プロフ帳のこたえ
九月に入り、学園ではちょっとした流行りものがあった。プロフ帳である。もともとは中学生の間で流行るものだが、この学園では毎年この時期になると、なぜか上品な装丁のプロフ帳が書店に並び、お嬢様たちがこぞって交換し合うのが恒例になっていた。無論、そこは清泉である。ただの紙製ではなく、イタリア製の高級レザーを使ったものや、金の箔押しが施されたもの、中には個人の家紋入りの特注品まで存在するという。
放課後の教室で、初奈もついにその波に巻き込まれた。
「桜坂さん、私のプロフ帳にも書いてもらっていい?」
声をかけてきたのは、クラスメイトの一人だった。てのひらサイズの手帳は深みのある藍色の布張りで、角には真鍮の金具が丁寧にあしらわれている。
「はい、喜んで」
初奈は万年筆を受け取ると、丁寧に文字を綴っていった。名前、桜坂初奈。誕生日。好きな食べ物、苺のショートケーキ。ここまではすらすらと書けた。だが、次の項目でペンが止まる。趣味。初奈は少し迷ったが、その欄だけは空白のままにして、次の項目に進んだ。歌うこと、と書きたかった。でも、それは今の自分にとってはあまりに危険な言葉だった。
告白したこと、されたこと。初奈は迷わず「NO」と書いた。
好きな人がいるか。同じく「NO」。
書き終えたプロフ帳を返すと、クラスメイトは丁寧にお礼を言って去っていった。
「……好きな人、か」
初奈は誰にも聞こえないように小さく呟いて、窓の外を見つめた。中庭の木々が、少しずつ色づき始めている。あの日、スポーツ大会で見せた達也くんの笑顔がふと脳裏をよぎった。
翌日、初奈は事務所のスタジオにプロフ帳を持ち込んでいた。きっかけは箒の無邪気な一言だった。
「え、プロフ帳!? めっちゃ懐かしい! ウチも書きたい!」
「あらあら、私も中学生の頃に書いたきりだわ。うふふ」
「ダル。なんでオレがそんなの書かなきゃいけねえんだよ」
そう言いながらも、ぼたんは文句を言いつつペンを取る。こういうところが彼女らしいと初奈は思った。
最初に書き終えた箒のプロフを覗き込んで、初奈は思わず声を漏らした。
「箒ちゃん、『告白したこと』が『数え切れない』って……」
「え? だってウチ、好きになったらすぐ告白するもん。あかんかったことないし」
「『告白されたこと』は『毎日』……」
「それがめんどくさくて! 毎日毎日知らん男子から呼び出されて、ええ加減ウンザリやわ!」
十三歳にしてこのモテよう。しかも「好きな人」の欄は「NO」である。好きになったらすぐ告白するのに、今は誰も好きではないらしい。その奔放さに、初奈は眩暈がしそうだった。
次に、るるかのプロフを見せてもらう。
「るるかさんは、『告白したこと』も『されたこと』も『NO』なんですね」
「ええ、私は自分から好きになったこと、あまりなくて。それに、告白される前に逃げちゃうの。どうしても男の人の視線が気になってしまって」
そう言って微笑むるるかの声は穏やかだったが、その奥には長年彼女を苦しめてきた傷が垣間見えた。彼女に近づく男は、たいてい彼女の心ではなく体を求めていた。だから、告白の言葉すら素直に受け取れなくなってしまったのだろう。
「ぼたんさんも、両方『NO』で。告白したこともされたこともないんですか」
「あるわけねえだろ。近づいてくる男は全員ぶっ飛ばしてきたからな」
「『好きな人』も『NO』……」
「いねえよ、そんなの。男ってだけで虫唾が走る」
ぼたんは吐き捨てるように言ったが、初奈にはわかっていた。彼女が本当は誰よりも仲間思いで、本当は誰よりも優しい心の持ち主だということを。ただ、それを素直に出せないだけなのだ。
それでも、三人に共通していることがある。「好きな人」はみんな「NO」なのだ。
初奈はそっと、自分のプロフ帳のページを指でなぞった。告白も、されたことも、好きな人も、みんな「NO」。それはこの事務所のアイドルたちにとって、当たり前のことなのかもしれない。恋愛はタブー。ファンを裏切ること。そんな空気が、確かにここにはあった。
──なら、私のこの気持ちは、一体なんなのだろう。
その週末、初奈は音羽堂の前でイベントを開いた。夏が終わり、夕方になると風が少しだけ冷たくなる。集まった客は十数人。ドル研の先輩たちの姿もあれば、例のプロレスラーやスーツのサラリーマン、そして女子高生たちもいる。その中心に立つ達也くんも、今日はいつも通り学ラン姿だった。胸ポケットには筆箱らしき膨らみが見える。相変わらず真面目な彼らしい。
ライブが終わり、物販もひと段落した頃、達也くんがいつものようにぺこりとお辞儀をして帰ろうとしていた。初奈は、このチャンスを逃すまいと走り出す。
