タイムリミット
一月の冷たい雨が窓を叩く午後、初奈は再び社長室に呼び出された。
最上階の廊下を歩きながら、初奈はこの一年をぼんやりと思い返していた。CDを出し、ドサ周りをし、手作りのグッズを売り、月に一度のイベントを続けてきた。それでも、状況は大きく変わっていない。達也を中心とした小さな輪は広がったけれど、それでも十数人。世間から見れば、売れないアイドルに変わりはなかった。
重い扉をノックする。中から低い声が返ってきた。
「入れ」
神宮寺啓介社長は、いつもと変わらない無表情でデスクの向こうに座っていた。手元には何やら資料が広げられている。初奈の売上データだろうか。
「おかけ」
「失礼します」
初奈は背筋を伸ばして椅子に座った。神宮寺はしばらく資料に目を落としていたが、やがて顔を上げ、冷たい目で初奈を見据えた。
「櫻坂。お前がソロデビューしてから、そろそろ一年になる。結果は出たか」
「……まだ、十分には」
「そうだろうな。数字を見ればわかる。CDの売上は微々たるもの。イベントの動員も頭打ち。悪いが、ビジネスとして成立していない」
初奈は唇を噛みしめた。言い返す言葉はなかった。事実だったからだ。
「だが、もう一度だけチャンスをやる」
初奈は顔を上げた。神宮寺は一枚の企画書をデスクの上に滑らせた。
「来月、小間箒との合同ライブをやれ。会場は三百人規模のライブハウスだ。ここで結果を出せなければ、お前のソロ活動は打ち切り。研修生としての契約も満了とし、ルミナスを辞めてもらう」
「……三百人」
「そうだ。今のお前の動員の十倍以上。無理だと思うか」
無理だとは思わなかった。でも、簡単なことではない。初奈は企画書を見つめながら、深く息を吸った。
「……いえ。やります」
「いいだろう。期待はしていないが、せいぜい足掻け」
神宮寺はそれだけ言うと、再び手元の書類に視線を落とした。初奈は立ち上がり、深々と頭を下げて社長室を後にした。廊下に出ると、手足が震えていた。これが本当に最後のチャンスなのだ。失敗すれば、すべてが終わる。初奈は拳をぎゅっと握りしめて、廊下を歩き出した。
「合同ライブ!? ウチと!?」
スタジオに戻り、箒に事情を話すと、彼女は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「やったあ! 初奈お姉ちゃんと一緒のステージ! めっちゃ嬉しいわ!」
「箒ちゃん……」
初奈は箒の無邪気な笑顔を見て、胸がぎゅっと締めつけられた。この子は純粋に喜んでくれている。初奈と一緒にステージに立てることを、心から楽しみにしてくれている。でも、初奈は知っていた。これは箒の人気に頼らなければ成立しない企画だということ。三百人の会場を埋められるのは、箒の集客力あってこそだ。初奈一人では、今のままでは五十人も集められない。
(私は、箒ちゃんに甘えているだけかもしれない)
その思いが胸に棘のように刺さった。けれど、それでもやるしかなかった。これが最後のチャンスなのだから。
「箒ちゃん。私、頑張るから。一緒に良いステージにしよう」
「あったりまえやん! ウチらコンビで最強や!」
それからの一ヶ月、初奈の生活はレッスン漬けになった。
朝は誰よりも早くスタジオに入り、夜は誰よりも遅くまで自主練を続ける。歌のトレーナーには発声の基礎から見直され、ダンスの須藤先生には「合同ライブなら箒に合わせたフォーメーションも必要だ」と特別メニューを組まれた。
箒は天性のアイドルだった。新しい振り付けを数回見ただけで覚えてしまう。歌も、難しい曲でもすぐに自分のものにしてしまう。初奈はそんな箒の隣で、必死に食らいついた。何度も何度も同じフレーズを繰り返し、鏡の前で振り付けを確認し、喉が枯れるまで歌い込んだ。箒との実力差は痛いほどわかっていたが、それでも諦めるわけにはいかなかった。
「初奈、腕の角度がまだ甘い。本番までに修正しろ」
ある日のレッスン後、初奈が一人で自主練をしていると、いつの間にかスタジオにぼたんが入ってきていた。彼女はもうすでに人気ソロアイドルとして多忙なはずなのに、こうして時間を作って顔を出してくれる。
