闇の底
朝が来た。
初奈が重い身体を引きずって事務所の裏口から出ようとすると、そこには異様な光景が広がっていた。複数人の人間が、地面に転がっている。呻き声が聞こえる。手足が、ありえない方向に曲がっていた。
その中に見覚えのある顔があった。るるかのファンクラブにいた、筋骨隆々の男性たち。箒のファンクラブのギャル軍団の、腕っぷし自慢の彼氏たち。みな一様にしてやられていた。明らかにプロの手口だった。
そして、その中心で朝日を浴びながら煙草をふかしている男が一人。大山だった。
「おはよう、桜坂くん。よく寝られたか」
大山はにこやかに笑った。その足元では、大の大人たちが呻き声を上げている。これらすべてを彼が一人でやったとでもいうのか。初奈は震えながら尋ねることもできず、ただ立ちすくんだ。
「こいつらな、俺を締め出そうと夜中に乗り込んできたんだよ。まあ、結果はこの通りだが。安心しろ、殺しちゃいない。俺は加減を知ってるからな」
そう言って、大山は煙草の火を指で摘まんで消した。素手で。その指先は火傷ひとつしていない。
「俺はな、桜坂くん。お前を売るのが仕事だ。だが、それを邪魔するやつは誰だろうと排除する。たとえお前のファンだろうが、お前の友人だろうが、事務所の人間だろうがな」
それは、明確な脅迫だった。抵抗すれば周りが傷つく。逃げ出せば誰かが代わりに痛い目を見る。
本物の怪物がここにいる。そう思った。抗うことなど、できるはずもなかった。
初奈は足元に転がる男たちを見下ろしながら、静かに目を閉じた。この人たちは私を助けようとしてくれたのだろうか。だとしたら、その思いにすら報いることができない自分が、何より情けなかった。
お母様、私はどうすればいいのでしょうか。
誰も、答えてはくれなかった。冬の風が吹き抜けて、初奈の髪を乱した。まだ十二月は始まったばかりだ。この長い冬を、私は越えられるのだろうか。
十二月も下旬に差し掛かり、街はクリスマス一色だった。イルミネーションがきらめき、どこからかジングルベルの旋律が聞こえてくる。人々はみな幸福そうで、そのすべてが初奈には遠い世界の出来事のように感じられた。
あの日、事務所の裏で大山に叩きのめされたファンたちは、二度と初奈の前に姿を現さなかった。当然だ。誰があんな怪物に関わりたいと思うだろう。初奈は毎日を機械のように過ごした。歌い、着替え、ステージに立つ。心はとうに擦り切れていた。
その夜もライブが終わり、初奈は大山に肩を抱かれて帰路を歩いていた。抵抗する気力すら残っていない。されるがまま、引きずられるように足を動かす。大山の煙草臭い息が、すぐそばで聞こえていた。
「今日のライブも上々だったな。お前、だんだん良い身体つきになってきたじゃねえか。この調子でどんどん過激に——」
「初奈!!」
冬の空気を切り裂くような鋭い声が響いた。
振り返ると、ぼたんが立っていた。怒りに燃える瞳が、大山を射抜いている。そして彼女の隣には見覚えのある巨体があった。達也くんと一緒に初奈のイベントに来ていた、あのプロレスラーの剛田さんだった。どうしてこの二人が一緒にいるのか、初奈にはわからなかった。
「てめえ、よくも初奈を好き放題に扱ってくれたな」
ぼたんが大山に向かって歩き出す。その手は震え、今にも掴みかからんばかりだった。
「ぼたんちゃん、下がってな」
剛田さんが大山の前に立ちはだかる。本職のプロレスラー。百キロを超える肉体が、大山に照準を合わせていた。
「おや、お客さんか。プロレスラーが何か用か」
大山の口調はあくまで軽い。その目は、どこまでも冷たかった。
剛田さんは低く唸ると、一気に間合いを詰めて大山の胸倉に掴みかかった。勝負は一瞬だった。大山はまるで紙切れでも払うかのように剛田さんの腕を掴むと、そのまま逆方向に捻り上げた。ぼきり、という鈍い音が夜の街に響く。
「ぐあああっ!」
剛田さんの右腕が、ありえない角度に曲がっていた。百キロを超える巨体が膝をつき、苦痛の叫びを上げる。それでも大山の表情は変わらない。むしろ、少しだけ楽しそうだった。
「次はお前か、小娘」
