歌の拳
それは、本当に一瞬の出来事だった。
夕闇に包まれた屋上で、大山という名の魔王が初奈に手を伸ばす。煙草の火が宙を舞い、コンクリートに落ちて小さな火花を散らした。血まみれの達也が、その背中に向かって立っている。折れた肩、折れた左腕、折れた肋骨。人間の身体はこれ以上動けないはずだった。医学的にも、生理学的にも、もう限界はとっくに越えている。
(――僕は、まだ武器が残ってる)
達也の脳裏をよぎったのは、初奈の歌う姿だった。路上で一人、誰にも見向きもされずに歌っていた冬の日。場末のショッピングモールで息を切らせて駆けつけた自分に、ぺこりとお辞儀を返してくれたあの瞬間。青いサイリウムを二人だけの約束のように振り続けた、あの夏の日々。それから、訪ね歩いた元アイドルたち。大山に傷つけられた彼女たちの泣き顔。歌えなくなった人。夢を諦めた人。この世を去った人。みんな、ただ歌いたかっただけなのに。
それらすべてが、達也の胸の中で爆発した。
僕には腕力なんてない、財力もない。知恵も権力もない。
あるのは───
気がつくと、彼は叫んでいた。
「勇気だけだあああああああああああああああ!!」
腹の底から迸る咆哮。それは人間の声というより、魂そのものが音になったような絶叫だった。同時に、達也の身体が弾丸のように大山へと突っ込んでいく。折れた左腕がぶらんと揺れ、肩からは血が飛び散り、足はもう動いていないのに――それでも彼は走った。人間の限界を超えたスピードで、ただ一直線に。
「な――」
大山が拳を振り翳した瞬間、達也の頭が大山の胸にめり込んだ。頭突きではない。全身を投げ出した特攻だった。ごきゃり、という鈍い音が屋上に響き渡る。大山の肋骨が、何本も同時に砕け散った音だった。
「ぐああああああああっ!!」
大山が初めて苦痛の叫びを上げた。拳銃もナイフも通さなかった鋼の身体を持つこの男が、初めて膝をつく。口から血の混じった唾が飛び散り、煙草が地面に落ちて赤い火の粉を散らした。その巨体がよろめき、達也を振りほどこうと腕を振り回す。しかし達也は離れなかった。
そのまま二人は、屋上のフェンスに激突した。金属が歪む耳障りな音。古びた金網が、二人の体重を受けて大きくたわむ。その向こうには、地上二十メートルの虚空が広がっている。達也の血がフェンスを伝って下へと滴り、暗がりに消えていった。
「な、なんでだ――なんでお前みたいなガキが――」
大山の声からは余裕が消えていた。生まれて初めて味わう種類の痛み。そして、生まれて初めて感じる種類の恐怖。この目の前の高校生は、自分がこれまで相手にしてきたどんな敵とも違う。恐怖を感じていないわけではない。現に今も身体中が震えている。それなのに、心が折れない。なぜだ。何が彼をここまで駆り立てる。
「――男に二言は、ないんだよ」
達也の声は掠れていた。それでも、その言葉は鋼のように強く響く。
「約束、したんだ。迎えに来てほしいって――そう言われたんだ。だから僕は来た。それだけだ」
それが、彼のすべてだった。勇者でもなければ、ヒーローでもない。ただ、たった一人のアイドルと交わした約束を守るために、彼はここにいる。そして――止まれなかった。もう自分の身体も、大山の身体も、何もかもが制御できないまま、フェンスが悲鳴を上げて――
「ま、待て!金が欲しいのか?出してやる!それとも女か?なんでもやるから離せぇ!!」
大山が初めて命乞いをした。その顔からは血の気が引き、目の奥に純粋な恐怖が浮かんでいる。
「欲しいものならあるよ…あんたが奪った────」
達也は止まらなかった。
「………歌と、夢だあああああああ!!」
それが、彼が叫んだ最後の言葉だった。
フェンスが根元から外れる。鉄骨が軋み、コンクリートの破片が舞い、固定ボルトが一つずつ弾け飛んでいく。二人の身体は、もつれ合うようにして屋上の縁から滑り落ちた。大山の絶叫と、達也の叫びが重なり合いながら、そのまま夜の闇へと吸い込まれていく。
「――――っっっ!!!!」
初奈は絶叫した。いや、声になっていたかどうかもわからない。喉が張り裂け、視界が真っ白に染まり、自分が立っているのか倒れているのかすらわからなかった。ただ目の前で、彼が――達也くんが――自分を守るために、怪物と一緒に落ちていった。
「達也くん――!! 達也くん――!!」
