浅見達也
浅見達也は、真面目だけが取り柄の少年だった。
静岡県沼津市。富士山を望む港町で生まれ育った彼は、物心ついた頃からずっと「普通」という言葉がぴったりの子供だった。テストの点数はいつも平均点の少し上。運動はどれもこれも平均点の少し下。教師からは「おとなしくて真面目な子」と評され、通知表には毎学期同じようなコメントが並んだ。親に反抗したこともなければ、友達と大喧嘩したこともない。ただ静かに、目立たず、誰にも迷惑をかけずに生きてきた。
彼が唯一、心から好きだと言えたものがアニメだった。幼い頃から日曜朝のヒーローものに夢中になり、小学生になれば深夜アニメに目覚め、中学生になるとアニメショップに通い詰めるようになった。部屋の本棚はブルーレイとアニメ雑誌で埋まり、壁にはお気に入りの声優のポスターが貼られている。二次元の世界だけが、彼の心を自由にしてくれた。三次元の人間関係に疲れるたび、彼はアニメの世界に逃げ込んだ。そこには裏切りも、嘲笑も、期待もなかった。
断れない性格は、彼の人生にずっと影を落としていた。「嫌だ」と言えない。それがどれだけ損なことか、頭ではわかっているのに、相手を不快にさせるくらいなら自分が我慢すればいい——そう考える癖が、幼い頃から染みついていた。
高校入学は、そんな達也にとって運命の分岐点だった。春、期待と不安を胸に上京した彼を待っていたのは、アニメ研究会への入部を夢見る甘い幻想が打ち砕かれる瞬間だった。アニ研は数年前に廃部になっており、呆然と立ち尽くす彼の肩をガッと掴んだのが、同じクラスになった田中と伊藤だった。胸には「ドル研」と大書された派手なTシャツを着ている。
「君、新入生でござるか! 一緒にアイドルの素晴らしさを追求しないでござるか!」
「左様! 君のような真面目そうな人材こそ、ドル研には必要なのでござる!」
「いや、僕はアニ研に——」
「アニ研はもうないでござるよ! さあ、我々と共に!」
それがすべての始まりだった。達也は為す術もなくアイドル研究会に引きずり込まれ、以来、休日ごとに先輩たちに連れ回される日々が始まった。ライブハウスに連れて行かれ、サイリウムの振り方を指導され、コールの練習をさせられた。でも正直なところ、ステージの上で輝くアイドルたちを見ても、心は動かなかった。綺麗だとは思う。すごいとも思う。でも、それだけだった。テレビの中の映像と何も変わらない、遠い世界の出来事のように感じていた。
季節は巡り、年が明けたある日。
達也はアニメの主題歌CDを買うために、下町にある小さなCDショップ「音羽堂」を訪れた。ネットで買えば早いのだが、田中先輩の頼みで商店街のチラシ配りを手伝ったついでに立ち寄ったのだ。
そのときだった。
店の前から、歌声が聞こえてきた。
冬の冷たい空気の中で、ラジカセを伴奏に一人の少女が歌っている。達也は思わず電柱の陰に隠れて、息を殺してその声を聴いた。少女は白いコートを着て、寒さで指先を真っ赤にしながら、それでも心を込めて歌っていた。彼女の吐く息は白く、それがスポットライトのように彼女を包んでいる。
(——綺麗だ)
それは、アニメの主題歌でもなければ、先輩たちに聴かされたアップテンポなアイドルソングでもなかった。静かで、優しくて、でもどこか切なくて。まるで冬の陽だまりのような歌声だった。ラジカセ越しの頼りない音響なのに、その声は電柱の陰に隠れる達也の心の真ん中にまで届いてきた。変な表現だ、と達也は自分で思った。でも、それ以外に言い表しようがなかった。
気がつくと、彼の手にはアニメのCDではなく、その少女のCDが握られていた。店に入り、レジの前で震える手でお金を払ったのを覚えている。店主は何も言わず、ただ少しだけ目を細めて達也を見ていた。
家に帰ってから、達也はそのCDを繰り返し聴いた。桜坂初奈。それが彼女の名前だとジャケットに書いてあった。
『貴方に出会えてよかった、この世界が美しく見えるから』
そのフレーズが、特に好きだった。聴くたびに勇気が湧いてきた。学校で嫌なことがあっても、先輩たちに無理やり連れ回されても、この曲を聴けば大丈夫だと思えた。まるで彼女が、自分のために歌ってくれているような気がした。それはもちろん勘違いで、都合のいい思い込みに過ぎないと頭ではわかっていたが、それでも彼の心は確かに励まされていたのだ。
