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祈り



十二月二十三日、クリスマスイブの前日。街は一年で最も華やかな季節を迎えていた。駅前には巨大なツリーが飾られ、カップルたちが腕を組んで歩き、子供たちはプレゼントの話で笑い合っている。誰もが幸せそうで、その光景はまるで絵葉書のように完成されていた。


箒は、そんな街の喧騒から少し外れた場所にある市民病院の前に立っていた。グレーの空からは粉雪がちらつき始め、彼女の肩に白く積もっていく。十三歳の少女には広すぎるその建物を見上げながら、箒は唇を噛み締めていた。


(ウチ、どうしてこんなことになってしもうたんやろ)


昨日、箒は初奈のライブを客席の後ろから見ていた。大きな会場は満席で、サイリウムの光が無数に揺れている。一見すれば、それは華やかなアイドルの光景だった。でも、ステージの上に立つ初奈の顔は違った。引き攣った笑顔。魂の抜けた目。ほとんど面積のない衣装で、男たちの下卑た視線に晒されながら、それでも初奈は歌っていた。


箒は泣きながら見ていた。初奈が壊れていくのを、指をくわえて見ていることしかできなかった。怖かった。何かしなければと思った。でも、ウチに何ができる——あの大山という男に、たった一人で立ち向かえるはずがない。


箒は震える手でスマートフォンを取り出すと、ファンたちに助けを求めるメッセージを送った。彼女のファンには腕っぷしに自信のある若者たちが何人もいた。彼氏自慢のギャルたちが「うちの彼氏、元ヤンやから任せて!」と名乗りを上げ、六人の若者たちが大山の元へと向かった。


結果は、無残だった。


六人全員が病院送りになった。手足を折られ、心も折られ、今は病室のベッドで天井を見つめている。箒はその一人ひとりのもとを訪ねて、頭を下げて回った。「ごめんなさい」と繰り返す彼女に、ある青年は泣きながら言った。「箒ちゃんは悪くない。でも、もう無理だ。あれは人間じゃない」と。


それでも箒は諦めきれず、今度は実家に電話をかけた。箒には三人の兄がいる。歳の離れた兄たちは、揃って会社を経営するやり手で、高身長のイケメンという絵に描いたような存在だった。妹の危機に、三人は翌日の新幹線で上京してきた。


「箒、心配すんな。俺たちが何とかしたる」


「そうや、法律でガチガチに固めて、あの事務所ごと潰したるわ」


「お前は何も心配せんでええ。兄ちゃんたちに任せとけ」


箒は泣きながら兄たちに縋った。今度こそ、今度こそ何とかなる。そう信じた。


その翌日、三人とも入院した。両手両足を折られ、顔は腫れ上がり、もはやイケメンの面影すらなかった。それでも兄たちは、病室のベッドの上で箒に笑いかけた。「箒、すまん。俺たち、力不足やった」と。一番上の兄は、それだけ言って声を詰まらせた。箒は、白いシーツに包まれた兄たちの姿を見て、生まれて初めて絶望というものを知った。


そして今日。箒は病院からの帰り道で、大山に呼び出された。事務所の裏手、ゴミの集積場のような薄暗い路地で、大山は煙草をふかしながら待っていた。


「よお、箒。お前の兄ちゃんたち、なかなか骨があったぜ。折り甲斐があった」


箒は何も言えなかった。ただ全身が震えて、歯の根が合わなかった。


「お前が次に何か仕出かしたら、今度はお前自身の骨を折る。わかったな」


大山はそれだけ言うと、煙草を地面に押しつけて去っていった。箒はその場にへたり込み、声もなく泣いた。怖かった。怖くて怖くて、もう何もできなかった。


病院の待合室は、しんと静まり返っていた。白い壁、消毒液の匂い、遠くから聞こえる看護師の足音。箒が重い足を引きずって病室の廊下を歩いていると、見覚えのある人影が目に入った。


「ぼたんさん……るるかさん……」


二人は、病室の前の長椅子に並んで座っていた。ぼたんは俯いたまま、組んだ両手をじっと見つめている。るるかはその隣で、天井を仰いで静かに息を吐いていた。箒が声をかけると、二人はゆっくりと顔を上げた。ぼたんの目は赤く腫れていて、普段の勝気な表情は影を潜め、まるで迷子の子供のように心細げだった。るるかはいつもの「うふふ」という笑みを浮かべていたが、その目はまったく笑っていなかった。


「箒ちゃん、あなたもお見舞い?」


るるかの声は、驚くほど穏やかだった。でも、その穏やかさが逆に恐ろしかった。


「はい……兄ちゃんたちが、迷惑かけてすみません」


「いいのよ。謝ることじゃないわ。それより、そっちもひどい有様ね」


「るるかさんたちこそ、なんでここに……」


「あら、聞いてない? 私のファンクラブの男の子たちも、全滅だって。筋骨隆々のいい体してたんだけどね、今はみんな包帯ぐるぐる巻きよ。うふふ」


乾いた笑いだった。心の底から絞り出すような、それでいて感情という感情が抜け落ちた笑い声。箒は背筋が冷たくなるのを感じた。


「それから、あの剛田さんもだ」


ぼたんがぽつりと呟いた。その声は掠れていて、箒が知っているぼたんの声とはまるで違った。


「剛田さんって、達也くんと一緒にいたプロレスラーの?」


「そうだ。大山に腕をへし折られた。プロレスラーだぜ、あの人。それが一瞬だ。素手でだ。もう、誰もあの怪物には勝てねえ」


ぼたんは両手で顔を覆った。その肩が小刻みに震えている。泣いているのかと思ったが、声は出ていなかった。泣く気力すら、もう残っていないのかもしれない。


「もう終わりね」


るるかが静かに言った。窓の外では、粉雪が激しさを増している。街はクリスマスだというのに、この病院の中だけは時が止まったように静かだった。


「みんな、やられちゃった。剛田さんも、箒ちゃんのお兄さんたちも、私たちのファンの子たちも。もう誰も、大山に逆らえない。逆らえる人間なんて、最初からいなかったのよ」


