待ってるよ
十二月二十六日。クリスマスが終わり、街は一気に年末モードへと切り替わっていた。デパートには正月用の飾りが並び、駅には帰省する家族連れの姿が増え始めている。誰もが一年を締めくくろうとしている中で、初奈はただ消耗するだけの一日を迎えようとしていた。
朝、事務所の倉庫で目を覚ました初奈は、薄暗い天井を見上げながら、自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。冷たいコンクリートの床、剥き出しのパイプ、埃っぽい空気。桜坂家の柔らかな寝具も、窓から差し込む優しい朝日も、ここにはない。代わりにあるのは、昨夜脱ぎ捨てた過激な衣装と、心を削る記憶だけだった。
「起きてるか、桜坂」
その声を聞いただけで、初奈の全身が凍りついた。大山だった。彼は倉庫の入り口に立って、相変わらず下卑た目つきで初奈を見下ろしている。手には煙草。その煙が、換気の悪い倉庫に充満していく。
「今日は大事な握手会だ。わかってるな」
「……はい」
「今年最後の稼ぎ時だ。サービスしろよ」
「……サービス、ですか」
「とぼけるなよ。お前、最近ずいぶん人気が出てきたじゃねえか。みんなお前の身体目当てだ。だったら、その身体でサービスするのがアイドルってもんだろうが」
大山はそう言って、ぬっと初奈に近づいた。彼の太い指が初奈の肩に触れ、首筋を這う。初奈は全身の毛穴が逆立つのを感じた。吐き気が込み上げる。でも——逃げられない。逃げたら誰かが傷つく。ぼたんが、るるかが、箒が。そして何より、お父様の会社が。
大山の指が、初奈の腕をなぞる。彼女は目を閉じて、必死に何も感じないようにした。
「わかってるならいいんだ。今日は期待してるぜ」
大山はそう言い残して、煙草の煙と共に倉庫を出て行った。残された初奈は、自分の腕を抱くようにしてしゃがみ込んだ。身体の芯が冷え切っていて、指先の感覚がほとんどない。彼に触られたところだけが、焼けただれたように熱かった。
(お母様——私は、まだ歌えているのでしょうか)
会場となったのは、都内でも有数の大型イベントホールだった。年末の押し詰まった時期だというのに、長蛇の列がホールの外まで続いている。そのほとんどが、初奈の過激な衣装や写真集を見て集まった男性たちだった。
初奈が席に着くと、列の先頭にいた中年の男がにやにや笑いながら手を差し出してきた。目の奥が異様に光っていて、初奈の身体を舐め回すように見ている。
「初奈ちゃん、握手してください!」
「——ありがとうございます」
初奈は機械的に手を差し出した。男の手は汗ばんでいて、温かくて、それがかえって気持ち悪かった。男は彼女の手を離そうとせず、粘りつくような視線を全身に向けてくる。時間ですとスタッフに促されて、ようやく男は去っていった。その手には、初奈の手の感触がまだ残っているような気がした。
列は途切れることなく続いた。次々に差し出される手。次々に向けられる下卑た視線。そのたびに初奈の心の奥底で、何かがぱきんぱきんと音を立てて割れていく気がした。
(私は、ただ歌いたかっただけなのに)
五歳の庭。バラの香り。拍手をしてくれた知らない男の子。お母様が笑って言った。「貴方の夢には歌があるのね」。全部、遠い昔の夢のようだった。
「ありがとうございます」「ありがとうございます」「ありがとうございます」——呪文のように繰り返しながら、初奈は笑顔を作り続けた。もう何百人と握手したかわからない。手の感覚はとうに麻痺していた。ただ機械的に、差し出される手を握り返すだけの存在。それが今の桜坂初奈だった。
そのときだった。列の流れがほんの少しだけ止まり、次の相手が初奈の前に立った。初奈はいつものように手を差し出した。だが——その相手は、手を握らなかった。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。初めての経験だったからだ。今日の握手会で、誰一人として握手を拒否した者はいなかった。みんな我先にと初奈の手を求めてきた。なのに、この人は——なぜ。そう思いながら顔を上げた初奈の目の前に立っていたのは、学ランを着た少年だった。
