一本の光
二月十四日。バレンタインデーであり、初奈にとっては運命の日でもあった。
会場は都内でも有数のライブハウスだった。キャパシティは三百人。これまでショッピングモールの吹き抜けや、商店街の片隅で歌ってきた初奈にとっては、見たこともない大きな箱だった。天井は高く、スポットライトが何台も吊るされ、ステージには本格的な音響設備が並んでいる。
開演の数時間前、初奈は楽屋の鏡の前で、震える手をじっと見つめていた。今日の衣装は、あの三人で縫った桜色のブラウスに白いロングスカート。何度も洗って少し色あせているけれど、初奈にとってはどんな高級なドレスよりも大切な一着だった。
ガチャリとドアが開く。
「初奈、そろそろだ」
ぼたんだった。後ろにはるるかと箒もいる。
「……はい」
「なに緊張してんだよ。いつも通りやればいい」
「そうよ、初奈ちゃん。あなたは一人じゃないわ」
「初奈お姉ちゃん、一緒に頑張ろうな!」
箒が初奈の手をぎゅっと握った。ぼたんが初奈の肩をポンと叩き、るるかがそっと背中に手を当てる。
「ほら、行くぞ」
三人に背中を押されて、初奈は楽屋を出た。廊下の先に、ステージへの入り口が見える。そこから漏れる眩い光が、初奈を呼んでいた。
開演時間が近づき、場内は熱気に包まれていた。
チケットは完売した。三百席がすべて埋まっている。箒の集客力のおかげでもあったが、初奈の名前で来てくれた人も確かにいた。田中先輩に伊藤先輩、女子高生の子にスーツの男性、プロレスラーの人。それから、ぼたんやるるかのファンも何人か。そして、もちろん達也も。
初奈は舞台袖からこっそり客席を覗いて、胸を高鳴らせた。あんなに大きな会場が、人で埋まっている。夢みたいだった。これが自分がずっと夢見てきた景色なのだと、そのときは信じていた。
最初は箒のステージだった。
さすがは天性のアイドル。十三歳とは思えない堂々としたパフォーマンスで、会場を一気に掌握していく。観客は総立ちでサイリウムを振り、コールを叫び、会場全体が一つの生き物のように熱狂していた。初奈は舞台袖でその光景を見つめながら、素直にすごいと思った。この子は本当にスターだ、と。
そして、箒のステージが終わり、いよいよ初奈の番になった。
「それでは、櫻坂初奈です! 応援よろしくお願いします!」
アナウンスが流れ、初奈は深く息を吸い込んでステージに足を踏み出した。
眩しい。スポットライトが初奈を照らし出す。客席を見渡すと、三百人の観客がいた。初奈はマイクを握りしめ、一礼した。
「こんばんは、櫻坂初奈です。今日はお集まりいただき、ありがとうございます」
客席からまばらな拍手が起こる。
「聴いてください。『はじまりのうた』」
音楽が流れ出した。初奈のデビュー曲。母の言葉を歌った、初奈にとって一番大切な歌。
歌い出そうとしたそのときだった。
客席のサイリウムが、ぱたぱたと消え始めた。
初めは数本だった。次に十本。二十本。箒のパートが終わったから、もう用は済んだとばかりに、サイリウムの光が次々と消えていく。箒のファンたちは、彼女の出番が終わればそれでよかったのだ。初奈の歌には興味がない。聴く価値もない。それが、消えていく光の数で否応なく示されていた。
(ああ)
初奈は歌いながら、その光景をただ見つめていた。
残ったのは三十本ほど。でもそれも、ぽつぽつと消えていく。二十五本、二十本、十五本。客席がどんどん暗くなっていく。スポットライトに照らされたステージの上からは、消えゆくサイリウムの数が痛いほどよく見えた。
残酷な真実だった。これが現実だった。自分は箒の前座に過ぎなかった。三百人の観客は箒のファンであって、初奈のファンではない。
(これが、私の見たかった世界なのでしょうか)
美しい世界を見せてくれる『貴方』を探してきた。でも、今この場所で見ている景色は、あまりにも冷たくて、あまりにも無関心で。これが現実なのだと、初奈の心が折れそうになった。
そのときだった。
客席の一番後ろ、最後列の端っこで、一本だけサイリウムが灯った。
小さな光だった。百円ショップで売っているような、安っぽいサイリウム。周りからは「またあいつだよ」「ダサくない?」と笑い声が聞こえる。それでもその光は、消えなかった。他の光が次々に消えていく中で、たった一本だけ、ずっと揺れていた。
相変わらず振り方は下手くそで、リズムもずれている。でも、その光は確かに初奈を見つめていた。
(達也くん)
考えるまでもなかった。彼以外に、こんな光はなかった。
五歳の夏の日、庭で歌ったときも、塀の向こうから拍手をくれたのはたった一人だった。ショッピングモールで歌ったときも、サイリウムを振ってくれたのはたった一人だった。そして今、三百人の会場で、初奈を見つめてくれているのも、たった一人だった。
それでいいと思った。たった一人でも、この光さえあれば、私はまだ歌える。
初奈は涙を堪えて、歌い続けた。
『貴方に出会えて良かった、この世界が美しく見えるから』
この歌詞を歌うときだけは、声が震えなかった。この歌だけは、誰にも邪魔されない。これは初奈と、母と、そして初奈の歌を聴いてくれるたった一人のための歌だった。
歌い終わると、会場は静まり返っていた。
拍手はなかった。ただ、静寂だけが広がっている。初奈はマイクを握りしめたまま、深く、深く頭を下げた。何度も、何度も。
そのときだった。
パチ、パチ、パチ。
客席の最後列から、拍手が聞こえてきた。
たった一人の拍手だった。周りは誰も叩いていない。それでもその拍手は、まるで会場全体が拍手をしているかのように、初奈の胸に響いた。たった一人の、不器用な拍手が、ずっと、ずっと鳴り続けていた。
初奈は顔を上げた。涙で滲む視界の先で、最後列に立つ達也が、真っ直ぐに初奈を見つめながら拍手を送り続けていた。その拍手は、五歳の夏の日に塀の向こうから聞こえた拍手と同じ温かさだった。顔も名前も知らなかったあの日の拍手が、今、確かに初奈のもとに届いていた。




