↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
41/54

涙


深夜の病院に、三人の足音が響いた。


廊下を走りながら、箒は心の中で初奈の電話の声を繰り返していた。震えていた。でもそれは悲しみだけじゃなくて、かすかな希望が混ざっている震えだった。ぼたんは何も言わず、ただ前だけを見て走っていた。剛田さんの腕があっさり折られたあの日から、ずっと胸の奥に刺さっていた棘が、今にも抜けそうで抜けないままだった。るるかは自分のスカートの裾を握りしめながら走っていた。嫌な予感と、でもそれを打ち消したい気持ちが渦を巻いている。


病室の番号を確かめて、箒が一番にドアを開けた。


白い部屋の中央に、ベッドが一つ。そこには全身に包帯を巻かれた少年が横たわっていた。顔はまだ腫れていて、あちこちにガーゼが当てられている。それでも、その寝顔は不思議なほど穏やかだった。ベッドの横の椅子に、初奈が座っていた。破れた衣装の上に看護師から借りたカーディガンを羽織り、疲れ切った顔で達也の手を握っている。


「初奈お姉ちゃん!」


箒が駆け寄り、初奈に抱きついた。初奈はかすかに微笑んで、箒の背中を軽く叩く。ぼたんとるるかも続いて病室に入り、ベッドの上の達也と、その傍らに座る初奈の姿を、呆然と見つめていた。


「何があったんだ、初奈」


ぼたんの声は震えていた。初奈は静かに、それでも一言一言を確かめるように、今起きたことを話し始めた。大山に連れ込まれたこと、押し倒されて服を破られたこと、もうすべてを諦めかけたこと。そのとき、楽屋の扉を破って達也が飛び込んできたこと。屋上まで逃げたこと。達也が何度も殴られながら立ち上がり、叫んだこと。二人がフェンスから落ちて、それでも達也が立ち上がり、最後の拳を振り下ろしたこと。


「大山は……背骨と腰骨、それから、その」


初奈は少しだけ言い淀んだが、小さく息を吐いて続けた。


「睾丸も粉砕したそうです。医師が言っていました。命に別状はないけれど、もう二度と歩けないだろうと。それと、極度の恐怖で脳神経にも損傷が出ていて、精神科の治療も必要になるかもしれない、と。……」


「達也が、あの大山を?」


ぼたんは信じられないという顔で、ベッドの上の達也を見つめた。剛田さんの腕を一瞬でへし折ったあの大山を、喧嘩なんてしたこともないようなこの気弱なオタクが、倒したというのか。ぼたんは唇を噛みしめて、拳をぎゅっと握った。悔しさと、安堵と、言葉にならない感情が渦巻いているのが、初奈にもわかった。


「……私ね、信じてた」


箒が静かに言った。いつもは八重歯を見せて笑っている彼女が、今は泣き出しそうな顔で、それでも笑っていた。


「あの合同ライブのとき、三百人のサイリウムが全部消えても、たった一本だけずっと光ってた。あの光を見て、思ったんよ。この人なら、きっと初奈お姉ちゃんを助けてくれるって。やっぱり、来てくれたんやね。ウチ、嬉しい」


「箒ちゃん……」


初奈の目から、涙がこぼれ落ちた。箒は初奈の手をぎゅっと握り返す。


「ようやった、ほんまようやった。学ランの人、ありがとう」


るるかは無言で立ち尽くしていた。初奈の話を聞き終えると、彼女はゆっくりとベッドに近づき、達也の額にそっと手を当てた。その指先がかすかに震えている。


「歌には……夢がある、って」


ぽつりと呟いた声が、震えていた。


「言ってくれたのね。私たちの歌はゴミじゃないって。身体だけが価値じゃないって。ずっと、ずっと誰かに言ってほしかった言葉を」


るるかはそこで言葉を詰まらせ、そのまま両手で顔を覆った。大粒の涙が指の隙間からこぼれ落ちて、病室の白い床に小さな染みを作る。彼女の中で、どれほどの想いが溢れ出しているのか、初奈にも痛いほど伝わってきた。


「るるかさん……」


初奈がそっと彼女の肩に触れた。るるかは初奈にしがみつき、声を殺して泣いた。これまで一人で抱え込んできたすべてが、今、堰を切ったように溢れ出していた。


ぼたんは壁に背を預けて、じっと達也の顔を見つめていた。思い出していたのは、夏祭りの夜のことだった。あのとき、自分はふざけて肩を組んで「オレも推せ」なんて言って。でもそれ以上に、あいつが初奈に向ける不器用な想いを、ずっと見てきた。今、その想いが現実を動かした。


「……すげえよ、お前」


ぼたんの声が震えている。普段はクールで、弱みなんて絶対に見せない彼女が、今は涙を隠そうともしなかった。


「オレなんか、守るどころか逆に守られて、何もできなかったのに。お前は、命を懸けて、守り抜いたんだな」


ぼたんは俯いて、涙をぬぐった。るるかも肩を震わせて泣き続けている。箒もいつの間にか泣いていた。初奈もまた、涙が止まらなかった。四人はそれぞれに泣きながら、それでも確かに同じ場所にいた。ベッドの上で、達也はまだ目を覚まさない。心電図のモニターが規則正しい電子音を刻み、点滴の滴が落ちる音だけが静かに響いている。初奈は涙をぬぐい、そっと達也の手を握りしめた。


(まだ、伝えていないことがある。目が覚めたら、ちゃんと伝えたい。私の世界を美しくしてくれて、ありがとう)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。