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勇者になる日

十二月二十六日、午後。年の瀬が迫り、街は帰省や買い出しに急ぐ人々で溢れていた。浅見達也はそんな喧騒から切り離されたように、握手会の会場へと続く歩道を一人で歩いていた。吐き気がする。昨夜から何も食べていないのに、胃の奥底から込み上げてくるものを必死に押さえつけながら、彼は自分の心に言い聞かせていた。


(これが最後だ。今日で終わりにする。ちゃんと彼女に別れを告げて——終わりにするんだ)


会場の外には、すでに長蛇の列ができていた。達也は最後尾に並びながら、周囲を見渡す。並んでいるのはほとんどが成人男性ばかりだった。その誰もが、これから初奈と握手できるという期待でそわそわし、中には気持ち悪い笑みを浮かべて「初奈ちゃんの手、柔らかいかな」などと話している者もいる。


(この人たちは、初奈ちゃんの何を見ているんだろう。歌か? それとも——身体か)


答えは考えるまでもなかった。もし彼らが本当に初奈の歌を聴きに来ているのなら、あの路上ライブの頃から来ているはずだ。でもあの頃、客はいつも数人しかいなかった。今この列に並ぶ何百人のうち、ほとんどは初奈の過激な衣装や写真集を見て集まった者たちだ。そう思うと、同じ列に並んでいることすら汚らわしく感じられて、達也は唇を噛みしめた。


列は少しずつ進んでいく。十分、二十分、一時間。達也はただ黙って、順番が来るのを待った。周りの男たちは相変わらず下卑た会話を続けている。時折、初奈の名前が聞こえるたびに、耳を塞ぎたくなる衝動に駆られた。


(それでも——これで最後だ)


彼はポケットの中で、青いサイリウムを握りしめていた。もう光はとうに消えている、あの日からずっと持ち歩いているサイリウムだった。初めて彼女の歌を聴いたとき、客は自分だけだった。慣れない手つきで必死に振ったサイリウム。あの日から、ずっと一緒だった。これで最後だから——せめてこれだけは、持っていこうと思ったのだ。


やがて、達也の番が来た。


目の前に初奈が座っている——その姿を見た瞬間、心臓が握り潰されたように痛んだ。彼女は過激な衣装をまとい、引き攣った笑顔でそこに座っていた。写真で見るよりもずっと痩せていて、目の下には深い隈がある。作り物の笑顔を貼りつけた彼女は、まるで人形のようだった。でも——その目だけは、死んでいなかった。それは他の誰も気づかないような、ほんのわずかな光だった。人形の目に宿る、最後の灯火。達也には、それが見えた。


初奈が、いつものように手を差し出してくる。細くて、白くて、今にも折れてしまいそうな手。その手を取るように促されて、達也は——できなかった。他の男たちと同じように、彼女の手を握ることなどできるはずがなかった。彼はただ、じっと初奈の目を見つめた。


(違う。僕が初奈ちゃんに望んでいるのは、こんなことじゃない)


そのときだった。初奈の唇が、かすかに動いた。


声は聞こえなかった。音は何も発せられなかった。でも、確かに彼女の口はそう動いた。


「——た、す、け、て」


時間が止まった。周りの喧騒が消えた。後ろの列のざわめきも、隣のスタッフの声も、何もかもが遠くなって、達也の世界には初奈だけが残った。


(助けて——? 彼女が今、そう言った? 僕に?)