以来、達也は時間を見つけては彼女のイベントに通うようになった。チラシで見つけた小さなライブの予定を手帳に書き込み、電車を乗り継いで会場に向かう。最初は本当に勇気が要った。一人でサイリウムを振るなんて、考えただけでも恥ずかしくて死にそうだった。でも、彼女の歌が聴きたい。ただその一心だった。
イベントのたびに、達也は青いサイリウムを振った。青が彼女のイメージカラーだと、どこかで聞いたからだ。客はいつもまばらで、多いときでも数人。それでも彼女はいつも精一杯歌っていた。誰も聴いていなくても、たった一人でも、決して手を抜かなかった。
気がつくと、彼の周りには少しずつ仲間が増えていた。田中先輩と伊藤先輩は言うまでもない。川でカバンを拾った縁で知り合った女子高生たち、バイト先のジムで親しくなったプロレスラーの剛田さん、そして無口なサラリーマンの佐藤さん。みんな達也と同じで、初奈の歌に惹かれて集まった人たちだった。イベントのあとにみんなでファミレスに行って、初奈ちゃんのどこが好きか語り合う。そんな時間が、達也には何よりの宝物だった。
街中で初奈とすれ違うことも何度かあった。渋谷の交差点、駅のホーム、図書館の静かな廊下。そのたびに達也は心臓が飛び出しそうになって、慌てて物陰に隠れた。話しかけたい。でも、恐れ多すぎる。自分はただのオタクで、彼女はアイドルで——その距離をどう縮めていいのか、わからなかった。ただ、同じ空間にいられただけで、幸せだった。
あの合同ライブの日。箒という人気アイドルとのステージで、会場は超満員だった。千本近いサイリウムが揺れる中で、初奈がステージに立った瞬間、周りの光が一つ、また一つと消えていった。
達也は——自分だけは、青いサイリウムを振り続けた。周りの観客がクスクスと笑うのがわかった。「なにあれ、一人だけ振ってる。ダサ」という声も聞こえた。手が震えた。恥ずかしかった。でも、この光を消すわけにはいかなかった。消したら、彼女が一人になってしまう。たった一人の、誰にも見向きもされないアイドルになってしまう。それは、嫌だった。だから、笑われても、指を差されても、彼はサイリウムを振り続けた。彼女の歌が好きだから。ただそれだけの理由で。
しかし、ある日から、すべてが変わった。
初奈の衣装が明らかに変わった。布面積が激減し、彼女の細い肢体がほとんど露わになっていた。歌詞も変わった。以前は母の言葉を紡いだ優しい歌だったのに、今は過激な恋愛の歌ばかり。ダンスも、はしたないと言われても仕方のない動きが増えた。
それでも達也は通い続けた。他のファン仲間は一人去り、二人去り、気がつけば剛田さんも佐藤さんも女子高生たちも、誰も来なくなっていた。田中先輩と伊藤先輩は「行くな」と言った。達也は一人で通った。理由はわからなかった。でも、彼女の目が——ステージの上で作る笑顔の裏で、初奈の目がいつも悲しそうだったから。泣いているように見えたから。
グッズは買う気がしなかった。今の初奈のグッズを買うことは、あの大山という男のやり方を認めることになる気がしたからだ。それでも、歌声だけは——昔と変わらない、あの芯のある歌声だけは、達也の心を離さなかった。
久しぶりに剛田さんに会ったのは、つい先日のことだった。
バイト先のジムに、いつも通りに現れると思っていた剛田さんの姿が見えなくなって数日。心配になった達也は彼の自宅を訪ねた。ドアを開けた剛田さんの右腕は、包帯でぐるぐる巻きにされ、不自然な角度で固定されていた。
「大山という男にやられた」
剛田さんは静かに言った。事務所に殴り込んだこと。初奈を助けようとしたこと。でも指一本触れられず、一瞬で腕を折られたこと。
「達也、すまん。俺では、どうにもならなかった」
プロレスラーとしてリングに立ち続けてきた百キロ超の巨漢が、声を震わせてうつむいた。その姿に、達也は言い知れぬ恐怖を覚えた。剛田さんは達也が知る限り、この世で一番強い人間だった。その剛田さんが、一瞬で腕を折られた。それが、どういうことなのか。考えたくもなかった。
それでも、彼は初奈の配信を観るのをやめなかった。
