賑やかな病室
達也が目を覚ましてから一時間ほど経った頃、彼の目はだいぶはっきりとしてきた。初奈が手を握ったまま「わかる?私のことがわかる?」と何度も訊くと、達也はほんの少しだけ頬を赤らめて(腫れているのでよくわからなかったが、多分赤らめていた)、かすれた声で「は、はい、初奈ちゃんですよね」と答えた。声はまだ掠れていたが、意識ははっきりしているようだった。
「あ、あれ……僕、生きてるんですか」
達也は天井を見つめ、それから自分の体中に巻かれた包帯と、両足を覆うギプスを見下ろして、呆然と呟いた。記憶が混乱しているらしく、屋上から落ちたあとのことがまったく思い出せないようだった。というより、そもそもどうして生きているのか、自分でも理解できていない様子だった。
「生きてます。あなたは、私を助けてくれたんです」
「僕が……初奈ちゃんを?」
「はい。覚えていないんですか。屋上で、あなたが」
そのとき、病室の扉が勢いよく開いた。
「学ラン!起きたんだな!」
ぼたんだった。後ろにはるるかと箒もいる。三人とも待合室で仮眠をとっていたはずだが、看護師から「患者さんが目を覚ました」と聞いて飛んできたらしい。
「ぼ、ぼたんさん!?それに、るるかさんに箒さんまで!」
達也は飛び上がらんばかりに驚いて、しかしギプスで固定された両足が動かず、ベッドの上でバタバタと不恰好にもがくだけだった。箒がずいずいとベッドに近づき、まじまじと達也の顔を覗き込む。
「たっくん、あんた、すごいんやで!あの大山っちゅう化け物みたいな男に勝ったんやからな!」
「お、大山って……あの、大きい人ですよね。僕が、勝ったんですか?」
「勝ったんや!ぶっ倒したんや!かっこよかったで!」
「か、かっこよ……」
達也は自分のことのように思えず、きょとんとしている。すると、るるかがそっとベッドの脇に歩み寄り、そっと彼の手を取った。達也の体がびくんと跳ねる。人気アイドルに手を握られて、顔は茹で蛸のように真っ赤になった。
「達也くん、本当にありがとう。あなたは、初奈ちゃんだけじゃなくて、私たちみんなを救ってくれたのよ」
「み、みんなを……?あの、るるかさん、手が、その」
「うふふ、照れ屋さんね」
「ち、違います!照れてるとかそういうんじゃなくて!というか、近いです!近いです!」
達也があまりに慌てるので、ぼたんも面白くなって反対側から顔を近づけた。
「おい学ラン、オレは?オレにもなんか言えよ」
「な、何をですか!?ていうか、ぼたんさんも近い!近すぎます!」
「なんだよ、夏祭りで肩組んだ仲だろ」
「肩を組んだのはぼたんさんが勝手に!」
「んだと、この野郎。命の恩人だからって調子に乗るなよ」
「調子に乗ってません!ていうか、命の恩人って、やっぱり僕なんですか!?」
四人に囲まれて、達也は完全にパニックだった。初奈はその様子を見て、思わずくすりと笑った。ああ、いつもの日常が戻ってきた。そんな気がした。
そこに、さらに追い打ちをかけるように、廊下からバタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。
「達也氏ーっ!」
「達也氏、無事でござるかーっ!」
病室の扉が再び勢いよく開き、飛び込んできたのはドル研の田中先輩と伊藤先輩だった。二人とも目の周りを真っ赤に腫らしていて、どうやら一晩中泣いていたらしい。伊藤先輩はハンカチを握りしめたまま、ずずずっと鼻をすすっている。
「ゆ、夢にまで見たでござる!達也氏が大山を倒す姿を!拙者、感動で昨夜は一睡もできなかったでござる!」
「左様!あの達也氏が、あの気弱で、体力テスト学年最下位で、女子と目を合わせることもできなかった達也氏が!感無量でござる!」
「ちょ、ちょっと先輩たち、声が大きいです!病院ですよ、病院!」
達也は真っ赤になって叫んだが、田中先輩は構わずベッドにすがりついた。
