恐怖
三月に入って最初の金曜日、ついに社長室への呼び出しが来た。初奈は朝からずっと予感がしていた。今日だ、と。最上階へと続くエレベーターの中でも、廊下を歩いている間も、心臓は落ち着くどころか早鐘を打つばかりだった。
重い扉の前で深呼吸をしてから、ノックをする。
「入れ」
神宮寺の低い声が返ってきた。ドアを開けると、社長はいつものようにデスクの向こうに座っていた。しかし今日は、もう一人、見覚えのある男が部屋の隅のソファに腰掛けている。エントランスですれ違ったあの巨漢だった。間近で見ると、その威圧感はさらに強烈だ。スーツの上からでもはっきりとわかる盛り上がった筋肉、額に走る古い傷跡。初奈が部屋に入ると、男は値踏みするような目で初奈の全身をゆっくりと眺め回した。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。これまで何度も社長室に呼ばれてきたけれど、こんな感覚は初めてだった。気持ち悪さを通り越して、生理的な怖さがあった。
「櫻坂、紹介する。こちらは大山プロデューサーだ。今日からお前の担当になる」
神宮寺の言葉に、大山と呼ばれた巨漢がソファから立ち上がった。その大きさに、初奈は思わず一歩後退りする。大山は初奈の前に立つと、にたりと口元を歪めた。
「大山だ。よろしく」
声は意外に柔らかかったが、その目は笑っていなかった。獲物を品定めするような、いやらしい目。初奈は「よろしくお願いします」と頭を下げたが、声は震えていた。
「大山は業界でも有名な敏腕プロデューサーでな。数々のアイドルをブレイクさせてきた。お前も彼の言う通りにすれば、まだ道はあるかもしれんぞ」
「……まだ、道はある、のですか」
「ああ。ただし、お前次第だ」
そう言うと、大山がデスクの上に小さな包みを置いた。薄いビニールの袋に入った、何か。
「開けてみろ」
初奈はおそるおそる袋を開けた。中から出てきたものを見て、指先が凍りついた。
布切れだった。そうとしか言いようのない、ほんの僅かな面積の生地。ビキニと呼ぶことさえ憚られる、紐と小さな三角形の布が申し訳程度についた衣装。透け感のある素材で、体のほとんどを覆うことができないそれは、初奈が今まで着てきたどんな衣装よりも露出が激しく、目を背けたくなるようなものだった。手に取るのも躊躇われるほど、下劣なデザインだった。
「……これは」
「お前に似合いそうだと思ってな」
大山が低く笑った。初奈の手が震える。頭の奥がじんと熱くなって、視界が揺れた。こんなものは嫌だ。断固として嫌だ。こんなものを着てステージに立つなんて、絶対にできない。
「あの、これは……とても着られません」
「ほう」
「私は、こういう衣装は」
「お前、自分がどういう立場かわかっているのか」
大山の声の調子が急に冷たくなった。部屋の温度が数度下がったような気がした。
「お前は今、会社に多大な迷惑をかけている。レッスン費用、スタジオ使用料、イベントの設営費、音響費、宣伝費、会場費。お前が売れなかったせいで、ルミナスはかなりの赤字を抱えているんだ。それでもまだチャンスをやろうという会社の温情を、無碍にするつもりか」
「それは……」
「それともなんだ、お前にそのツケを払えるのか。払えないなら、ご両親に請求するしかないが」
初奈の全身から血の気が引いた。父に知られる。アイドルをしていることが、櫻坂家の名に泥を塗るような活動をしていたことが、父の耳に入ってしまう。それだけは、何としても避けなければならない。娘がアイドルをしていることを、それもこんな衣装を着てステージに立つことを知ったら、きっと父は悲しむ。失望する。母の遺言を盾に芸能界に入ったことさえ、裏切りだったのだと怒るだろう。
「……っ」
汗が止まらなかった。指先が冷たくて、なのに背中はじっとりと汗ばんでいる。頭の中がぐるぐる回って、うまく考えがまとまらない。
「櫻坂、選択肢は二つだ」
神宮寺が冷徹な声で告げた。
「大山のプロデュースを受け入れて、この衣装を着るか。それとも、すべてを諦めて、これまでの費用を清算するか。どちらでも好きに選べ」
初奈はしばらく俯いていた。手にした布切れを見つめる。これを着てステージに立てば、自分の何かが壊れてしまう気がした。誰かの世界を美しくしたいと願って始めたこの道が、こんな形で歪められてしまうことが、悔しくてたまらなかった。でも、それ以上に、父に知られることが怖かった。
心の中で、必死に母に問いかける。
(お母様。これが、美しい世界なのでしょうか。私が信じてきたものは、こんなにも脆く、醜く、歪んでいたのでしょうか)
あの日、庭で歌ったときに聞こえた拍手。学園祭で見たアイドルの輝き。達也が振り続けてくれたサイリウムの光。それらすべてが、今は遠く、かすんで見えた。
答えは出なかった。でも、初奈の口は、勝手に動いていた。
「……考えさせてください」
「期限は一週間だ」
神宮寺が無表情で言った。
「一週間後に、返事を聞く。それまでに決めておけ」
初奈はふらふらと立ち上がり、深く頭を下げた。大山がまだ何か言いたげに口を開きかけたが、初奈は振り返らずに社長室を出た。廊下に出ると、膝から力が抜けて、壁にもたれかかる。手の中には、あの布切れが入った袋がまだ握られていた。吐きそうだった。汗が止まらず、手の震えも止まらない。初奈は壁に背中を預けて、しばらくその場に立ち尽くしていた。