今夜も、スマートフォンの画面の中で初奈が笑っている。布切れのような衣装をまとい、引き攣った笑顔をカメラに向けている。コメント欄は下卑た言葉で溢れ、それを彼女が見ているかと思うと吐き気がした。達也は震える指で「大丈夫? 無理してない?」と打ち込んだ。でもその言葉は、次の瞬間には下卑たコメントの波に流され、無数の卑猥な言葉の中に消えていった。
達也はスマートフォンを握りしめたまま、声を押し殺して泣いた。画面の向こうで彼女が苦しんでいるのに、何もできない。手を伸ばしても、何も届かない。
(ただのオタクに、何ができるっていうんだ)
その夜、達也は布団の中で一睡もできなかった。
翌日、田中先輩と伊藤先輩に呼び出されたのは、いつもの学食だった。二人の表情はいつもと違い、箸もつけずにじっと達也を見つめている。やがて田中先輩が口を開いた。
「達也氏、我々は——もう初奈殿の推し活をやめることにするでござる」
「——え」
「元気がなくなっていく君を、もう見ていられないのでござる。ライブのたびにやつれていく達也氏を見るのが、拙者たちは辛い」
「先輩たち……」
「大山という男の噂は我々も聞いた。日本裏社会の最強の男。通称『魔王』。警察も手が出せない。そんな相手に、我々に何ができる。何もできない。それならせめて——自分の心を守るべきでござる」
伊藤先輩の声は、泣いているようにかすれていた。彼らもまた、悔しかったのだ。何もできない自分たちが、情けなくて仕方ないのだ。達也はうつむいた。先輩たちの言うことは正しかった。でも——でも——。
夜、達也はアパートの一室で膝を抱えていた。スマートフォンの画面には、今夜も初奈の配信が映っている。引き攣った笑顔。下卑たコメント。消えていく「大丈夫?」の文字。
彼は画面を見つめながら、ぼんやりと考えていた。子どもの頃、父親に言われた言葉を思い出す。『お前は真面目だけど、それだけじゃ世の中渡っていけないぞ』。その通りだった。真面目なだけの自分に、何ができる。空手も柔道もやったことがない。喧嘩だってしたことがない。身長も平均より低く、体格も細い。バイト先のジムで少し鍛えたくらいで、剛田さんのような筋肉があるわけでもない。
でも——それでも——。
「迎えに来てくれますか?」
プールサイドで初奈にそう言われたとき、彼は何も考えずに「はい」と答えた。あのときの彼女の目は、今にも泣き出しそうで、それでも必死に何かを信じようとしていた。自分はあのとき、確かに「はい」と言ったのだ。何もできないかもしれない。それでも——それでも、約束を破ることだけは、できない。
「……行く」
達也は呟いた。震える声だった。
「行く。僕は——行く」
彼は立ち上がった。膝は震え、手のひらには汗が滲んでいる。それでも彼は立ち上がった。約束を守るために。たった一度だけ、誰かに誓った「はい」を、嘘にしないために。
それは無謀だった。愚かだった。自分でもわかっている。勝てるわけがない。傷つくだけだ。それでも——それでも、彼は行くしかなかった。自分の心が、それを求めていた。
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『貴方に出会えて良かった、この世界が美しく見えるから。』
第三十九話「魔王と勇者」
十二月二十五日、クリスマス。街は一年で最も幸福な朝を迎えていた。昨夜から降り続いた雪は今朝には止み、真っ白な絨毯が街を覆っている。子供たちはプレゼントを開けて歓声を上げ、恋人たちは手を繋いで微笑み合う。誰もが幸福を口にする、特別な一日。
浅見達也は、そんな街の片隅にある古びたアパートの一室で、重たい瞼を開いた。六畳一間の質素な部屋。壁にはアニメのポスターが貼られ、机の上には参考書とアイドルのCDが積み上げられている。昨夜はほとんど眠れなかった。布団の中で何度も寝返りを打ち、結局朝日が差し込むまで天井を見つめていた。目の下には濃い隈ができていて、鏡を見るのが少し怖かった。
何かをしなければ——その思いだけが、疲れ切った身体を無理やり動かした。彼は冷たい水で顔を洗い、学ランに袖を通す。コートを羽織り、マフラーを巻いて部屋を出た。ポケットには、震える指で握りしめたスマートフォン。待受画面は相変わらず、あの青いサイリウムの写真だった。
まず向かったのは、スターライトプロダクションの事務所だった。エントランスで九条玲子が出迎えてくれた。彼女の顔はこの数週間で随分とやつれていて、目の下には達也と同じように深い隈が刻まれている。それでも彼女は背筋を伸ばし、静かに達也を会議室へと案内した。