初奈は泣き叫びながら、屋上から駆け出した。もう大山への恐怖はなかった。それどころか、自分がどうなってもいいと思った。ただ、達也くんのところへ行きたかった。破れた衣装のまま、裸足のまま、それでも初奈は走った。学ランを握りしめて、彼の温もりを手放さないように胸に抱きしめて。非常階段を駆け降りる。足をくじいても構わず走り続ける。非常灯の赤い明かりが壁を染め、彼女の影を不気味に伸ばしていく。一階、二階――永遠に続くかと思われた階段の果てに、ようやく外への出口が見えた。
「お願い――お願い――」
その祈りが誰に向けられているのか、初奈にもわからなかった。神様か、お母様か、それとも運命か。ただ一つだけ確かなのは、この世界から達也くんがいなくなるのは嫌だということだけだった。
「――私の世界から、いなくならないで――」
裏口を飛び出すと、ビルの谷間の薄暗い路地に、血溜まりができていた。雨はまだ降っていない。なのにそこだけが黒く濡れていて、鉄のような匂いが鼻をつく。
その中央に、二人の人影があった。
達也は、両足が折れていた。ありえない方向に曲がった足。肩は落ち、腕はだらりと垂れている。頭からはまだ血が流れ続けていて、学ランは元の色がわからないほど真っ赤に染まっていた。
その隣で、大山が呻いている。股間を押さえ、腰骨と背骨を折られて這いずりながら逃げようとしていた。これまで何人もの人間を半殺しにしてきた怪物が、今はただ逃げることだけを考えている。股間から血が流れ、それが地面に黒い跡を描いていく。それでも大山は動いた。並外れた生命力としか言いようがなかった。
だが、逃げられなかった。
「――アンタだけは、許せない」
掠れた、血が絡みついた声がした。
その声に、大山がぎくりと身体を強張らせた。
「――アンタがっ…みんなから奪ったものをっ…ぼくが…っぼくがぜんぶっ…!今ここで取り戻す!!」
血を吐きながらも真っ直ぐな声がした。
達也が、立っていた。両足が折れているのに。ありえない。医学的にも物理的にもありえない。骨が砕けた足で立てるはずがない。なのに彼は立っている。いや――立たされているのだ。まるで、彼の身体を背後から支える無数の手があるかのように。大山に傷つけられた何人ものアイドルたちが、彼の背中を押しているように、初奈には見えた。
「ひ、ひぎぃいいいい!! ぎゃあああああああ!!」
大山が泣き叫んだ。生まれて初めて味わう、絶望的な恐怖。その声は路地に反響し、ビルの窓ガラスを震わせる。
達也は拳を握った。それは、一度も人を殴ったことがなさそうな拳だった。骨ばっていて、細くて、それでいて――今は誰よりも強く握りしめられている。その拳の周りに、何かが集まってくるのが初奈には見えた。泣き声。歌声。夢を奪われた者たちの、それでも消えなかった想い。それらが無数の光の粒子となって、達也の拳に宿っていく。
「な、なんなんだお前はあああぁぁぁ!!」
大山が最後の力を振り絞って叫ぶ。その問いに、達也は答えた。声は掠れ、血が滴り、それでも彼は確かに言ったのだ。
「――ただの、オタクだぁ!!」
渾身の拳が、大山の顔面に叩き込まれた。
皮膚が裂け、骨が砕け、歯が飛び散る。それは一発の拳ではなかった。これまで大山に傷つけられてきたすべてのアイドルの、すべてのファンの、すべての夢の拳だった。大山の巨体が宙に浮き、そして――どしゃりと音を立てて地面に落ちた。白目を剥き、口から泡を吹き、手足が痙攣している。完全に、沈黙した。
日本裏社会最強の男、魔王――大山は、ただのオタクの拳に敗れた。
静寂が訪れた。遠くから、街の喧騒が聞こえる。年末の浮かれた空気は、この路地だけには届かない。初奈は、その場に立ち尽くしていた。涙で何も見えなかった。でも確かに、達也が振り返るのがわかった。
彼は、照れ臭そうに笑っていた。血まみれで、ぼろぼろで、両足が折れて、それでも彼は――
「――初奈、ちゃん――やくそく――まもれた――」
そして、そのままゆっくりと倒れた。
「――達也くん!!」
初奈は駆け寄り、彼の身体を抱きしめた。血で滑る彼の手を握り、何度も何度も名前を呼んだ。彼の瞼が下りていく。でもその顔は、不思議なくらい穏やかだった。
路地の上空では、オリオン座が静かに輝いている。街は年の瀬の喧騒に包まれ、どこからか除夜の鐘の練習をする音が聞こえてくる。すべてが終わり、すべてがこれから始まる――そんな夜だった。