答えを考える前に、彼は無意識に一歩を踏み出そうとしていた。だが、初奈の横に立つ巨漢の存在に気づき、その足が凍りつく。大山だ。あの、剛田さんの腕を一瞬で折り曲げた男。本物の怪物。大山はにやにや笑いながら、初奈の肩に手を置いている。まるで「これは俺の所有物だ」と言わんばかりの、支配者の仕草だった。


(怖い。怖い。怖い——)


達也は生まれて初めて、自分の命が危険に晒されるかもしれないという恐怖を味わった。本物の殺意を浴びたことがある者だけが漂わせる、あの空気。大山の纏うそれは、喧嘩のそれではなく、殺し合いのそれだった。


「お時間です! 次の方どうぞ!」


スタッフの声で、達也は人波に押し流された。彼は流されるまま会場の出口へと向かう。周りの男たちは満足そうに笑っている。中には「初奈ちゃんの手、最高だった」と話す声も聞こえた。その一言一言が、無数の針のように胸に刺さる。


出口に着いた。ここを出れば、すべてが終わる。これで推し活も終わりだ。危険な目に遭うこともない。元の静かな日常に戻るだけだ。


(それでいいのか——浅見達也)


彼の足が、ぴたりと止まった。目の前は出口。あと一歩で外に出られる。外は年の瀬の穏やかな冬晴れで、普通の日常が待っている。それなのに——足が動かない。地面に根が生えたように、一歩も前に進めなかった。


(無理だよ。剛田さんが勝てなかったんだ。プロレスラーが一瞬で腕を折られたんだ。僕に何ができるっていうんだ。喧嘩もしたことない、中学ではなぐられてばかりだった…僕じゃ無理だ、『誰か』に任せよう)


腕力もない、財力もない、知恵もない、権力もない。そんな僕に何が出来るんだ。


そう自分に言い聞かせても、足は動かない。むしろ震え始めていた。膝が笑っている。自分の意志とは関係なく、全身が恐怖を訴えている。怖い。怖い。怖い。怖い——。


(違う)


達也ははっと気づいた。この震えは、恐怖だけじゃない。胸の奥底から、何か熱いものが込み上げてきている。それは怒りだった。


(——違う、怖いんじゃない。僕は、怒っているんだ)


初奈ちゃんが苦しんでいる。彼女は今、確かに「たすけて」と言った。声にならない叫びを、確かに僕に向けて放った。あの日、僕は彼女に「迎えに来てくれますか」と尋ねられて「はい」と答えた。約束したのだ。それを破るくらいなら——


(人間じゃない)


そのとき、脳裏にあの約束が浮かんだ。プールサイドでの会話。初めてちゃんと、二人だけで話した日。水の匂い。彼女の濡れた髪。震える声で「迎えに来てくれますか」と尋ねた初奈に、自分は確かに「はい」と答えた。そのとき感じた、胸の奥の熱さ。あのとき自分は、本気だった。本気で彼女を救いたいと思った。


(推しが——泣いてた)


達也は拳を握りしめた。彼女の涙の理由も知らず、ただ応援しているだけのオタクでいいのか。違う。彼女が泣いている。苦しんでいる。助けを求めている。それを無視するくらいなら——


(——オタクですらない)


その瞬間、達也の中で何かが弾けた。恐怖が消えたわけではない。恐怖はある。でもそれ以上に、怒りが、約束が、そして彼女への想いが、彼の身体を突き動かした。


気がつくと、達也は走り出していた。出口ではなく——会場の中へ。


「お客様!? そちらは関係者以外立ち入り禁止です!」


後ろから警備員の声が聞こえたが、振り返らなかった。足は勝手に動いていた。心臓が激しく脈打ち、肺が酸素を求めている。それでも彼は走るのをやめなかった。会場の奥にはまだ初奈がいる。大山がいる。何ができるかわからない。でも——行くんだ。


「勇者がいないなら——」


彼は叫んだ。自分に言い聞かせるように、世界中に宣言するように。


「——僕がなってやる!!」


それは浅見達也という一人のオタクが、生まれて初めて自分の意思で選んだ道だった。静岡から上京して、ドル研に無理やり入れられて、ただ流されるままに生きてきた彼が、初めて自分から掴み取ろうとした未来だった。


冬の午後、会場の奥に消えていく学ランの背中。まだ何も始まっていない。でも、確かに何かが動き出した。


たとえ魔王が相手でも——約束だけは守る!!

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