大山がぼたんに向かって歩き出す。ぼたんは震えながらも一歩も引かなかった。その目は恐怖に彩られながらも、強い意志の光を失っていない。
「やめてください!」
初奈は気がつくと叫んでいた。死んだはずの心が、ぼたんを守るために悲鳴を上げている。
「大山さん、お願いです。その子だけは、その子だけはやめてください。私が言うことは何でも聞きます。ライブも、写真集も、何だって——」
大山はしばらく初奈を無表情で見下ろしていたが、やがてにやりと口元を歪めると、ぼたんの頬に手を伸ばした。その動作はゆっくりで、わざとだった。そして初奈とぼたんが見ている前で、大山はぼたんの頬をざらりと舐めた。
「いいだろう。だが次はねえな、次邪魔したらお前も味わってやる。覚えておけ」
ぼたんがその場に崩れ落ちた。彼女の顔からは血の気が引き、身体が小刻みに震えている。男が大嫌いな彼女が、どれほどの恐怖と屈辱を味わったか、想像するだけで初奈の胸が張り裂けそうだった。
「ぼたん、さん……」
「来るな」
ぼたんは地面に手をついたまま、絞り出すような声で言った。
「近寄るな。今は、ダメだ」
ぼたんは立ち上がると、震える足で一歩一歩、闇の中へと去っていった。泣いているのかどうかはわからない。でもその後ろ姿は、初奈が見たことのないほど小さく見えた。
「それじゃあ行くぞ、桜坂くん。今夜はライブ配信だからな。当然ノーブラでだ。わかってるな」
大山の声が、遠くから聞こえるようだった。初奈はうなずくことしかできなかった。もう、何もかもがどうでもよかった。
事務所の一角に設けられた簡素な配信スタジオ。カメラの前で、初奈は過激な衣装をまとい、引き攣った笑顔でカメラに向かって話しかけた。何を話したかは覚えていない。台本通りの言葉を、魂の抜けた人形のように口にしただけだ。
スクリーンには無数のコメントが流れていく。そのほとんどは下卑た、欲望にまみれた言葉だった。「もっと見せて」「脱いで」「その身体いくら?」。それらが絶え間なく流れていく。初奈は心を無にして、ただ笑顔を作り続けた。
でも、その中に一つだけ、異質なコメントがあった。
『大丈夫? 無理してない?』
たった一人の、心配する声。それが誰なのか、考えるまでもなかった。初奈の胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。でも、その言葉は一瞬で他の下卑たコメントの波に流され、画面から消えていった。
(ごめんなさい、達也くん。私は、大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃない)
配信が終わると、初奈は倉庫の隅で膝を抱えた。もう外は深夜で、凍えるように寒い。スマートフォンを手に取ると、一通のメッセージが届いていた。差出人は達也くん。たった一言、「無理しないで」。それだけだった。
涙がこぼれた。初奈はスマートフォンを握りしめたまま、声を押し殺して泣いた。お父様に叩かれたときも、家を追い出されたときも、写真集を出されたときも、大山に身体をまさぐられたときも、ぼたんが辱められたときも、ずっと堪えてきた涙が、たった一言のメッセージで堰を切ったように溢れ出した。
(迎えに来てほしい。今すぐここから連れ出してほしい)
でも、言えなかった。彼を巻き込むわけにはいかない。剛田さんがああなったように、ぼたんがああなったように、彼もまた大山に壊されてしまうかもしれないから。
初奈は震える手でペンを取った。ノートの切れ端に、心の奥底から湧き上がる言葉を綴る。どうせ採用されない。大山がこんな歌詞を許すはずがない。それでも、書かずにはいられなかった。
『待ってるよ 待ってるよ あなたとの約束 迎えに来てくれる それだけを待ってるよ』
たった一人を想って書いた。あの青い光を、太陽のような温かさを、信じていると。初奈はペンを握りしめたまま、朝が来るまで泣き続けた。
世界は醜い。それでも、たった一つの光のために、まだ生きている。
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