魔手
一週間後、初奈は大山のプロデュースを受け入れた。
他に選択肢はなかった。父に知られることも、すべてを諦めることもできなかった。まだ終わりたくなかった。せっかく見つけた、自分の歌で誰かに届けるという夢を、こんな形で手放したくなかった。例えそれが、自分の心を削ってでも。
それからの日々は、すべてが目まぐるしく変わっていった。
大山は確かに敏腕だった。初奈のスケジュールは瞬く間に埋まり、新しい曲が次々と用意され、衣装も、振り付けも、すべてが大山の指示通りに決められていく。初奈はただ、言われるままに歌い、言われるままに踊った。
皮肉なことに、数字は伸びた。
四月。新しい衣装を身にまとった初奈の写真がネットに流出すると、アクセス数が跳ね上がった。五月。大山が用意した新曲は、過激な歌詞と露骨な恋愛を匂わせる内容だった。それまでの初奈のイメージとはかけ離れた、誰かにとっての「消費されるため」だけの歌。それでも、いや、だからこそ、再生回数は伸びた。六月。初奈のイベントはついにワンマンでライブハウスを満席にした。これまで十数人だった動員が、二百人、三百人と膨れ上がっていく。会場はどんどん大きくなり、初奈の名前は少しずつ、でも確実に広まっていった。
七月の半ば、都内の中規模ライブハウスでのワンマンライブ。チケットは発売と同時に完売した。五百人収容の会場は開演前から熱気に包まれ、場内には初奈の新曲が大音量で流れている。
楽屋の鏡の前で、初奈はじっと自分の姿を見つめていた。
布切れのような衣装。肩も背中も脚も、ほとんどが剥き出しになっている。体の線がはっきりとわかるその衣装は、かつて三人で縫った桜色のブラウスとは似ても似つかなかった。顔には濃いめのメイクが施されている。大山が「もっと目を引くように」と言って、わざわざ外部から呼んだメイク担当の手によるものだ。清楚でお淑やかだったかつての初奈の面影は、そこにはもうなかった。
衣装を着替えるたび、過激な歌詞を口にするたび、はしたない振り付けを覚えるたび、初奈の心は少しずつ削られていった。それでも数字が伸びるたび、大山は満足げに笑い、事務所は次の仕事を用意した。誰もが「櫻坂初奈はついにブレイクした」と言った。でも、初奈自身は知っていた。売れているのは初奈の歌じゃない。初奈の「清楚なイメージを脱いだ姿」だけが、消費されているに過ぎないのだと。
(それでも)
それでも、やるしかなかった。ここで立ち止まったら、今度こそ終わる。そう自分に言い聞かせて、初奈は毎回ステージに立った。
ステージに立つと、五百人の視線が一斉に初奈に突き刺さる。歓声。サイリウムの海。満員の客席。かつて初奈が夢見た光景だった。でも、今は違う。この人たちは初奈の歌を聴きに来ているわけではない。音楽が鳴り、初奈は踊り始める。大山が振り付けた、はしたない動き。体をくねらせ、指を這わせ、客席にウインクを送る。歓声が大きくなる。初奈は笑顔を作る。引き攣った、心のこもらない笑顔だった。
(ああ、また数字が伸びる)
頭の片隅で、そんなことを考えていた。
楽屋に戻ると、ぼたんとるるかと箒が待っていた。三人とも、心配そうな顔で初奈を見つめている。
「初奈、大丈夫か」
ぼたんが静かに言った。初奈は無理に笑顔を作って見せる。
「大丈夫ですよ。見てください、今日も満席でした」
「そういうことじゃなくて」
「ぼたんさん、私、疲れてるだけなんです。それより、三人ともわざわざ来てくれてありがとう。嬉しかったです」
「初奈ちゃん、無理して笑わなくていいのよ」
るるかがそっと初奈の手を取った。その手はあたたかくて、優しくて、触れられた瞬間に崩れてしまいそうだった。でも、初奈はぐっと堪えて微笑んだ。
「本当に大丈夫です。それじゃ、着替えますので」
三人を楽屋から追い出すようにして送り出し、初奈は一人になった。鏡の前に立つ。映っているのは、見知らぬ誰かだった。引き攣った笑顔。疲れ切った目。肌を露出した衣装。これが私? これが、私のなりたかったアイドル?
(違う。こんなはずじゃなかった)
でも、もう引き返せない。引き返したら、すべてが終わる。初奈はぎゅっと唇を噛みしめて、衣装を脱ぎ捨てた。
楽屋を出ると、廊下にぼたんが一人で立っていた。壁にもたれて、腕を組んでいる。
「ぼたんさん、まだいたんですか」
「待ってた」
「……私を?」
「お前、最近ずっと変だ。無理して笑って、何も話さなくなって。オレたち、巻き込まれたっていいんだぞ」
初奈は答えられなかった。巻き込みたくなかったのだ。大山は明らかに、初奈だけではなく、ぼたんやるるか、箒にまで食指を伸ばそうとしていた。先日も「次は百合咲と神崎をこっちに回せ」と社長に進言しているのを、偶然聞いてしまった。あの人たちまで、こんな目に遭わせるわけにはいかない。
「……大丈夫です。ありがとう、ぼたんさん」
初奈はもう一度だけそう言って、廊下を歩き出した。ぼたんはそれ以上は何も言わず、ただ黙って初奈の背中を見送っていた。その視線が、痛かった。
八月の終わり。今度はさらに大きな会場、千人規模のホールが満席になった。チケットは即日完売。ネット上では初奈のゴシップめいた話題が飛び交い、それに比例するように数字は伸び続けている。数字が伸びれば伸びるほど、初奈の心はすり減っていった。
今日の衣装もまた、肌の露出が多いものだった。過激な歌詞、はしたない振り付け。ステージの上で初奈は笑う。引き攣った笑顔。誰も気づかない。誰もが初奈の「新しい魅力」に酔いしれている。
ふと、客席を見渡した。
(……いるのだろうか)
あの光は、今日も灯っているのだろうか。こんな初奈の姿を、達也は見ているのだろうか。
(見ないでほしい)
心の底から、そう思った。こんな姿、見られたくなかった。清楚でお淑やかだった、かつての櫻坂初奈を応援してくれたあなたに、こんな私は見せたくなかった。汚れてしまった自分の姿を、知られたくなかった。でも、同時に、あの光を探している自分もいた。矛盾している。わかっている。でも、そう思わずにはいられなかった。
初奈は歌いながら、客席の隅々まで目を凝らした。派手なサイリウム、歓声、熱気。でも、あの小さな百円ショップのサイリウムは、見つけられなかった。




