呪い
九月。初奈にとって、すべてが終わった月だった。
写真集の話が来たとき、初奈はもう抵抗する気力さえ失くしていた。大山が「数字を伸ばすためだ」と言えば、それに従うしかなかった。発売日はまだ決まっていない。水着、ではなく、ほとんどそれに近い衣装での撮影。肌を露出し、カメラの前でポーズを取る。清楚でお淑やかだった櫻坂初奈の「脱皮」。それが売り文句だった。
スタジオには大山が立ち会い、カメラマンが無遠慮にシャッターを切る。初奈は言われるままに笑い、言われるままに体を動かした。でも、心は完全に死んでいた。途中で、何度も吐きそうになった。胃の奥から込み上げてくるものを、必死に押し殺して、笑顔を作る。口元が引き攣っているのは、もう自分でもわかっていた。それでも、誰も気にしなかった。カメラは回り続け、大山は満足げにうなずいていた。
それが、お父様の目に留まったのは、九月の中頃だった。
誰が送ったのかはわからない。匿名の封筒で、櫻坂家のポストに投函されていたらしい。中には初奈の写真集の見本と、ネットに流れていた過激な衣装の画像、それから初奈がアイドルをしていることを証明する資料の数々が入っていた。
実家に呼び戻されたのは、夜だった。久しぶりに立った櫻坂邸の門の前に、初奈の心は鉛のように重かった。インターホンを押すと、使用人が無言で扉を開ける。その表情だけで、すべてを察した。
書斎に入ると、誠一郎が立っていた。手には、写真集の見本が握りしめられている。その手は震えていて、顔は青白く、こめかみには血管が浮き出ていた。
「初奈」
声は低く、地の底から響いてくるようだった。
「これは、なんだ」
「……お父様」
「これはなんだと聞いている!」
誠一郎は写真集を床に叩きつけた。ページがめくれ、初奈の恥ずべき姿が無残に広がる。初奈は何も言えなかった。何を言っても、言い訳にしかならない。自分でもわかっていた。これは、櫻坂家の娘がすることじゃない。父の言う通りだと思った。
「お前は、私を騙していたのか。櫻坂の名を汚し、母の遺言を踏みにじり、こんな」
誠一郎の手が振り上げられた。次の瞬間、初奈の頬に鋭い痛みが走る。乾いた音が書斎に響き、体がよろけて壁にぶつかった。叩かれたのだと理解するまでに、数秒かかった。
「お前など、もう娘ではない」
誠一郎の声は、怒りよりも深い、絶望に満ちていた。
「今日限り、勘当する。荷物をまとめて出ていけ。櫻坂の名を二度と名乗るな。学園にも連絡を入れる。お前はもう、聖クラウディアの生徒でもない」
「……はい」
初奈はただ一言だけ答えて、書斎を出た。母の写真が飾られた廊下を通り、自分の部屋に入る。少しだけ荷物をまとめて、玄関を出た。振り返ると、使用人たちが心配そうにこちらを見ていたけれど、誰も追いかけてはこなかった。
櫻坂初奈は、この日、すべてを失った。
行く場所は、もう事務所しかなかった。
初奈はルミナスプロダクションの寮に転がり込み、そこで寝泊まりするようになった。といっても、ほとんど帰る場所のない研修生用の仮眠室で、誰にも知られずにひっそりと。これでよかったのかどうか、自分でもわからない。でも、戻れる場所はもうどこにもなかった。
ある夜、仮眠室のドアが開いた。大山だった。初奈が体を起こす間もなく、巨体がにじり寄ってくる。
「よう、櫻坂。元気か」
「……大山さん。何か、ご用でしょうか」
「なあに、お前さんも大変だなと思ってな。家族にも見放されて、行く場所もないんだろ? 俺が慰めてやろうと思って」
大山の手が伸びてきて、初奈の肩に触れた。ぞわり、と全身に鳥肌が立つ。初奈は振り払おうとしたが、大山の手は予想以上に強く、肩を掴んで離さない。そのまま無遠慮に体をまさぐられる。
「やめて、ください……!」
「お前が言うことを聞かないから、こんなことになるんだ。俺の言う通りにしていれば、飯も食えるし、寝る場所もある。悪いようにはしない」
大山の手が、さらに動く。初奈は必死に抵抗したが、力では敵わなかった。何もかもが気持ち悪くて、触れられている皮膚が爛れていくような感覚に、吐き気が込み上げてきた。
「……うっ」
初奈が吐いたのは、その直後だった。胃液が床に広がり、大山の靴にかかる。
大山は舌打ちをした。
「汚ねえな。せっかくの気分が台無しだ」
それだけ言うと、大山は手を離して、さっさと部屋を出ていった。
初奈は床に這いつくばったまま、しばらく動けなかった。自分の吐瀉物の匂いが鼻をつく。体が震えて、涙が止まらなかった。体を起こし、ふらふらと洗面所に向かう。鏡の中には、見知らぬ誰かが立っていた。頬はこけて、目の下には深い隈。唇は乾き、髪は乱れている。何よりも、その瞳は完全に光を失っていた。
(汚れてる)
心も、体も、すべてが汚れてしまった気がした。
(これが、世界なの。これが、私の見たかった世界なの)
初奈は鏡の中の自分に向かって、静かに言った。
「この世界は、美しくない。汚くて、醜い」
今まで信じてきたものが、音を立てて崩れていくのを感じた。母の遺言さえも、今は呪いに感じられた。貴方に出会えて良かった? この世界が美しく見えるから? 違う。こんな世界は美しくなんかない。むしろ、醜い。汚れている。こんな世界に生まれなければよかったとさえ思った。
初奈は鏡の前で、声が枯れるまで泣き続けた。