ボサボサの髪。少し大きめの眼鏡。痩せた身体に、よれよれの学ラン。手には何も持っていない。あの、いつもの青いサイリウムさえも。
(達也くん——)
心臓が大きく跳ねた。そして気づいた。彼は、手を握らなかったのだ。下卑たファンたちと同じように手を差し出すのではなく、彼はただ、心配そうな目で初奈を見つめていた。何も言わず、何も求めず、ただじっと初奈の目を見つめている。その瞳は静かに揺れていて、心の奥底から初奈のことを案じているのが痛いほど伝わってきた。まるで世界中の誰もが初奈を消費している中で、彼だけが初奈という人間を見ている——そんな眼差しだった。
時間が止まったようだった。
周りの喧騒が消えた。隣のスタッフが何か言っているが、声は聞こえない。後ろの列の人間がざわついているのもわからない。ただ、初奈と達也くんの二人だけが、この空間に取り残されたみたいだった。
(ああ、そうだった)
初奈は、心の中で呟いた。
(私がここまで来られたのは、この人がいたからだ。誰も見てくれなかった路上ライブで、たった一人、サイリウムを振ってくれた。場末のショッピングモールで、二人で照れ臭そうにお辞儀をした。合同ライブで千本の光が消えても、それでも一人だけ揺れていた青)
達也くんは、何も変わっていなかった。初奈が過激な衣装を着ても、はしたないダンスをしても、下卑た視線に晒されても、彼だけはいつも同じ場所で、同じ青い光を振っていた。欲しいのは君の身体じゃない——そう言われているような気がしていた。それは思い上がりかもしれない。でも、そう信じたかった。
(あの頃と、何も変わらない目で、私を見てくれている)
初奈の唇が震えた。何か言いたい——この気持ちを伝えたい——でも言葉が出てこない。喉の奥で何かが張りついていて、声が形にならなかった。
代わりに、口が自然と動いていた。
「——た、す、け、て」
声は出なかった。音にならなかった。でも確かに、初奈の唇はそう動いた。
たすけて、達也くん。
その瞬間、後ろのスタッフが「お時間です! 次の方どうぞ!」と声を張り上げ、達也くんは人波に押し流されるようにして列から離されていった。彼は何度か振り返り、初奈を見ようとしていた。手が微かに持ち上げられ、何かを掴もうとしているようにも見えた。でも人の波がそれを許さず、彼の姿はあっという間に遠ざかっていく。
初奈は差し出されたままの手を下ろせずにいた。指先がかすかに震えている。目の前にはもう、次のファンが立っている。
「初奈ちゃん、握手お願いします!」
「——ありがとうございます」
初奈は再び機械のような笑顔を作った。でも、さっきとは違った。心臓が激しく脈打っている。体中の血が巡り始めたように熱い。達也くんが来てくれた。何も言えなかった。でも、彼は来てくれた。
次のファンと握手をしながらも、初奈の頭の中はあの日々でいっぱいだった。音羽堂の軒先。場末のショッピングモール。何度も繰り返したお辞儀。あの日の二人だけの約束。彼が走り去ったあと、そっと拾った青いサイリウム。プロフ帳に書かれた「趣味、初奈ちゃんの推し活」の文字。プールサイドで絞り出すように言ってくれた「はい」。
気がつくと、初奈は心の中で歌っていた。あの夜、泣きながら書いた歌詞。どうせ採用されないとわかっていた歌。それでも、初奈の魂を込めた歌だった。
『待ってるよ 待ってるよ』
(達也くんが、来てくれた)
それだけで十分だった。たった一瞬の再会が、どれほど初奈の心を救ったか——彼にはわからないだろう。
「ありがとうございます」「ありがとうございます」「ありがとうございます」——握手会はまだ続く。相変わらず下卑た視線はなくならない。でも初奈の心の奥底で、小さな火が燈った。それは青く、温かく、達也くんのサイリウムと同じ色をしていた。
お母様。私は今日、達也くんに「たすけて」と言いました。声にはなりませんでした。でも確かに、私はそう言ったのです。
まだ終わっていない。まだ、待っている。彼が迎えに来てくれるのを——私はまだ、待っている。
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