交わらない世界
七月が終わり、八月が目前に迫っていた。蝉の鳴き声が日増しに激しさを増し、街は真夏の熱気に包まれている。夏休みに入った学生たちで街は賑わい、初奈にとってもイベントが増える大事な時期だったが、同時に普段はできない体験ができる季節でもあった。
最初に招待されたのは箒の家だった。
「ウチん家、狭いし散らかってるけど、よかったら遊びに来てや!」
箒はそう言って、初奈、ぼたん、るるかを自宅に招いた。下町の商店街の裏手にある、築年数の古い小さな一軒家。玄関を開けるとすぐに居間で、こたつ机がひとつと、壁際にぎっしりと積まれた漫画本。部屋の隅には弟妹たちのおもちゃが散乱していて、足の踏み場を探すのに苦労するほどだった。
「狭いやろ! 恥ずかしいわあ」
「そんなことないです。とても、温かい」
初奈の言葉は本心だった。桜坂家の屋敷にはないものが、ここにはあった。壁に貼られた家族写真、冷蔵庫にマグネットで留められた子供の落書き、使い込まれてすり減った畳。どれもが生活の匂いに満ちていて、初奈にはそれが何より眩しかった。
四人はこたつを囲んで、箒の母が作ったお好み焼きを食べた。ぼたんは「ソースはこれでいいのか」と文句を言いながらも三枚も平らげ、るるかはお母さんとすっかり意気投合して料理のコツを教わっていた。
次に訪れたのはぼたんの家だった。
「散らかってるけど、まあ上がれ」
ぼたんのアパートは、駅から徒歩十五分の静かな住宅街にあった。六畳一間のシンプルな部屋だが、掃除は行き届いていて、窓辺には小さな観葉植物が並んでいる。本棚には音楽雑誌やボイストレーニングの教本がずらりと並び、壁には小さな鏡がかかっていた。おそらくここで発声練習をしているのだろう。化粧品やアクセサリーは最低限で、服も必要最小限。すべてが合理的で、無駄がない。
「お前んち、意外と綺麗だな」
箒が率直な感想を漏らした。
「意外とはなんだ、意外とは」
「だってぼたんさん、事務所ではいつも机の上ぐちゃぐちゃやん」
「うるせえ! それはそれ、これはこれだ!」
るるかがクスクス笑いながら、本棚にあった一枚の写真を手に取った。
「あら、この写真。ぼたんちゃん、小さい頃から美人だったのね」
「ちょ、見るなよ!」
写真には、まだ幼いぼたんと、その隣で優しく微笑む女性が写っていた。お母様、と初奈が呟くと、ぼたんは少しだけ黙ってから「去年、病気で亡くなった」と短く答えた。スタジオで、初奈が母親を亡くした話をしたとき、ぼたんが黙って聞いていた理由がわかった気がした。
そして、るるかの家は三人が想像していた通りの場所だった。
「散らかってるけど、どうぞ」
るるかの部屋は都心のマンションの最上階で、大きな窓から街が一望できた。部屋の中はアンティーク調の家具で統一されていて、いたるところに観葉植物が置かれている。クローゼットには色とりどりの服がかかり、ドレッサーの上には数えきれないほどのコスメが並んでいた。
「るるかさんのお部屋、めっちゃ女の子って感じ!」
「うふふ。昔はもっと殺風景だったんだけどね。声優時代は、家に帰っても練習ばかりで。今は好きなものに囲まれていたいの」
優雅に紅茶を淹れてくれるるるかを見ながら、初奈は思った。三人とも、それぞれの場所で、それぞれの過去を抱えながら生きている。このアパートでひとり、亡き母を想いながら練習に明け暮れたぼたん。声優時代の孤独を癒やすように、好きなもので部屋を埋めていったるるか。そして、狭くても家族の笑顔が溢れる箒の家。
それぞれの「当たり前」が、初奈にはとても新鮮で、そして少しだけ切なかった。
そして自分の番は、ついに来なかった。
初奈は三人を自分の屋敷に呼べなかった。呼ぶ勇気がなかった。あの広すぎる応接室、無機質な廊下、使用人たちの控えめな視線。三人がそこにいる姿を想像すると、どうしても違和感が先に立った。それに何より、もしお父様に見られたら。アイドルの友人を連れてきたと知られたら。その先に待つのは、間違いなくすべての終わりだった。
結局、初奈は「また今度」と曖昧に微笑んで、三人の誘いをかわし続けた。三人は何も言わなかった。ただ、るるかが少しだけ寂しそうな目で初奈を見ていたことだけが、胸に残った。
