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屋上の死闘

屋上の空気が、凍りついた。


冬の夕暮れはすでに終わり、あたりは深い青に包まれ始めている。ビル風が容赦なく吹き荒れ、剥き出しのコンクリートの上に立つ三人の影を、街灯の淡い光がぼんやりと照らし出していた。


「初奈ちゃんは、渡さない」


達也は両腕を広げ、初奈を背にして立っていた。震える声で放たれたその言葉には、不思議なほど確かな芯が通っていた。大山はといえば、この期に及んでまだそんなことを言う達也を、まるで珍しい虫でも見るかのように眺めていた。口元には笑みさえ浮かんでいる。それは怒りではなく、純粋な好奇心——獲物をいたぶる前に見せる、残忍な余裕だった。


「面白いガキだな、お前」


大山の声は驚くほど静かだった。それがかえって恐ろしい。


「学ラン着て、かっこつけて——ヒーローにでもなったつもりか? 現実を見せてやる」


その瞬間、大山の巨体が動いた。初奈は悲鳴を上げた。というよりも、声にならない叫びが喉の奥から迸った。目の前で彼が殴られている——その現実が、初奈の心をずたずたに引き裂いていく。


達也は抵抗らしい抵抗すらできなかった。大山の拳が彼の腹にめり込むたびに、身体がくの字に折れ曲がる。肩を打たれ、みぞおちを抉られ、足を払われて地面に倒れ込む。それでも彼は立ち上がろうとした。コンクリートに手をついて、震える膝で、それでも初奈を守ろうとしていた。


「やめて——!! やめてください!!」


初奈は叫び続けた。喉が張り裂けるほどに。でも大山はやめなかった。むしろ初奈の悲鳴を楽しむかのように、その口元には薄気味悪い笑みが浮かんでいる。


鈍い音がした。骨の折れる音だった。左肩が、ありえない方向に曲がっている。続けて左腕。達也は声を上げて苦しんだ。それでも彼は立ち上がろうとした。片腕が使えなくなっても、残った腕で初奈を守ろうとしていた。


(どうして——どうしてそこまで——)


初奈の視界は涙で歪み、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えていた。そんな初奈の耳に、肋骨の折れる音が届く。乾いた枝を折るような、それでいて何よりも残酷な音が、屋上の空気を震わせた。あまりの痛みに達也は声も出せず、ただコンクリートの上で丸まった。大山はそんな彼を見下ろしながら、煙草に火をつける素振りすら見せていた。まるで、これから本番だと言わんばかりに。


そのとき、達也の学ランのポケットから何かが滑り落ちた。


プラスチックケースに入った一枚のCD。初奈は息を呑んだ。それは、彼女が初めて出したソロデビューシングルだった。音羽堂の前で手売りしていた、たった五百枚しかプレスされなかったCD。売れなくて、誰にも見向きもされなくて、それでも初奈が初めて自分の想いを込めた一枚。


「なんだこれ」


大山はCDを拾い上げ、ジャケットをじろりと眺めた。そこには手作りの衣装を着て、ぎこちなく微笑む初奈の姿が写っている。今のような過激な衣装ではない。胸元に小さな星が光る、白いワンピース。ぼたんとるるかと三人で作った、世界に一枚だけの衣装だった。


「ダッセエな。こんなガキの遊びみたいなもんが、商品になると思ってたのか」


大山はそう言って笑うと、CDを地面に叩き落とした。そしてその上から——靴底で踏みつけた。プラスチックが砕け散る音。何度も、何度も踏みつける。ジャケットが破れ、ディスクが割れ、初奈の歌が粉々にされていく。まるで彼女の夢そのものを踏み躙っているかのようだった。


「やめて——!! それは——それは——!!」


初奈は叫びながら、それでも動けなかった。怖かった。身体が縛られたように動かない。大山への恐怖が、一歩を踏み出す勇気を奪っていた。


「その歌は——お母様の——!!」


『貴方の夢には歌がある』


五歳の誕生日。お母様がくれた言葉。その言葉を胸に初奈は歌い続けてきた。辛くても、苦しくても、誰にも認められなくても——その言葉だけが、彼女を支え続けてきた。


なのに——目の前で——それが——。


大山の靴が、最後の一踏みを加えた。粉々になったCD。粉々になった夢。初奈の心は、その瞬間に完全に折れた。もう何も残っていない。歌も、夢も、希望も——何もかもが奪われた。


「ああ? まだ動けんのか、このガキが」


大山の声に、初奈ははっと顔を上げた。達也が——あれだけの傷を負いながら、まだ動いていた。彼は這いずって大山の足に縋りつき、離れまいと必死にしがみついている。折れた肩を引きずり、動かない左腕をぶら下げて、それでも彼は大山の足を掴んで離さなかった。


「初奈、ちゃんを——傷つけるな——」


「しつけえんだよ!!」


大山は苛立ち、その巨体を翻すと——振り返りざまに、達也の頭を踏みつけた。


一度、二度、三度——。鈍い音が屋上に響くたびに、初奈の心も一緒に砕かれていく。頭から流れた血がコンクリートを赤く染め、それは街灯の光を受けて、恐ろしいまでに美しく輝いていた。やがて達也は、ぴくりとも動かなくなった。手足は投げ出され、血の海の中に沈んでいる。


(——死んじゃった? 達也くんが、死んじゃった?)


