊藤先輩は抱き合って号泣し、剛田さんは何度も何度も頷いている。アリアも、元アイドルたちも、みんな涙を拭いながら、でも確かに笑っていた。
「え、え? なんかまたみんな泣いてる!? 僕なんか変なこと言いました!? ごめんなさい! えっと、だ、誰か!」
またもや訪れた沈黙と涙の嵐に、当の達也だけが慌てふためいている。そんな彼を見て、初奈は涙を拭いながら微笑んだ。
(やっぱり、この人だ)
この人の言葉はいつも不器用で、でも真っ直ぐで、誰よりも人の心を動かす。ずっとそうだった。路上で一人サイリウムを振ってくれたあの日から、何も変わっていない。
初奈はそっと、彼の包帯の巻かれた手に自分の手を重ねた。彼が驚いてこちらを見る。初奈はただ、泣きながら笑った。病室には、ますます多くの人が集まってきていた。看護師が注意に来るかもしれない。でも今は、この温かな空気を、もう少しだけ味わっていたかった。