「しかし達也氏!拙者たちは、初奈殿の路線変更の際、一度は推し活から離れてしまった不届き者でござる!あのときは辛くて見ていられなかったとはいえ、初奈殿を見捨てたも同然!この通りでござる!」
田中先輩が深々と頭を下げると、伊藤先輩もそれに続いた。初奈は慌てて首を振った。
「お二人とも、顔を上げてください。あなたたちが離れたのは、私があんな姿になってしまったからです。あなたたちのせいじゃない。むしろ、それでも最後まで私の歌を信じてくれた達也くんが、特別だっただけで」
「初奈殿……!」
田中先輩は感動のあまり、その場で大の字に倒れ込みそうになり、伊藤先輩が慌ててそれを支えた。病室はすっかり賑やかになっていた。
そこに、もう一人。ゆっくりと病室の扉が開いて、大きな影が差し込んだ。
「……邪魔する」
現れたのは、剛田さんだった。片腕をギプスで吊り、無表情のままだったが、その目は心なしか潤んでいるように見えた。達也は剛田さんの姿を見ると、申し訳なさそうに頭を下げようとして、首の痛みに顔をしかめた。
「ご、剛田さん……腕、大丈夫ですか」
「俺のことはいい。それより、達也。教えてくれ」
剛田さんは達也のベッドに近づき、その巨体を折るようにして、達也の目をまっすぐに見つめた。
「なぜ勝てた。俺はあっさり腕を折られた。お前は、あの大山を倒した。喧嘩の経験もないお前が、なぜ」
達也はしばらく天井を見つめていた。そして、ぽつりと言った。
「……覚えてないんです。気がついたら、すごく体が熱くなって。誰かに支えられてる気がして。それで、気がついたら立ってました」
「誰かに、支えられてる気がした?」
「はい。誰だったんだろう。わからないけど、一人じゃなかった気がします」
剛田さんは黙ってそれを聞いていた。初奈は、そっと口を開いた。
「剛田さん。私、思うんです」
剛田さんが初奈の方を見た。
「達也くんだけじゃ、なかったんだと思います。大山さんに傷つけられた、たくさんのアイドルたちが、達也くんの背中を押してくれた。そうじゃないかなって。夢を奪われた人たちの無念が、あのとき、達也くんに力を貸してくれたんじゃないかなって」
剛田さんは何も言わず、それからゆっくりと達也に頭を下げた。
「……そうか」
静かな声だった。そして、剛田さんは涙をこぼした。大の男が、人目も憚らずに泣いていた。それを見ていた田中先輩も伊藤先輩も涙をぬぐい、箒はぼたんの背中に顔を埋めて泣き、るるかはハンカチで目元を押さえている。ぼたんだけは泣くのを堪えていたが、それでも鼻の頭が赤くなっていた。
病室は賑やかだった。涙と笑いと、感謝と祝福が入り混じって、白い壁がその喧騒をやさしく包み込んでいた。みんなが泣き笑いしながら、達也のベッドを囲んで、口々に「ありがとう」と「すごい」と「よくやった」と「無事でよかった」と繰り返していた。
達也はその中心で、どうしていいかわからず、ただ真っ赤になって「あの、その、みなさん、近いです、近いですってば」と繰り返していた。初奈はその光景を眺めながら、胸の奥があたたかくなるのを感じていた。こんなにたくさんの人が、達也くんの周りに集まっている。泣いて、笑って、言葉を交わしている。あのショッピングモールで、たった一人でサイリウムを振っていた彼が、今はもう一人じゃない。
初奈はそっと、達也の手を握った。達也はびくっとしたが、初奈はそのまま手を離さず、小さく笑った。
「よかったですね、達也くん。みんな、あなたのことが大好きです」
「は、はつなちゃんも、その」
「ええ、もちろん私も」
初奈がそう言うと、達也はもう何も言えず、顔を真っ赤にして俯いてしまった。ぼたんが「またやってるよ」と笑い、るるかが「うふふ」と微笑み、箒が「たっくん、耳まで真っ赤やで!」と指をさして笑った。病室は、しばらくの間、涙交じりの笑い声で溢れていた。窓の外では、朝の光が街全体を包み込み、雲ひとつない青空がどこまでも広がっていた。




