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貴方に出会えて良かった


朝日が病室の窓から差し込んで、白い壁を淡い橙色に染めていた。カーテンの隙間から見える空は、昨日の雨が嘘のように晴れ渡り、雲ひとつない青が広がっている。窓の外では、小さな鳥が二羽、電線に止まって朝の歌をさえずっていた。


初奈は一睡もしていなかった。


ベッドの横の椅子に腰掛け、達也の手を握ったまま、ただじっと彼の顔を見つめていた。時折、看護師が様子を見に来たが、初奈の姿を見ると何も言わずに静かに出ていった。検温と点滴の確認だけを手際よく済ませると、「また何かあれば呼んでくださいね」と優しく声をかけてくれた。


心電図のモニターが、規則正しい電子音を刻み続けている。その音だけが、この静かな部屋で時が止まっていないことを教えてくれていた。ピッ、ピッ、ピッ。そのリズムが時折、初奈の心臓と同じになっているような気がして、不思議な安心感があった。


夜明けとともに、初奈のスマートフォンが静かに震えた。何度も何度も、着信とメッセージが届いていた。ぼたんからも、るるかからも、箒からも、九条プロデューサーからも。確認する気力はなかったが、画面に表示されるニュースの速報が、嫌でも目に入ってきた。


『スターライトプロダクション元社長・氷川容疑者を逮捕 アイドルへの強要容疑』


『プロデューサー大山容疑者も別件で追送検へ 複数のアイドルが被害を証言』


『スターライトプロダクション、経営破綻か 所属タレントの今後は不透明』


スマートフォンをそっと床に置いた。大騒ぎになっているのだろう。テレビもネットも、この話題で持ちきりに違いない。事務所は倒産する。社長は逮捕された。大山も、あの病院のベッドから動けなくなったまま、裁かれることになる。


(終わったんだ)


すべてが。悪夢が、ようやく。


でも、今の初奈にとっては、そんなことよりも、ただ目の前のこの人のことだけが大切だった。達也の寝顔を、初奈は静かに見つめ続けていた。顔の腫れは、夜が明けるにつれて少しずつ引いてきたようだった。切れた唇も、看護師が丁寧に縫合してくれて、今はもう血が滲むこともない。それでも、額のガーゼと、両手両足のギプスが、彼がどれほどの無茶をしたのかを物語っていた。


(目を覚ましてほしい。でも、ゆっくり休んでほしい)


矛盾した想いが胸の中で渦巻いていた。


待合室では、ぼたんとるるかと箒が、固いベンチで身を寄せ合うようにして眠っていた。箒はるるかの肩にもたれかかり、るるかはぼたんの腕に手を置いたまま目を閉じている。ぼたんは腕を組んで、壁に頭を預け、眉間にしわを寄せたまま眠っていた。三人とも、昨夜はほとんど眠れなかったのだろう。朝の光が廊下に差し込み始めても、目を覚ます気配はなかった。


初奈は、彼女たちを起こさないようにそっと病室の扉を閉めた。またあとで、ちゃんと話をしよう。今は、達也のそばにいたかった。


椅子に戻り、もう一度、達也の手を握る。温かい。生きている。


(歌おう)


ふと、そう思った。初奈はそっと立ち上がり、窓辺に立った。朝の光を背に浴びながら、小さく息を吸い込む。病室には誰もいない。達也だけが、静かに眠っている。窓の外では、カラスが一羽、電線から飛び立っていった。


初奈は、静かに歌い始めた。『はじまりのうた』。初めての自分の歌。母の言葉を綴った、自分にとって一番大切な歌。


「貴方に出会えて良かった、この世界が美しく見えるから」


そのフレーズを歌ったとき、初奈の声は震えなかった。初めて、この歌詞の意味を、心の底からわかっていると思った。お母様が遺してくれたこの言葉は、呪いなんかじゃなかった。ずっと探していた「貴方」は、ずっと前から、すぐそばにいた。


歌い終わると、初奈はそっと目を開けた。なんだか、心が軽くなった気がした。


「……好き」


気がつけば、声に出していた。


ずっと言えなかった言葉。ずっと、自分でも認められなかった気持ち。サイリウムの光を見つけるたびに胸が熱くなったのも。写真集を見てジト目になったのも。プールで監視員のバイトをしている姿に微笑んだのも。ぜんぶ、ぜんぶ。


「好き、だったんだ」


あなたのことが、ずっと。


すると、ベッドの方から、かすかな声が聞こえた。


初奈はハッとして振り返る。


達也の瞼が震えていた。ゆっくりと、ほんの少しだけ、目が開く。黒縁のメガネは外されたままだったが、その奥の瞳が、間違いなく初奈を捉えていた。


「……はつ……な……ちゃん」


「達也くん!」


初奈はベッドに駆け寄り、彼の手を両手で包み込んだ。涙が溢れて、視界が滲む。それでも、彼の目が確かに自分を見つめ返していることが、何よりも嬉しかった。


「よかった……よかった……目を覚ましてくれて……!」


初奈は泣きながら、何度もそう繰り返した。達也はまだぼんやりとしているようだったが、それでも初奈の顔を見て、少しだけ笑ったような気がした。腫れ上がった顔で、唇の端が少しだけ上がって、それが不器用な笑顔だったけれど、確かに世界で一番温かい笑顔だった。


初奈は涙をぬぐい、深呼吸をした。ずっと、ずっと言いたかった言葉がある。この人のサイリウムに救われた日から。この人の拍手に励まされた日から。ずっと、この言葉を伝えたかった。


「私、あなたに出会えて、本当に良かった」


初奈は達也の手を握りしめて、何度も言った。何度も、何度も。その言葉は、かつて母が遺した宝物だった。今度は初奈が、自分の大切な人に伝える番だった。涙で声が震えても、それでも届けたかった。


「ありがとう。あなたが、私の世界を美しくしてくれたの」


そのとき、初奈は気づいていなかった。病室の扉が少しだけ開いていて、目を覚ました三人が、その光景を静かに見守っていたことを。ぼたんが腕を組み、口元をほころばせている。るるかは両手を合わせて、そっと微笑んでいる。箒は八重歯を見せて、泣き笑いのような顔で立っていた。でも、三人とも、邪魔をしないように、その場をそっと離れた。


初奈は、達也の手を握ったまま、何度も何度も伝え続けた。


「貴方に出会えて良かった」


それが、お母様の言葉であり、初奈自身の言葉だった。長い旅の終わりに、ようやく見つけた自分の「貴方」。初奈は涙をぬぐい、何度も、何度も、ありがとうと繰り返した。



第一章 完

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