初奈はその場に崩れ落ちた。涙も、叫び声も、もう何も出てこなかった。ただ心にぽっかりと穴が開いて、そこから何もかもが零れ落ちていく。自分を助けようとして、自分を守ろうとして——彼は。あの青いサイリウムの人が——もう二度と——。


「あーあ、ムカついて殺しちまったよ」


大山は心底どうでもよさそうに言い放ち、煙草に火をつけた。血のついた靴を達也の学ランで拭い、煙を深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。


「さあてと——これで邪魔者はいなくなったな、桜坂」


大山が、初奈に向かって歩き出す。口元には笑みが浮かんでいるが、目はまったく笑っていない。完全に獲物を追い詰めた獣の目だった。


しかし、その瞬間——達也は走馬灯の中にいた。


いや、正確には走馬灯ではない。まだ死んでいない。ただ意識の奥深くに沈みながら、彼は懐かしい光景を見ていた。


大学のアイドル研究会、通称ドル研の部室。壁にはアイドルのポスターが所狭しと貼られ、机の上にはサイリウムやCDが散らかっている。田中先輩と伊藤先輩が、いつものように熱弁を振るっていた。


『——アドレナリンってのはな、達也氏、人間のリミッターを解除する鍵でござるよ。普段は使えない筋肉も、極限状態では動くのでござる』


『左様左様。よく火事場のバカ力と言うでござろう。あれは科学的に証明されておるのでござる。それと同じでな、推しのためなら人は死ねるのでござる。いや、死ぬわけにはいかないでござるが——死ぬ気で戦えるのでござるよ』


『……先輩たち、なんでそんなに詳しいんですか』


『それはもちろん、我々ヲタクは常に推しのために命を懸けておるからでござる』


あのときはただの冗談だと思っていた。でも今ならわかる。推しのために命を懸けるという感覚が。


達也の意識に浮かぶのは、初奈の笑顔だった。路上で一人で歌っていたときの初奈。場末のショッピングモールで二人でお辞儀をしたときの初奈。合同ライブで千本の光が消えても一人だけ青いサイリウムを振る自分を見て、涙を浮かべて歌っていた初奈。プロフ帳を渡したとき、真っ赤になりながらお礼を言った初奈。そして——プールサイドで「迎えに来てくれますか」と尋ねた初奈。


それから、自分が訪ね歩いた元アイドルたちの姿も。歌えなくなった人、夢を諦めた人、外に出られなくなった人、この世を去った人——みんな大山に傷つけられ、それでも心のどこかで歌を愛していた。


(——僕は、まだ死ねない)


目を開ける。大山が初奈に向かって歩いている。その背中越しに、初奈の泣き顔が見えた。終わったと思っている顔。すべてを諦めた顔。


(——違う。まだ終わってない。)


全身を焼くような激痛。折れた肩が、折れた左腕が、折れた肋骨が、悲鳴を上げている。頭から流れた血が目に入り、視界が赤く染まっている。


それでも——達也は立ち上がった。


血まみれの手をコンクリートにつき、折れた左腕をぶら下げたまま、ぐらぐらと揺れながら立ち上がる。膝は笑い、歯は震え、全身がもう限界だと叫んでいる。なのに彼の目だけは、真っ直ぐに大山の背中を見据えていた。


「——あんた」


その声に、大山の足が止まった。煙草をくわえたまま振り返り、目を剥く。ありえないものを見るような表情だった。ついさっきまで這いつくばって死にかけていた高校生が、血まみれで立ち上がっている。生きているだけでも驚きなのに、その目にはまだ闘志が燃えている。


「あんた——大人のくせに、頭悪いな」


その言葉に、大山は一瞬呆気に取られた表情を浮かべた。これまで何人もの人間を叩き潰してきた魔王に対して、こんなことを言った者はいなかったからだ。


「——ああ?」


「アイドルの歌には、夢があるんだ」


達也は震える声で、それでもはっきりと言った。


「その夢を待ってる人たちが——大勢いるんだよ!!」


それは、初奈だけじゃない。大山に傷つけられたすべてのアイドルと、その歌を信じて待ち続けたすべてのファンの叫びだった。一人のオタクが、勇者として初めて放った言葉だった。


その言葉が、初奈の心に深く突き刺さった。


彼女は涙を拭くことも忘れて、立ち上がる達也を見つめていた。血まみれで、ぼろぼろで、今にも倒れそうで——それでも彼は立っている。自分を守るために。アイドルの歌を守るために。あの場末のショッピングモールで、誰も見向きもしなかった初奈の歌を、たった一人で応援し続けた少年が——今、世界の真ん中で、声を上げている。


初奈の目から、涙が溢れて止まらなかった。でもそれは絶望の涙ではなかった。胸の奥が熱くて、何かが込み上げてきて、この気持ちに名前をつけるなら——それはきっと——。


「——達也くん!!」


初奈は叫んだ。彼の名前を、精一杯の声で。その声は屋上の空気を震わせ、夕暮れの空に吸い込まれていく。達也は振り返らず、大山を睨みつけたまま、そっと答えた。


「大丈夫——約束、守るから」


その声は、不思議なほど優しかった。


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