「よく来たわね、浅見くん」
九条さんが差し出したホットコーヒーを受け取りながら、達也は単刀直入に尋ねた。
「九条さん、僕にできることはありませんか。何でもします。初奈ちゃんを助けたいんです」
その言葉を聞いた九条さんの目が、ほんの少しだけ揺れた。彼女は長い沈黙のあと、まるで決心したかのように顔を上げると、手元の手帳から一枚の紙を破って差し出した。そこには数人の名前と連絡先が、几帳面な文字で記されている。
「——この人たちに、会ってほしいの。みんな、大山に潰されたアイドルたちよ」
達也はその紙をじっと見つめた。名前は五つ。見知らぬ名前ばかりだったが、そのどれもが大山という怪物に傷つけられた人たちだと思うと、紙切れ一枚が急に重く感じられた。
「大山はこれまでに何人ものアイドルを食い物にしてきた。彼の手にかかれば、どんなに輝いていた子も、半年もしないうちに壊されてしまう。この人たちは、その被害者であり、生き残りでもある。話を聞けば、何かが見えてくるかもしれない」
「——行きます。全員に会います」
達也はコーヒーに口もつけずに立ち上がった。九条さんが深く頭を下げるのが見えたが、それに応える余裕もなく、彼はもう会議室を飛び出していた。
最初に訪れたのは、都内のアパートの一室だった。表札もなく、インターホンも壊れている。ドアの向こうからは物音ひとつ聞こえない。達也が何度かノックすると、ようやく少しだけドアが開き、女性の顔が覗いた。年の頃は二十代半ば。かつてはアイドルだったというその人は、今は痩せ細り、生気のない目をしていた。
「九条さんから紹介されて来ました。浅見達也といいます」
「……何の用」
「大山という男のことで、話を聞きたくて」
大山の名前を出した瞬間、女性は恐怖で硬直した。全身が震え、手がドアノブを握りしめて白くなる。彼女はしばらく逡巡していたが、やがて小さく「……入れ」と言ってドアを開けた。
部屋はカーテンが閉め切られ、昼間だというのに薄暗かった。部屋の隅には積み上げられた段ボール。ベッドの上には散らかった服。そして壁には——何も貼られていなかった。かつて彼女がアイドルだった痕跡は、どこにも見当たらない。女は小さなテーブルを挟んで達也と向かい合うと、ぽつりぽつりと語り始めた。大山と出会ったのは三年前。最初は敏腕プロデューサーだと聞かされていたこと。でも実際は違った。過激な衣装、恥ずかしいポーズの写真集、そして——もっと酷いこと。
「——歌えなくなった」
女性は感情のない声で言った。
「ステージに立つだけで吐き気がするようになった。喉が閉まって、声が出なくなるの。あの人の顔が浮かぶだけで、全身が凍りつく」
「告発しようとは思わなかったんですか」
「できるわけないでしょ」
彼女は力なく首を振った。
「あの人に逆らったらどうなるか、みんな知ってる。ヤクザも暴走族も格闘家も、みんなあの人に叩き潰された。警察なんて当てにならない。証拠ならたくさんある。録音も、写真も、メールの履歴も。でも——誰も動けないの。動いたら、殺される」
達也は言葉を失った。彼女の言う「証拠」がどんなものか、想像するだけで吐き気がする。でも確かにそれらは、大山という怪物を裁くための武器になるはずだった。ただ——それを扱える者が、どこにもいない。
次に訪れたのは、都内の片隅にある小さなアパートの一室だった。住人は元アイドルの女性で、今はコンビニのアルバイトで生計を立てている。彼女は大山に「商品」として扱われ、売上が落ちると同時に捨てられたという。彼女は証拠の入ったUSBメモリを持っていたが、それを見せることはできなかった。見せる相手がいないから。逆上した大山が何をするか、わかっているから。
三人目は、実家に引きこもっているという元アイドルの女性だった。地方の静かな住宅街で、彼女はもう半年以上も自室から出ていない。ドア越しに話を聞いたが、彼女は最後まで顔を見せなかった。ただ「もう放っておいてください」という声だけが、薄いドアの向こうから聞こえてきた。
四人目は、精神科の病院にいた。彼女は大山のプロデュースでデビューし、わずか三ヶ月で心を壊した。今はカウンセリングを受けながら、静かな日々を送っている。面会室で彼女が絞り出した言葉は「逃げてください、あの人からは」だった。