八月の第一週。夏休みの図書館は、冷房を求めて訪れる学生たちでそこそこ賑わっていた。初奈は加藤さんと数人のクラスメイトに誘われて、夏休みの課題を片付けるために訪れていた。
「桜坂さん、この問題わかる? 私、さっぱりで」
「どれでしょう」
初奈はいつものように丁寧に教えながら、ふと視線を感じて顔を上げた。図書館の奥、窓際の自習席に見慣れた姿があった。ボサボサの髪に大きな眼鏡。学ランではない。白い半袖シャツに、よれよれのチノパン。私服の達也くんを見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。
彼は一人ではなかった。向かいに座っているのは、以前川でカバンを拾ってもらった女子高生の一人だ。小柄で、おどおどした雰囲気の子で、たしかあのときも達也くんの袖を引っ張っていた。
二人は同じ参考書を広げて、何やら真剣に話し込んでいる。達也くんがペンを持ってノートに何かを書き、女子高生がそれを見て申し訳なさそうにうつむく。そんな様子が、やけに自然で、仲が良さそうに見えた。
初奈は持っていたシャープペンシルを落としそうになった。胸の奥がざわつく。この前のモヤモヤと似ている。でも、あのときよりずっと強い。
「桜坂さん、どうしたの? 顔色悪いけど」
加藤さんが心配そうに覗き込んできた。
「いえ……なんでもありません。少し、暑さにやられたのかもしれません」
「冷房効いてるのに? 無理しないでね」
初奈は曖昧に微笑んで、参考書に視線を落とした。でも、文字はまったく頭に入ってこない。
(話しかけられなかった)
何度も、立ち上がろうとした。でもできなかった。自分にはその資格がない気がした。彼は彼の世界で、彼の友人と、彼の時間を過ごしている。私はただのアイドルで、それも売れない、名前もろくに知られていない、そんな存在だ。
初奈は参考書の文字を追いながら、それでも時折、顔を上げては達也くんの背中を見つめていた。彼は一度もこちらに気づかない。それが少しだけ寂しくて、でもそれが当然だとも思った。
夕方、クラスメイトたちと別れた初奈は、一人で図書館のロビーに立っていた。遠くから達也くんと女子高生が出てくるのが見える。二人は図書館の前で少し話してから、笑顔で手を振って別れた。
何でもない光景だった。ただそれだけだった。
それなのに、初奈の足は動かなかった。胸がぎゅっと締めつけられて、息が苦しい。こんな感情、今までなかった。いや、あったのかもしれない。でも、名前をつけるのが怖かった。つけてしまったら、もう戻れなくなる気がしたから。
夜、初奈は自室の窓辺に立っていた。庭の白いバラは盛りを過ぎ、いくつかの花びらが地面に落ちている。机の上には、開きかけの日記帳。ペンを持つ手が、少しだけ震えていた。
今日、達也くんは違う世界の人だった。私の知らない場所で、私の知らない誰かと笑っていた。それが何より寂しかった。自分は桜坂家の娘で、この屋敷が自分の居場所だとずっと思ってきた。それなのに今は、箒ちゃんの家のこたつや、ぼたんのアパートの観葉植物や、るるかの部屋の紅茶の香りのほうが、よほど自分の居場所のように感じられる。
私は今、どこにも属せていない。交わらない世界の狭間で、ただ立ち尽くしている。
それでも、一つだけ確かなことがある。
達也くんを見たときのこの気持ち。まだ名前はつけられないけれど、失いたくない。大事にしたい。そう思った。
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初奈の日記
八月七日 晴れ
箒ちゃん、ぼたんさん、るるかさんのお家に遊びに行った。みんな違って、みんな温かかった。でも私は、自分の屋敷には誰も呼べなかった。こんなに広いのに、こんなに何でもあるのに、人を呼ぶ勇気が出ない。
今日はクラスメイトと図書館に行った。そこで達也くんを見かけた。彼はあの女子高生の子と一緒に勉強をしていた。楽しそうで、自然で、私の知らない顔をしていた。
話しかけられなかった。いや、話しかける勇気がなかった。私にはその資格がないと思った。イベントの外で、彼とどう接すればいいのかわからない。こんなに近くにいるのに、手を伸ばせない。
胸が苦しい。これはなんだろう。名前をつけるのが怖い。
おやすみなさい、お母様。私は今、誰にも言えない気持ちを抱えています。