「ぼたんさん、今日も来てくれたんですか」
「当たり前だろ。オレはお前のダンスの師匠みたいなもんだからな」
「師匠……」
「文句あるか」
「いいえ。ありがとうございます」
ぼたんはふんと鼻を鳴らして、それから初奈の隣に立った。
「いいか、サビの頭はこうだ。もっと肩の力を抜け。それから視線は客席の一番後ろを狙え。そうすりゃ自然と顔が上がる」
「はい。こう、ですか」
「そう。その調子だ。あと百回な」
「……百回」
「できないならやめればいい」
「やります」
初奈は汗をぬぐい、もう一度ポジションについた。ぼたんは腕を組み、じっと初奈の動きを見つめている。その目は厳しいけれど、どこかあたたかかった。
「初奈ちゃん、ちょっと休憩しない?」
るるかがスタジオの入り口に立っていた。手には紙袋を提げている。中から漂ってくるのは、バターとバニラの甘い香り。
「るるかさんまで」
「うふふ、今日はスコーンを焼いてきたの。ぼたんちゃんも、箒ちゃんも、みんなで食べましょう」
「わあい! るるかお姉ちゃんのスコーン、めっちゃ好き!」
箒が奥のソファから飛び起きて、るるかに駆け寄った。
四人はスタジオの床に座り込んで、るるかの手作りスコーンをかじった。ほろほろと崩れる生地と、優しい甘さが口いっぱいに広がる。窓の外はもう暗く、スタジオの蛍光灯だけが白く光っている。
「あと二週間、か」
ぼたんがスコーンをかじりながら言った。
「やれることは全部やった。あとは本番で出すだけだ」
「でも、三百人はまだ埋まってないんだろ」
「……はい。チケットの売れ行きは、箒ちゃんの名前でなんとか半分くらい。私の名前だけでは、やっぱり」
「大丈夫やて!」
箒が初奈の肩をぽんと叩いた。
「ウチがいるやんか。ウチのファンはみんなノリがええから、初奈お姉ちゃんの歌も絶対気に入るって!」
「箒ちゃん……」
「それに、あの学ランくんがいるじゃない」
るるかが優しく付け加えた。
「彼がまた仲間を連れて来てくれるわ。田中先輩も伊藤先輩も、女子高生の子も、スーツの男性も、プロレスラーの人も。それだけじゃない。初奈ちゃんの歌を聴きに来てくれる人は、きっともっと増える」
「そうだな。あいつ、なんだかんだ頼りになるし」
ぼたんがめずらしく達也を褒めた。
「オレも宣伝しといてやる。オレのファンにも、ついでに初奈のライブに行けって言っとく」
「ぼたんさん……」
「お礼は成功してから言え。それまではまだ、師匠として鍛え続けるからな」
ぼたんは照れくさそうに言って、残りのスコーンを一口で頬張った。初奈は胸がいっぱいになって、言葉が出なかった。歌で勝負したい。誰かの世界を美しくしたい。そう思って始めた道だったけれど、いつの間にか初奈の世界は、こんなにもたくさんの人に支えられていた。この人たちに応えるためにも、絶対に成功させなければならない。
【初奈の日記】
社長に呼ばれました。私に残された時間は、あとわずかしかないと言われました。来月、箒ちゃんとの合同ライブで結果を出せなければ、すべてが終わります。三百人の会場。今の私では埋められない数字です。怖くないと言えば嘘になるけれど、これが最後のチャンスなら、全力で挑むしかありません。
箒ちゃんは合同ライブを心から喜んでくれました。でも、私はわかっています。これは箒ちゃんの人気に頼らなければ成立しない企画だと。それが悔しくて、情けなくて、でもそれを言い訳にはできないから、ただひたすらにレッスンに打ち込んでいます。箒ちゃんとの実力差は、まだまだ埋められないけれど、それでも隣に立っても恥ずかしくない自分になりたい。
ぼたんさんは毎日のようにダンスを教えに来てくれて、るるかさんはお菓子を焼いて励ましてくれます。箒ちゃんも「ウチがいるから大丈夫」と言ってくれて。私の周りには、こんなにたくさんの優しさがある。この人たちのためにも、絶対に成功させたい。
お母様。私は今、人生で一番大きな賭けに挑もうとしています。あなたがくれた歌で、どこまで行けるか。見ていてください。必ず、この手で未来を掴みます。