「……次は、オレたちの番、か」


ぼたんが顔を上げた。その目には涙が浮かんでいた。普段の勝気な彼女からは想像もできないほど、怯え切った瞳だった。


「オレ、あいつの舌が頬に触れた感触が、まだ消えねえんだ。気持ち悪くて、怖くて、もう二度とあんな思いしたくねえ。でも、でもよ、次はもっと酷いことされるんだろうな。逃げられねえ。どこにも、逃げられねえんだ」


そう言って、ぼたんはまた顔を覆った。その指の隙間から、静かに涙がこぼれ落ちる。男嫌いの彼女が、どれほどの恐怖と屈辱を味わったか、箒には痛いほどわかった。


箒はその場に立ち尽くしていた。るるかの乾いた笑みも、ぼたんの怯え切った涙も、すべてが現実とは思えなかった。ついこの間まで、三人はスタジオで笑い合っていたのに。初奈のイベントを手伝って、一緒に汗を流して、たこ焼きを食べて、何でもないことで笑い合っていたのに。そのすべてが、遠い昔の夢のように感じられた。


「箒ちゃん、これからどうする?」


るるかが優しく尋ねた。その声にはもう、何かを期待する響きはなかった。ただ現実を確認するだけの、静かな問いかけだった。


箒は俯いて、唇を噛み締めた。どうする、どうすればいい。ウチはまだ十三で、何もできなくて、兄ちゃんたちもやられてしまった。でも——。


そのとき、箒の脳裏にある光景が浮かんだ。初奈の歌が終わったあと、千人の沈黙の中で、たった一人だけ拍手をし続けた青い光。いつも初奈のイベントに来ていて、一度も話しかけず、ただサイリウムを振って、お辞儀をして帰っていく学ランの少年。でも、初奈が困っているときは必ず現れて、何も見返りを求めず、ただ青い光を振り続ける——。


「まだや」


箒は顔を上げた。その目は、さっきまでとは違う光を宿していた。


「まだ、終わってへん。まだ1人おる。初奈さんを救えるのは、あの人しかおらへん」


るるかが息を呑んだ。ぼたんも顔を上げる。


「——学ランの人や。たっくんや」


その言葉に、ぼたんの表情が崩れた。彼女は椅子から立ち上がり、泣き叫ぶように声を上げた。病院の廊下に、その悲痛な叫びが響き渡る。


「救えるわけねえだろ!! あんな普通の高校生が! プロレスラーも、社長も、みんな病院送りにされたんだぞ! あいつに何ができるっていうんだよ! それに——それにあいつは、オレたちと違って、何の関係もねえんだ! アイドルでも何でもねえ、ただの——ただのファンなんだぞ!」


ぼたんの目からは、止めどなく涙が溢れていた。怒りと、恐怖と、そしてそれ以上に——達也くんを巻き込むことへの罪悪感。それがごちゃ混ぜになった慟哭だった。


「ぼたんちゃん、落ち着いて」


「落ち着けるかよ! オレは——オレはもう、これ以上誰かが傷つくのを見たくねえんだ! 剛田さんが腕を折られたとき、オレ、何もできなかった! あの人の前で、ただ震えてるしかできなかった! もう嫌なんだよ! 誰かのせいで誰かが傷つくのは——!」


ぼたんは声を詰まらせ、その場にしゃがみ込んだ。肩を震わせ、声を押し殺して泣いている。勝気で、誰よりも強くて、男なんて大嫌いだと言い放っていた彼女が、今は小さな子供のように縮こまっていた。るるかがそっと彼女の肩に手を置いたが、何も言わなかった。言えることなど、何もなかった。


やがて、るるかがぼたんを支えるようにして立ち上がった。その顔には相変わらず微笑みが貼りついていたが、目の奥は深く沈んでいた。


「箒ちゃん、私たちは先に帰るわ。ぼたんちゃんを休ませないと」


「……はい」


「箒ちゃんも、無理しないでね」


二人が病院の廊下を去っていく。ぼたんはるるかに肩を支えられながら、一度だけ振り返った。その目はまだ涙に濡れていて、しかし何かを言いたげに揺れていた。でも、結局彼女は何も言わず、そのまま曲がり角の向こうに消えていった。


箒は一人、病院の廊下に残された。白い壁、消毒液の匂い、遠くのナースコール。静寂だけが彼女を包んでいる。


窓の外の雪は、いつの間にか本降りになっていた。街はクリスマスイブを明日に控え、浮かれている。でも箒の心は、鉛のように重かった。兄ちゃんたちも、ファンの人たちも、剛田さんも、みんな傷ついた。ぼたんさんは心まで折られてしまった。初奈さんは毎日壊れていっている。


でも——まだ終わってへん。


「たっくん……」


箒は誰もいない廊下で、そっと膝をついた。両手を胸の前で組み、ぎゅっと目を閉じる。神様に祈るのは、生まれて初めてだった。でも今は、縋れるものなら何でもよかった。


「助けて、学ランの人。助けて、たっくん——」


病院の廊下に、少女の祈りが静かに溶けていく。窓の外では、雪が音もなく降り積もっていた。街はクリスマス一色で、誰もが幸福そうで、そのすべてが箒には遠い世界のように感じられた。


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