それぞれの夜
十二月二十六日。クリスマスが終わり、街は静かに年の瀬へと向かっていた。午後十時を過ぎた住宅街に人通りはなく、凍てつく風がアスファルトの上を吹き抜けていく。イルミネーションはまだ輝いているが、それを見上げる人もまばらだった。すべての幸福が終わったあとの、取り残されたような夜だった。
ぼたんは六畳一間のアパートの隅で、布団にくるまって震えていた。照明はつけていない。カーテンも閉め切ったまま、何日も外の空気を吸っていなかった。部屋の隅には、かつて四人で撮った写真が立てかけられている。あの日、夏祭りで撮った写真。初奈、るるか、箒、そして自分。みんな笑っていた。でも今はその写真を見ることもできず、壁の方を向いて丸まっていた。スマートフォンの画面も、ずっと暗いままだった。
(初奈——)
初奈を見ているのが限界だった。同じ事務所に入り、正反対の性格でありながらなぜか気が合って、気がつけば一番大切な存在になっていた。初奈が初めてステージで転んだとき、咄嗟に手を伸ばして起こしたのは自分だった。初奈がユニットを外されたとき、泣いている初奈の前で壁を殴って怒ったのも自分だった。それほどまでに、初奈は自分にとっての光だった。
(それなのに——)
大山に初めて会った日のことを思い出す。初奈を助けようと事務所の裏に駆けつけたとき、プロレスラーの剛田さんが一瞬で腕を折られた。そして自分の頬を大山に舐められた。あの感触が、まだ肌に残っている。何度も何度も拭ったのに、何日も経った今でも、ぬめりとした生温かい感触が消えない。
(助けて——誰か、助けて——)
布団の中で、ぼたんは声にならない声で呟いた。男が大嫌いだった自分が、たった一人で生きてきた自分が、誰かに助けを求めるなんて——それでも今は、そうするしかなかった。
同じ頃、都心のマンションの一室では、るるかがベッドに横たわり、天井を見つめていた。部屋の明かりは落とされている。大きな窓からは街の夜景が一面に広がっていたが、るるかの目には何も映っていなかった。枕元には、四人で撮った写真。しかしそれも、今は遠い過去のように感じられた。
(歌なんて、目指すべきじゃなかった)
ずっとそう思ってきた。声優を目指したのも、アイドルになったのも、すべては「歌を届けたい」という想いからだった。なのに結局、誰も彼女の歌を見てはくれなかった。大山が「次はお前の番だ」と言ったとき、恐怖よりも先に諦めが来た。ああやっぱり、と思った。自分の身体は誰かの欲望の対象でしかなくて、歌なんて誰も求めてはいなかったのだと。初奈だけが私の歌を認めてくれた。でもその初奈も、今は自分と同じように壊されようとしている。それを見ていることしかできない自分が、何より情けなかった。
(どうせ逃げられない——もう、疲れた)
るるかは目を閉じて、そのまま眠ろうとした。眠って、何もかも忘れてしまいたかった。
その頃、箒のアパートでは、十三歳の少女が震える手でバッグに荷物を詰め込んでいた。病院に入院している兄たちへの着替えや好物の差し入れ。兄たちは自分を守ろうとして大山に両手両足を折られた。それなのに病室で「すまん、箒」と謝ったのだ。違うのに。悪いのは全部、自分なのに。
(初奈さん——)
今日は初奈の握手会だった。どんな酷い目に遭っているのかわからない。大山が一緒にいるのだ、無事で済むはずがない。それなのに箒は何もできなかった。怖かった。震えが止まらなくて、兄たちのことで精一杯で、初奈を助けに行く勇気が出なかった。そんな自分が情けなくて、悔しくて、箒は荷物を詰めながら涙をこぼしていた。
(誰か——誰か——)
十三歳の少女は、声にならない祈りを捧げていた。でもその祈りが誰に向けられているのか、自分でもよくわかっていた。学ランの人。たっくん——でも、無理だ。彼は普通の高校生で、剛田さんも兄たちも敵わなかった大山に、勝てるはずがない。わかっているのに、それでも——。
そのときだった。
三人のスマートフォンが、ほぼ同時に震えた。
ぼたんは布団の中で、るるかはベッドの上で、箒はバッグを手にしたまま、それぞれが画面を見つめる。差出人は——初奈だった。三人の心臓が一斉に跳ね上がる。無事なのか。何かあったのか。手が震えて、なかなかロックを解除できなかった。
『今、聖都大学附属病院にいます。』
それだけだった。たった一行。でもそれだけで十分だった。その病院は先日三人が偶然集まった場所、あの剛田さんも、箒の兄たちも、るるかのファンたちも入院している病院だった。初奈がそこにいる理由は、一つしか考えられなかった。
怪我をした。大山に何かをされた。あるいは——もっと悪いことが起きたのかもしれない。誰にもわからない。それでも三人は、ほぼ同時に動き出した。
ぼたんは布団を跳ね除けて立ち上がった。コートを掴み、玄関のドアを乱暴に開ける。外は凍えるような寒さで、吐く息が白く染まった。それでも彼女の足は止まらなかった。
(初奈——初奈——!)
親友の名前を、心の中で何度も叫んだ。頼む、無事でいてくれ。お前がいないと、オレは——オレは——。彼女は夜の闇の中を、全力で走り出していた。
るるかはマンションのエレベーターに飛び乗った。コートの前を合わせる余裕もなく、裸足のままサンダルを突っかける。エレベーターの中で、自分の息が荒いことに初めて気づいた。あれほど諦めていた心が、今は痛いほどに脈打っている。
(初奈ちゃん——お願い、無事でいて)
諦めてなんかいなかった。本当はただ、怖かっただけだった。失うのが怖くて、傷つくのが怖くて、だから先に諦めたふりをしていただけだった。でも今は違う。初奈が病院にいる——それだけで、るるかの心は再び燃え上がっていた。
箒はもう走り出していた。アパートを飛び出し、夜の街を一目散に駆け抜ける。バッグは肩に引っ掛けたままで、中身が落ちそうになっている。涙が溢れて止まらなかった。冷たい風が涙で濡れた頬を刺し、目を開けているのも辛いほどだった。でも彼女は走るのをやめなかった。やめられなかった。
(来てくれたんや——たっくんが、来てくれたんや)
初奈からのLINEは、ただ病院にいるという事実だけを伝えていた。でも箒にはわかった。あの人が動いたのだ。誰もが無理だと言い、誰もが諦めていた中で、たった一人の学ランの少年が、本当に立ち上がったのだ。それがわかったから、箒は泣きながら笑っていた。祈りが通じた。あの日、病院の廊下で一人で祈った願いが——神様でも仏様でもなく、たっくんが聞いてくれたのだ。
三人はそれぞれの場所から、同じ病院を目指して走っていた。深夜の街を、ただ一人の仲間を想って、三人のアイドルが駆け抜ける。空には星が瞬き、街は静かに夜明けを待っていた。彼女たちの戦いはこれから終わる。あるいは、これから始まるのかもしれない。いずれにせよ、彼女たちはもう一人じゃなかった。