五人目は——もうこの世にいなかった。墓前に花を供えてきたと、九条さんは教えてくれた。この業界で、どれだけの人間が大山に人生を奪われたか。達也はその墓の前で立ち尽くし、ただ手を合わせることしかできなかった。
日が傾き始めた頃、達也は最後の一人に会うため、都内から離れた町の喫茶店に来ていた。彼女は元アイドルで、今は小さなパン屋で働いているという。幸いにも彼女は店の奥の座席で達也を迎えてくれた。
「告発の証拠は、揃ってるんです」
彼女は静かに言った。手には分厚い封筒が握られている。
「私だけじゃない。何年も前から、みんな証拠を持ってる。録音、動画、写真、契約書のコピー……全部ある。でも——」
「でも?」
「あの人には、そんなもの通用しない。法律も警察も、あの人を止められない。あの人は、暴力そのものだから。言葉が通じない。理屈が通じない。ただひたすらに、力でねじ伏せるだけ」
彼女が差し出した封筒を受け取りながら、達也は尋ねた。
「大山って、そんなに強いんですか」
彼女はしばらく黙っていた。カップの中で紅茶が冷めていく。ティースプーンがカチャリと小さく鳴った。窓の外では夕暮れが近づき、街がオレンジ色に染まり始めている。彼女は何かを思い出すように遠くを見つめ、それから静かに口を開いた。
「——知ってる範囲で話すね」
彼女は語った。大山という男の過去を。元は海外の傭兵部隊にいたこと。戦場で人を殺すことに何の躊躇もなく、むしろ楽しんでいたこと。帰国後、裏社会でその腕を見込まれ、多くの組織から引き抜きの声がかかったこと。でも彼はどこにも属さず、気ままに芸能界に流れ着いたこと。
「暴走族のトップが喧嘩を売ったことがある。十人以上で取り囲んで、金属バットも持ってた。でも——全員、十分も経たずに病院送り。一人だけ顔面を三十針縫う大怪我だった」
「ヤクザの事務所に一人で乗り込んだこともある。銃を持った十数人の構成員を素手で全員叩きのめして、組長の両足を折った。それ以来、どこの組も大山には手を出さない」
「プロの格闘家もいた。K1の元チャンピオン。でも三秒で意識を失った。キックボクシングのチャンピオンは腕をへし折られて引退。柔道のオリンピック選手は投げられて肩を壊した」
「——警察も、何度か動こうとしたことはある。でもそのたびに、担当刑事が『事故』で怪我をしたり、証拠が『消失』したりした。今ではもう誰も手を出さない。大山は、警察すらも怖がる相手になってる」
「でも、魔王だなんて——」
「みんなそう呼んでる。でもその呼び名を聞いて彼は笑ったらしい。『魔王を倒せるのは勇者だけだ。いるもんなら連れてこい』って」
勇者。
その言葉が、達也の胸に深く突き刺さった。魔王を倒せるのは勇者だけ。そんなの、まるでアニメやゲームの世界だ。現実にいるはずがない。いてたまるか。
僕なんてせいぜい村人Aじゃないか…。
パン屋の女性と別れたあと、達也は夕暮れの街を一人で歩いた。クリスマスのイルミネーションがきらめき、恋人たちが肩を寄せ合って歩いている。みんな笑っている。みんな幸せそうだ。でもその光景は、達也にはひどく遠く感じられた。
(僕には、手に負えない)
証拠は揃っている。なのに誰も動けない。動いた者はみんな病院送りにされ、あるいはもっと酷い目に遭っている。ヤクザも格闘家も、プロレスラーも、みんな叩き潰された。
(僕に何ができるっていうんだ)
普段着のまま、達也は公園のベンチに腰を下ろした。冷たい風が吹いて、ベンチの端に積もった雪がさらさらと舞い上がる。手にはスマートフォン。画面にはスターライトプロダクションの公式サイトが表示されている。明日の握手会の告知。初奈の名前が、そこにあった。
(明日の握手会で——推し活は終わりにしよう)
それが、自分にできる唯一のことだった。最後に一度だけ、彼女の手を握って、ありがとうと伝える。それで、終わりにしよう。そうしないと、自分まで壊れてしまいそうだった。
(ごめん、初奈ちゃん)
彼は空を見上げた。もうすぐ夜が来る。街はクリスマス一色で、誰もが幸福そうで、そんな世界の片隅で、達也は一人、声を押し殺して泣いた。
魔王を倒せるのは勇者だけだ。そんな人がいるなら、お願いです。
初奈ちゃんを助けてください。
誰か、誰か




