約束
十一月に入り、街はすっかり秋の装いだった。合同ライブから一週間が経ったが、事務所からは何の連絡もない。社長室に呼ばれることもなく、かといって次のイベントの打診もない。九条さんは「今は待つしかない」と言ったが、その表情はどこか硬かった。呼ばれないことが逆に怖い。見放されたのか、それとも見限られたのか。静けさは時に、怒声よりも残酷だ。
「初奈、元気出せよ。まだ何も決まってねえんだから」
スタジオで鉢合わせたぼたんが、いつものぶっきらぼうな口調で言った。
「そうですよ、初奈ちゃん。またチャンスはあります。絶対に」
るるかも優しく微笑んでくれる。箒に至っては「次のライブはウチが初奈さんを紹介するから!」と息巻いていた。三人の励ましが身に染みる。それでも、心の奥底ではわかっていた。タイムリミットは刻一刻と近づいている。
週末、初奈はお父様に呼ばれて応接室に向かった。そこには鷹宮さんの姿もあった。柔らかな物腰の、品のある男性。にこやかに微笑んでいるが、何を考えているのかは読み取りにくい人だ。初奈がソファに座ると、お父様が重々しく口を開いた。
「初奈、今日は大事な話がある。鷹宮さんとも相談して決めたことだ」
「はい、お父様」
「卒業後は、イギリスに留学してもらう。鷹宮さんの母校でもある、由緒ある大学だ。そこで国際教養を身につけ、帰国後はすぐに婚約を正式なものとする。鷹宮家と桜坂家の結びつきをより強固にするために、な」
「留学……婚約……」
「君ならきっと、素晴らしい経験ができる。私も微力ながらサポートするつもりだ」
鷹宮さんの言葉は優しかった。だが、その優しさの裏には、すでに敷かれたレールが見え隠れしている。拒否権などどこにもない。
「……少し、考えさせてください」
初奈は震える声でそう言うのが精一杯だった。お父様は何かを察したように眉をひそめたが、それ以上は追及しなかった。
学校でも、初奈の心は晴れなかった。加藤さんたちが「元気がない」と心配して、気分転換にプールに誘ってくれた。お嬢様御用達の会員制スポーツクラブで、屋内の温水プールは天井がガラス張りになっていて、秋の陽射しが水面にキラキラと反射している。初奈はほとんど泳げないけれど、水のそばにいるだけで少しは気が紛れるかと思った。しかし、水は冷たく、広すぎるプールはかえって心細さを募らせるだけだった。クラスメイトたちの楽しそうな声が遠くに聞こえる。
そのとき、プールサイドに立つ監視員の姿が目に入った。白いポロシャツに赤い短パン。首からは笛を提げている。ボサボサの髪は今日も変わらず、大きな眼鏡の奥の目が、こちらを見て思い切り見開かれた。
達也くんだった。
一瞬だけ目が合う。しかし達也くんは慌てたように視線を逸らし、頬をほんのりと赤らめた。プールサイドの高い椅子の上で、所在なげに笛を弄っている。初奈は思わず微笑んだ。こんなところで会うなんて。それだけで、冷たかった心が少しだけ温かくなる気がした。
帰り際、初奈は思い切って達也くんのもとへ歩み寄り、小さな紙パックのカフェオレを差し出した。
「達也くん、これ、よかったら」
「えっ、あ、ありがとうございます。でも、そんな、わざわざ」
「監視員のお仕事、お疲れさまです。達也くんは、本当に色々なアルバイトをしているんですね」
「あ、はい。その、応援したい人がいるんで」
そこまで言って、達也くんは自分で言ったことに真っ赤になった。初奈もつられて赤くなる。
「ありがとうございます、いつも。……あの、少し、お話ししてもいいですか。私、あまり誰にも話せないことがあって」
「は、はい。僕でよければ」
初奈は静かに語り始めた。アイドルになりたいと思ったきっかけ。大好きだったお母様が遺した「貴方に出会えて良かった、この世界が美しく見えるから」という言葉。お母様がお父様に出会って世界が輝いて見えるようになったように、自分もいつか、自分にとっての「貴方」に出会いたいと思ったこと。そのためにアイドルを目指したこと。歌が好きだったから。誰かに届けたかったから。
達也くんは黙って聞いていた。時折、眼鏡の奥の目を潤ませながら。
「それで……最近、その『貴方』が誰なのか、少しだけわからなくなってしまって」
「……どういうことですか」
「お父様が、私の許嫁を連れてきました。鷹宮さんという、とても品のある方です。もしかしたら、この人が私にとっての『貴方』なのかもしれないと。だって、お父様はそう決めているから。お母様も、きっと……」
言葉が途切れた。達也くんは何も言わず、じっと初奈を見つめている。そして、小さな声で「良かったですね」と言った。その声は少しだけ震えていた。
それから、自分は海外留学すること、卒業したらすぐに婚約すること、タイムリミットが近づいていてもうすぐアイドルを辞めることになるかもしれないこと。堰を切ったように初奈は話した。
「……そうなんですか」
達也くんはそれだけ言ってうつむいた。初奈は続けた。
「あの、もしも——」
喉の奥が熱くなって、言葉が詰まった。
「もしも、私が辛くて苦しくて」
泣きそうになった。いや、もう泣いていた。
「歌えなくなった時は——」
自分でも驚くほど自然に、次の言葉がこぼれた。
「迎えに来てくれますか…?」
言ってしまった。言ってはいけない言葉だったかもしれない。ただのファンに、アイドルがかけるべき言葉ではない。でも、初奈はそれを言わずにはいられなかった。それが偽らざる本心だったから。
達也くんは、しばらく黙っていた。それから顔を上げて、しっかりと初奈の目を見た。眼鏡の奥のその瞳は揺れていたけれど、その芯はまっすぐで。
「……はい」
たった一言。でも、その一言が初奈のすべてを包み込むようだった。もう涙が抑えきれなかった。初奈は声もなく泣き、達也くんは黙ってそばにいた。それだけだった。それだけで、十分だった。
夕方、初奈は事務所に戻った。すると、エントランスに見慣れない巨漢の男が立っていた。一目でまともな関係者ではないとわかる。スーツは皺だらけで、首元には不気味なタトゥーが覗いている。男は無言でエレベーターに乗り込み、上層階へと消えていった。社長室があるフロアだった。
背筋が凍った。あの男が何をしに来たのか、どうしても嫌な想像しか浮かばない。タイムリミット。あるいはもっと別の何か。
それでも、初奈の心は不思議と凪いでいた。泣いたあとの静けさが、身体の中に広がっている。胸の奥には、達也くんの「はい」という声がまだ響いていた。それがあれば、何があっても大丈夫だと思えた。
窓の外では、夕焼けが街を赤く染めている。私はこれから、どこへ行くのだろう。留学、婚約、そしてアイドルの終わり。全部が迫っている。それでも、私には迎えに来てくれる人がいる。それが何よりも確かなことだった。




