その手を離さない
楽屋の扉が破られてから、ほんの数秒の出来事だった。舞い上がる埃と木屑の向こうに立つ学ラン姿の少年。肩で息をしながらも、真っ直ぐに初奈を見つめる達也。初奈は床に座り込んだまま、目の前の光景が現実だとは信じられなかった。何度も夢に見た光景だったからだ。誰かが扉を破って助けに来てくれる夢。でも目が覚めればいつも、そこには冷たい倉庫の天井があるだけだった。だからきっとこれも夢の続きなのだと、初奈は思おうとした。そうでなければ、彼がこんな危険を冒してここに来るはずがない。彼は約束を守っただけだ。ただのファンとアイドル。その枠を超えることなんて、なかったはずなのに。
だが、その時、彼は震える手で自分の鞄を大山の顔に投げた。参考書、ノート、ペンケース、財布。学生の日常が詰まったそれらが、大山の顔面に当たり床に散らばる。
「なんだ、てめえは」
大山の低い声が部屋に響いた。声だけで人を殺せるのではないかと思うほど冷たい響き。しかし達也はその問いには答えず、散らばった荷物を一瞥もせずに初奈へと歩み寄った。膝をつき、ゆっくりと手を差し伸べる。その手はかすかに震えていたけれど、眼鏡の奥の目は真っ直ぐに初奈だけを見つめている。
「初奈ちゃん、立てる? 手を」
初奈は、自分の手が動くのかどうかもわからなかった。大山に押さえつけられ、服を破られ、抵抗する気力も奪われた身体は自分のものではないみたいに重く冷たかった。でも、達也が差し出した手を見ていると、不思議と指先に感覚が戻ってくる気がした。
(この手——)
初めてだった。達也が初奈に触れたのは、これが初めてだった。彼はこれまで一度も初奈に近づこうとしなかった。握手会でも手を握らなかった。いつも客席の隅からサイリウムを振っているだけで、話しかけることもなく、触れようとすることすらなかった。何年も何年も、彼は距離を守り続けてきたのだ。それが今、彼の方から手を差し伸べている。
初奈は震える手を持ち上げて、そっと彼の手に触れた。達也の手は汗ばんでいて、かさついていて、バイトでつくった小さな傷がいくつもある手だった。
でも、これほど温かい手を初奈は知らなかった。
「——立てる?」
「……はい」
初奈は達也に手を引かれて立ち上がった。足が震えてうまく立てなかったけれど、彼が支えてくれた。破れた衣装の代わりに、達也は自分の学ランを脱いで初奈の肩にかける。ほのかに温かい学ランからは、彼の匂いがした。柔軟剤の優しい香りと、少しだけ汗の匂い。驚くほど安心する匂いだった。
「おい、ガキ。お前、何してんだ」
大山の声が一段と低くなる。それは警告であり、最後通告でもあった。達也は恐怖に肩を震わせながら、それでも初奈の手をぎゅっと握りしめて叫んだ。
「ひ、人の大切なものを——勝手に壊すな!!」
それは、震えながらも確かな宣言だった。言い終えると同時に、達也は初奈の手を引いて駆け出した。倒れた扉を飛び越え、廊下に出る。後ろから大山の怒号が追いかけてくる。地獄の底から響くような怒鳴り声。でも達也は振り返らなかった。
「逃げるよ、初奈ちゃん!」
「は、はい——!」
二人は手を繋いだまま廊下を走った。初奈の足はもつれ、何度も転びそうになったが、達也がそのたびに彼女を支えた。非常階段を駆け上がる。上へ上へ。行き先など考えていなかった。ただ、少しでも大山から遠くへ。それだけを考えて足を動かした。後ろからは大山の足音が容赦なく迫ってくる。一歩一歩が重く、建物全体を揺らしているかのようだった。人間の足音とは思えないほどの重圧。それでも達也は初奈の手を離さなかった。決して離さなかった。
そして、階段はついに終わりを告げた。
屋上に飛び出すと、視界いっぱいに冬の夕焼けが広がった。息を呑むほど美しいオレンジと紫のグラデーション。ビルの向こうに沈みかけた太陽が最後の輝きを放っている。街はすでに夕闇に包まれ始めていた。冷たい風が吹き抜けて、初奈の乱れた髪を攫う。二人は屋上の中央まで走り、そこでようやく立ち止まった。もうこれ以上、逃げ場はない。背後にはフェンス、目の前には広がる空。お互い荒い息を吐きながら、二人は顔を見合わせて——どちらからともなく、小さく笑った。笑うしかなかった。
「初奈、ちゃん——」
「達也、くん——」
声が重なって、また笑った。ずっとこうして名前を呼び合いたかったのだと、初奈は思った。名前を知ってからも、直接呼ぶ勇気が出なかった。でも今は自然と呼べる。逃げている最中だというのに、その事実が初奈の胸に小さな灯をともす。
「足は、大丈夫?」
達也が尋ねた。彼の額には汗が滲み、眼鏡は曇っている。コートを脱いで初奈に貸したため、今はいつもの学ランだ。風が吹くたびに、その細い身体が寒さに震えているのがわかった。
「私は大丈夫——それより、達也くんこそ。どうしてここに」
「どうして、と言われても——わかんないです」
達也は少し困ったように眉を下げて言った。
「でも、約束しましたから。迎えに来てほしいって——そう初奈ちゃんが言ったから。それだけです」
それだけです、と彼は言った。それだけの理由で、怪物のような男に立ち向かったのだ。初奈は胸がいっぱいになって、涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。
「——ありがとう、ございます。でも、危険すぎます。達也くんまで傷つくことは」
「それでも、です」
達也の声は震えていたが、はっきりとしていた。
「僕は、初奈ちゃんの歌が好きなんです。他の何でもない。歌が——大好きなんです。だから、それを守るために僕は——」
そのときだった。
重い足音が階段を上がり、屋上の空気が一変した。達也の言葉が途切れ、彼は息を呑んで振り返る。屋上の扉が開き、大山が姿を現した。肩で息をしている——が、その目は笑っていた。獲物を追い詰めた狩人の目だった。
「やっと追いついたぜ」
達也は、迷わず初奈の前に立った。初奈を背にして、大山と向かい合う。彼の背中は細くて、震えていて、でも不思議なくらい大きく見えた。膝も、肩も、唇さえも震えているのに、それでも彼は初奈を庇うように両腕を広げて立ちはだかった。彼は何の武術も知らない。格闘技の経験もない。それでも——今ここで、初奈を守るのは自分しかいないとわかっていたから。
「初奈ちゃんは、渡さない」
その声は震えていた。けれど不思議と芯はまっすぐで、折れそうにないと初奈には思えた。
夕焼けが、二人をオレンジ色に染めていた。街はクリスマスから新年へと移り変わる、一年で最も静かな時間を迎えている。すべての終わりと始まりが交錯する瞬間。初奈は達也の背中を見つめながら、そっと手を合わせた。指先にはまだ、彼の手の温もりが残っている。
(お母様、私は今、助けに来てもらいました。たった一人の、勇者が——私のことを迎えに来てくれました)
大山がゆっくりと、二人に迫ってくる。その足音は重く、屋上のコンクリートを踏みしめるたびに空気が震えるようだった。初奈は、達也の学ランをぎゅっと握りしめ、覚悟を決めて顔を上げた。まだ終わっていない。そして何があっても——この人の手を離さない。




