約束の光
十二月二十六日、夕刻。握手会が終わり、会場の喧騒が嘘のように静まり返った楽屋で、初奈は壁際に追い詰められていた。剥き出しのコンクリートの壁の冷たさが背中に突き刺さる。窓はなく、天井の蛍光灯だけが白々と部屋を照らしている。外の世界から隔絶された、誰にも見られることのない密室だった。
大山の巨体が、初奈の細い身体を覆い隠すように立ちはだかっている。彼の口元には煙草がくわえられ、その煙が初奈の顔にまとわりついた。視界の端に映る灰皿からは、無数の吸い殻が溢れている。この部屋にどれだけ長く監禁されているのか、初奈にはもうわからなかった。十分なのか、一時間なのか——時間の感覚が麻痺している。
「いい加減、わかってんだろうな」
大山の声は低く、部屋全体に響くような圧力があった。抵抗すれば誰かが傷つくと、初奈は思い知らされていた。ぼたんが辱められた。剛田さんが腕を折られた。箒の兄たちが病院送りにされた。るるかのファンたちが、全員——。自分が逆らうたび、周りの人たちが傷ついていく。その事実が、初奈の心を完全に縛り上げていた。
「お前の価値は、その身体だけだ。歌でもない、顔でもない。若くて綺麗な身体——それだけがお前の商品価値だ。わかったら、おとなしくしてろ」
初奈は何も言えなかった。何も言い返せなかった。言い返すだけの気力を、とうの昔に失っていた。大山はそんな初奈を見下ろして、にやりと笑う。勝者の笑みだった。
「今日は吐いてもやめねえからな」
大山の手が初奈の肩を掴み、乱暴に押し倒す。背中に冷たい床の感触。蛍光灯の光が眩しくて、初奈はぎゅっと目を閉じた。それでも、口だけは勝手に動いていた。
「一人だけ——一人だけは、違う」
「あん?」
「一人だけ——私の身体じゃなくて、私の歌を見てくれた人がいる。何年も、一度も話しかけずに、それでもずっと——青いサイリウムを振ってくれた。それが私の——私だけの——」
その瞬間、大山の平手が初奈の頬を打った。口の中が切れて、鉄の味が広がる。でも初奈は泣き止まなかった。もう自分でも何がなんだかわからなかった。ただ、達也くんだけは違う——それだけを、何度も何度も繰り返した。
「うるせえんだよ!」
大山の手が初奈の衣装にかかる。もともと面積の少ない布切れのような衣装——あっという間に破れて、床に落ちた。冷たい空気が露出した肌を刺す。初奈は自分の身体を抱きしめるようにして震えた。恐怖と屈辱で、まともに呼吸もできない。
(お母様——)
初奈は心の中で呟いた。涙で歪む天井を見上げながら、最愛の母に語りかける。もう何年も思い出の中でしか会えなくなった、優しい笑顔の人。
(世界は、美しくなんかなかった。あなたが遺した言葉は、私には重すぎた——私は、あなたみたいにはなれなかった)
諦めが、静かに初奈を包み込む。このまま、すべてを終わらせてしまおう。そうすれば楽になる。誰も傷つけずに済む。お父様の会社も、ぼたんも、るるかも、箒も——何より、達也くんも、もうこれ以上傷つけずに済む。初奈は舌を噛み切ろうとした。せめて最後くらい、自分の意思で終わらせる——そう思った。
そのときだった。
頭の中で、あの歌詞が鳴り響いた。
『待ってるよ ねえ待ってるよ あなたは太陽 迎えに来てくれる そんな予感をずっと 持ってるよ』
(——違う。私はまだ、待ってる)
初奈の目が、かっと見開かれた。諦めかけた心の奥底で、消えかけた灯火が再び揺らめく。私はまだ待っている。あの人が迎えに来てくれるのを——そう信じている。
それだけじゃない。五歳のあの日、庭で歌ったときに聞こえた拍手。たった一人の、名前も知らない男の子の拍手。顔も見えなかった。でも確かに、あの拍手は初奈の歌を認めてくれた。それがあったから、今まで歌い続けてこられた。
(お母様——違う。この世界は、まだ——)
だが次の瞬間、大山の手が初奈の肩を掴み、残っていた布を引き裂こうとした。初奈は身を強張らせて目を閉じる。もうダメだ——そう思った瞬間だった。
ドンッ!!
楽屋の扉に、何か重たいものがぶつかる音がした。最初は一発。それから間を置いて、もう一発。
大山の手が止まる。彼は舌打ちをして、ゆっくりと扉の方を振り返った。三発目の衝撃。蝶番が軋み、木枠がきしむ音が部屋中に響く。初奈は呆然と扉を見つめた。何が起きているのかわからない。ただ、心臓だけが激しく脈打っていた。
(この音——なに?)
大山は初奈から手を離し、扉に向かって歩き出した。その顔には余裕の笑みが浮かんでいる。「またどこの馬鹿が乗り込んできたか」——そんな表情だった。しかし——
ドンッ!! ギシッ——!!
四発目、五発目。体当たりの間隔がどんどん短くなる。その度に蝶番が悲鳴を上げ、木枠が軋み、そして。ついに、バキンッという轟音と共に蝶番が完全に破壊された。扉が枠から外れ、内側に向かって派手に倒れ込む。舞い上がる埃と木屑。その向こうに立っていたのは——
学ラン姿の少年だった。
肩で息をしている。ボサボサの髪は汗で額に張り付き、眼鏡はずり落ちそうになっている。よく見ると、学ランの袖はところどころ破れ、右肩には大きな擦り傷ができている。どうやってここまで来たのか。何人に止められたのか。そのすべてを振り切って、彼はここにたどり着いたのだ。
——達也くんだ。
初奈は自分の目を疑った。握手会で、声にならない「たすけて」を伝えた相手。ずっとずっと、迎えに来てほしいと願っていた人。その人が今、確かにここにいる。
(——来てくれた)
それはまるで、場末のショッピングモールでのあの日と同じ光景だった。誰も見向きもしない初奈のステージに、息を切らせて走ってきた学ランの少年。あの日と違うのは、今度はちゃんと目が合っていること。初奈は声にならない声で呟いた。
「……達也、くん」
達也はまだ息を整えきれていない。眼鏡の奥の目は涙で滲んでいた。それでも彼は、真っ直ぐに初奈を見つめている。その目は、これまでずっと見てきたどの目よりも優しくて、それでいて強くて、初奈の凍りついた心を溶かすには十分すぎるほどだった。
(——拍手。五歳の時の、あの拍手)
記憶の底から溢れてきたのは、五歳の庭で聞いた拍手だった。生垣の向こうから聞こえた「ありがとう」。顔も知らない男の子。でも確かに、初奈の歌を認めてくれた拍手。その拍手をくれたのは誰か——今、初めてわかった気がした。
(お母様——私は、まだ大丈夫。まだ、歌える)
力が、少しだけ戻ってくる。まだ終わっていない。まだ、諦めていない。だって今、確かに、彼が来てくれたのだから。