「た、達也くん!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。呼び止められた達也くんは、びくっと肩を震わせて立ち止まる。
「は、はいっ!?」
「これ、よかったら……書いて、いただけませんか」
差し出したのは、あのプロフ帳だった。学園の友人たちにも、事務所の三人にも書いてもらった、初奈だけのプロフ帳。達也くんは目を丸くしたが、すぐに「あ、これってプロフ帳ですか。懐かしい」と言って、少しだけ口元を緩めた。
「いいですけど……僕、面白いこと何も書けませんよ」
「それでもいいんです。達也くんの字が、見てみたくて」
言ってから、自分が何を言ったのか気づいて初奈まで真っ赤になる。達也くんは咳払いを一つして、壁に手をつきながらプロフ帳に文字を綴っていった。達也くんが書いている間、初奈はじっとその手元を見つめていた。少し震えているけれど、字は意外と綺麗だ。
「できました」
差し出されたページを見て、初奈の心臓が大きく跳ねた。
告白したこと──NO。
されたこと──NO。
好きな人──NO。
何故だか、少しホッとした。いや、かなりホッとした。初奈は自分でも気づかないうちに、小さく息を吐いていた。
「……趣味、書いてくれたんですね」
「は、はい。すみません、こんなこと書いちゃって。でも、他に書くことがなくて」
そのとき、背後からぬっと手が伸びてきて、プロフ帳をひょいと取り上げた。
「どれどれ、見せてもらうわよ」
「九条さん!?」
いつの間にか、九条玲子が初奈の背後に立っていた。いや、気配はあった。ずっと前から、様子を窺っていたに違いない。九条さんはプロフ帳を開くと、達也くんが書いたページをじっくりと眺めて、それからにっこりと微笑んだ。
「なるほどねえ」
「な、なにがですか」
「『趣味、初奈ちゃんの推し活』──字も丁寧で、なかなかいいセンスしてるじゃない」
九条さんがそう読み上げた瞬間、初奈と達也くんは同時に固まった。それから一気に、二人とも顔を真っ赤にする。
「ち、違うんです九条さん! これはその、他に書くことが思いつかなくて!」
「そうです! 達也くんはただ、私のライブによく来てくれるだけで!」
「あら、否定しないのね。それが事実だってことじゃない」
九条さんはプロフ帳をそっと閉じて、初奈の手に返した。その目はいつもの鋭さではなく、どこか娘を見守る母親のような、優しい眼差しだった。
「アイドルとファン。それ以上でもそれ以下でもない。今はそれでいいんじゃないかしら。でもね、初奈。この子が書いた趣味は、きっと本心よ。大事にしなさい」
九条さんはそれだけ言うと、くるりと背を向けて去っていった。残された初奈と達也くんは、しばらく顔を上げられなかった。
やがて達也くんが、おずおずと口を開く。
「あの……ごめんなさい。変なこと書いちゃって」
「い、いいえ。私の方こそ、急にこんなもの渡して。でも……字、綺麗ですね」
「そ、そうですか? 初奈ちゃんこそ、字がすごく丁寧で」
しばらく沈黙。そして、どちらからともなく小さく笑った。初奈はプロフ帳をぎゅっと胸に抱きしめる。告白はNO。好きな人はNO。それでも、趣味の欄に書かれた言葉が何よりも雄弁に、彼の心を表している気がした。
このプロフ帳は、私の宝物になるだろう。そう思いながら、初奈は達也くんの帰っていく後ろ姿を、いつまでも見送っていた。
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初奈の日記
九月十五日 晴れ
学園でプロフ帳が流行っている。みんな高価な手帳で、私も書いてみたけれど、趣味の欄だけはどうしても書けなかった。歌うこと——そんな当たり前のことが、私にとってはまだ秘密だから。
事務所でぼたんさんたちにも書いてもらった。三人とも「好きな人」はNOだった。アイドルである以上、それが普通なのかもしれない。それなのに私の心は、どうしてこんなにざわついているのだろう。
今日のイベントのあと、達也くんにプロフ帳を渡した。彼が書いてくれたのは、やっぱり「告白はNO」「好きな人はNO」。それを見て、なぜだかすごくホッとした。私は一体何を期待していたのだろう。いや、本当はわかっている。でも、それを認めるのが少しだけ怖い。
九条さんに「趣味、初奈ちゃんの推し活」と読み上げられたときは、穴があったら入りたい気持ちだった。でも、それ以上に嬉しかったのかもしれない。あの文字を見るだけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
おやすみなさい、お母様。今日もまた、宝物が一つ増えました。




