待合室
救急車のサイレンが、夜の街に響き渡っていた。
赤い灯りが回転し、ビルの壁面を断続的に照らし出す。路地には数人の野次馬が集まっていて、血溜まりに倒れた大山の巨体と、その横で崩れるように座り込んだ達也を見て、何やらひそひそと囁き合っている。大山は動かなかった。股間から血を流し、腰を不自然な角度に曲げて、完全に沈黙していた。達也もまた、両足を投げ出したまま動けずにいた。先ほどまで確かに立っていたのが嘘のように、今はもう指一本動かせそうになかった。
初奈は二人の間にしゃがみ込み、震える手で達也の肩に触れた。破れた衣装のまま、裸足のまま、それでも彼の傍を離れたくなかった。
「達也くん、しっかりして……お願い、目を開けて……!」
達也の瞼がかすかに動いた。腫れ上がった顔の間から、細く開いた瞳が初奈を捉える。彼の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑おうとしているのだと気づくまでに、少しだけ時間がかかった。
「……はつ、な……ちゃん……」
「喋らないで。すぐに救急車が来るから。もう大丈夫だから」
「……よかっ、た……」
それだけ言って、達也の意識は途切れた。初奈は彼の手を握りしめて、必死に名前を呼び続けた。
そのとき、初奈は気づいてしまった。
彼の右腕が、ありえない方向に曲がっている。肩だけじゃない。左腕も、両足も。そのすべてが、もう彼の身体の一部ではないみたいに歪んでいた。なのに、彼は最後の一瞬、立ち上がった。折れた足で立ち、折れた腕で拳を握り、そしてあの一撃を叩き込んだ。
(私のために——私だけのために——)
何も言えなかった。「ごめんなさい」でも「ありがとう」でもない、もっと別の言葉が喉の奥で詰まっている。でもそれが何なのか、初奈にはまだ名前をつけられなかった。ただ、彼の身体をぎゅっと抱きしめて、その温もりを離さないことだけが、今の彼女にできるすべてだった。
遠くから、ようやく救急車のサイレンが聞こえてくる。通りかかった誰かが通報してくれたのだろうか。それとも、屋上の騒ぎを聞きつけた誰かが。街の喧騒に紛れて、サイレンの音が少しずつ近づいてくる。初奈は達也を抱きしめたまま、赤いランプが路地の入り口に到着するのを待った。
「——ここです! 二人、怪我人が!」
誰かの叫び声。複数の足音が路地に雪崩れ込んでくる。救急救命士たちが担架を運び、初めて見る惨状に一瞬だけ息を呑む気配がした。しかし彼らはすぐにプロの顔に戻り、テキパキと動き始める。
「女の子が男の子を抱えてます! 両方とも出血多量!」
「この少年、四肢全部が——信じられない、この状態で生きてるのか!?」
隊員たちは手際よく大山と達也をストレッチャーに乗せていく。初奈は破れた衣装の上から毛布を掛けられ、そのまま達也と一緒に救急車に乗り込んだ。
車内で、隊員が達也に酸素マスクを当て、脈を測り、無線で病院と連絡を取り合っている。初奈はストレッチャーの隅で、ただ達也の顔を見つめていた。割れたメガネは外され、ぼさぼさの髪は血で固まっている。腫れ上がった頬は紫色に変色し、唇の端からは血が滲んでいた。それでも、彼の顔は安らかだった。何かを成し遂げた人の顔だった。
病院に着くと、達也はすぐに手術室へと運ばれていった。初奈は「家族の方ですか」と看護師に訊かれて、一瞬言葉に詰まった。違います、と言おうとして、でもそれでは中に入れないかもしれないと思い直した。
「……大切な人です」
それだけ答えると、看護師は少しだけ驚いた顔をして、それから優しくうなずいた。
「わかりました。では、あちらの待合室でお待ちください。手術には数時間かかる見込みです」
初奈は待合室の硬いベンチに、一人で腰を下ろした。
壁には大きな時計が掛かっていて、秒針がやけにゆっくりと動いている。廊下の向こうからは、時折ナースコールの音や、車椅子の車輪が床を軋ませる音が聞こえた。消毒液の匂いが鼻につく。誰もいない待合室の蛍光灯は白々しくて、静かすぎて、自分の鼓動だけがやけに大きく感じられた。
毛布を肩に掛け直しながら、初奈は自分の手を見つめた。右手は握手会で擦り切れて、まだ赤く腫れている。左手には、達也の血がこびりついていた。彼が最後に拳を握りしめたときに飛び散った血だ。
(達也くんは、私を守ってくれた)
あの屋上で、何度も倒れながら立ち上がって、骨が折れても叫んで、私のために戦ってくれた。私の歌のために。私の夢のために。
初奈は両手をぎゅっと握りしめ、祈るようにうつむいた。どうか無事でいてほしい。それだけが、今の初奈のすべてだった。
どれくらい経っただろうか。時計の針は深夜を回り、日付が変わろうとしていた。廊下を誰かが歩いてくる足音がして、初奈は顔を上げた。見覚えのある白衣の男性が、疲れた様子で初奈に近づいてくる。手術室から出てきた医師だった。
「桜坂さんですか」
「はい。達也くんは……浅見達也は、どうなりましたか」
声は震えていた。膝の上で握りしめた手が、汗で湿っている。
医師はゆっくりと初奈の隣に腰掛け、静かに口を開いた。
「手術は無事に終わりました。一命は取り留めました」
「……っ」
初奈は息を呑んで、そのまま両手で顔を覆った。声にならない嗚咽が漏れる。よかった。よかった、生きている。それだけで十分だった。涙が指の隙間からこぼれ落ちて、膝の上に染みを作る。
「ただし」と医師は続けた。
「両脚を複雑骨折しています。全治にはかなりの時間がかかるでしょう。数ヶ月、場合によっては半年以上の入院が必要になるかもしれません。それから、肋骨も何本か折れています。内臓の損傷はありませんでしたが、全身にかなりの打撲と裂傷があり、失血量も多かった。正直、ここまで耐えられたのが不思議なくらいです。若さと、何より強い意志が彼を生かしたのでしょう」
医師の言葉を聞きながら、初奈は唇を噛みしめていた。複雑骨折。半年以上の入院。何度も何度も立ち上がって、骨が折れても叫んで、あの人は私を守るために体を張ってくれたのだ。
「あの、すぐにでも会えますか」
「まだ麻酔から覚めていませんが、病室には入っていただいて構いません。ご家族ですか」
初奈は今度は迷わずに答えた。
「……いいえ。でも、私にとって、かけがえのない人です」
医師は一瞬だけ初奈の目を見つめ、それから静かにうなずいた。「ついてきてください」と言って歩き出した。初奈は毛布を肩から外し、破れた衣装のままで医師の後に続いた。病室の前まで来ると、医師は「どうぞ」と扉を開けてくれた。
白い部屋だった。窓からは淡い月明かりが差し込んでいて、ベッドの横には点滴のスタンドと心電図のモニターが置かれている。規則的な電子音が、静かに部屋に響いていた。
ベッドの上には、達也が眠っていた。包帯が全身に巻かれ、両脚はギプスで固定されている。顔はまだ腫れていて、額には大きなガーゼが当てられていた。それでも、彼の寝息は穏やかで、その寝顔には不思議な安堵感が漂っている気がした。
初奈はベッドの横に椅子を引き寄せ、そっと腰を下ろした。そっと手を伸ばして、彼の手に触れる。温かかった。
(生きている)
それだけで、こんなにも心が震えるなんて。初奈は彼の手を握りしめて、ただ泣き続けた。




