夏祭り
八月。世間は夏休みの真っただ中だったが、初奈の毎日は相変わらずレッスンとイベントの繰り返しだった。ただ、少しだけ違ったのは、イベントに来る人が少しずつ増えてきたことだ。達也が連れてくる仲間たちのおかげで、パイプ椅子がすべて埋まる日も出てきた。それでもまだ、CDが大きく売れるわけでもなく、メディアに取り上げられるわけでもない。
そして、相変わらず父には何も知られていなかった。
ある夕食の席で、誠一郎は新聞を読みながら、何の気なしに言った。
「最近また芸能人の不祥事が騒がれているな。所詮はああいう連中だ。品性というものがない。初奈、お前はそういう世界とは無縁でいてくれよ。櫻坂の娘として、恥ずかしくない人生を歩んでほしい」
「……はい、お父様」
初奈は静かにうなずきながら、味噌汁を口に運んだ。何も知られていない。それはつまり、まだ何も成し遂げていないということだ。悲しむべきか、安堵すべきか。どちらともつかない気持ちで、初奈は黙って箸を動かしていた。
八月の半ば、地元の商店街で夏祭りが開かれると聞いて、ぼたんが「行くぞ」と初奈を誘った。るるかと箒も一緒だ。
夕暮れ時の商店街は、提灯の灯りで幻想的に彩られていた。浴衣姿の家族連れやカップルが行き交い、焼きそばやたこ焼きの香ばしい匂いが通りを満たしている。出店が立ち並ぶアーケードの上には色とりどりの吹き流しが揺れていて、どこか遠くで太鼓の音が響いていた。
初奈は白地に淡い桜色の花があしらわれた浴衣を着ていた。母の遺品の一つで、箪笥の奥から見つけたものだった。帯は落ち着いた臙脂色。裾を気にしながら歩く姿は、どこからどう見てもお嬢様だった。
「初奈、浴衣似合ってんじゃん」
ぼたんは相変わらずの黒タンクトップにショートパンツというラフな格好で、とても祭りに来たようには見えない。
「ぼたんさんこそ、浴衣は着ないんですか」
「いいんだよ。動きにくいし」
「うふふ、ぼたんちゃんはいつも通りね」
るるかは紺地に朝顔の浴衣をさらりと着こなしていた。大人っぽい雰囲気が浴衣によく似合っている。
「初奈お姉ちゃん、浴衣めっちゃ可愛いやん! さすがお嬢様!」
箒はポップな金魚柄の浴衣で、ツインテールを揺らしながらぴょんぴょん跳ねている。
「ありがとう。こういうお祭り、実は初めてで」
「あら、そうだったの」
「はい。小さい頃は、人が多いから危ないって、お父様が連れて行ってくれなくて」
「そっか。じゃあ今日は初めて尽くしだな」
ぼたんが少しだけ優しい声で言った。
「ほら、まずはあれだ。りんご飴」
「りんご飴……」
初奈がきょとんとしていると、ぼたんは屋台に駆け寄って、あっという間に四人分のりんご飴を買ってきた。真っ赤に輝くりんご飴を手渡されて、初奈はおそるおそるかじりつく。パリッとした飴の甘さと、りんごの爽やかな酸味が口いっぱいに広がった。
「おいしい……!」
「だろ。祭りといったらまずはこれだ」
それから四人は、金魚すくいをしたり、型抜きに挑戦したり、ヨーヨー釣りで盛り上がったりした。金魚すくいでは箒が意外な才能を見せて五匹もすくい上げ、ぼたんは型抜きに夢中になりすぎて割ってしまい、るるかはヨーヨー釣りのコツを屋台のおじさんに教わるほど熱中した。初奈も少しだけ挑戦したが、ポイはあっという間に破れてしまった。それでも、破れたポイを手に笑い合う時間は、何にも代えがたかった。
(これが、夏祭り)
初奈は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
アーケードを抜けたところで、初奈はふと足を止めた。人混みの中に見覚えのある姿を見つけたのだ。ぼさぼさの髪に黒縁のメガネ。今日は浴衣ではなく、ラフなTシャツにハーフパンツ姿だ。手にはお玉を持っていて、屋台の焼きそばを必死に炒めている。
「達也くん……」
「お、学ランじゃねえか」
ぼたんも気づいたらしい。
「おーい、学ラン! お前、こんなところで何やってんだ!」
ぼたんが大声で叫ぶと、達也がびくっと肩を震わせてこっちを振り向いた。そして初奈の姿を認めると、手に持っていたお玉を取り落としそうになる。
「ぼ、ぼたんさん!? それに初奈さんも!」
「あらあら、今日はアイドルじゃなくて屋台のお兄さんなのね」
るるかがくすくす笑いながら近づいていく。
「たっくん、バイト代でまた初奈お姉ちゃんのグッズ買うん?」
箒がにやにやしながら言うと、達也は耳まで真っ赤になった。
「ち、ちが、これは、その、地域のボランティアというか」
「相変わらずだなあ、お前は」
ぼたんはそう言うと、ずかずかと達也に歩み寄って、なんと肩を組んだ。達也は硬直して、手に持ったお玉を振り落としそうになる。ぼたんはお構いなしに、達也の肩をぐいっと抱き寄せて笑った。
「お前さ、面白いやつだな。オレは結構お前のこと気に入ってるぞ。だから今度から、オレのことも推せよ」
「は、はあっ!? ぼ、ぼたんさんをですか!?」
「当たり前だろ。初奈ばっかりずるいんだよ。オレも結構売れてきてんだからな」
「お、推すって、その、僕は初奈さん一筋で」
「んだと、この野郎。オレじゃ不満か」
「そういう意味じゃなくて!」
達也があまりに狼狽えるので、周りにいた田中先輩と伊藤先輩がすかさず反応した。
「達也氏! ぼたん殿から直々のお誘いとは、なんたる栄誉! この機を逃す手はないでござる!」
「左様! 達也氏、ここは二股ならぬ二推しでいくべき! 初奈殿もぼたん殿も、どちらも素晴らしい!」
「ちょっと、田中先輩、伊藤先輩まで何言ってるんですか!」
達也はもうパニックだった。肩を組まれたまま真っ赤になって、お玉を振り回し、屋台のおばちゃんに「達也、手が止まってるよ!」と叱られている。初奈はその様子を見て、思わずくすりと笑った。
「何笑ってんだ、初奈。お前のとられそうなのに」
ぼたんがにやりと笑う。
「と、とられません。というか、達也くんは私のものじゃないですし」
「お、そうか。じゃあ遠慮なく」
「ちょっと、ぼたんさん!」
初奈が思わず声を上げると、るるかと箒が同時に吹き出した。
「うふふ、初奈ちゃんが珍しくムキになってる」
「初奈お姉ちゃんのジト目、久しぶりに見たわ!」
「ジト目になってません!」
初奈はますます頬を膨らませる。ぼたんはそんな初奈を見て満足そうに笑ってから、ようやく達也の肩から腕を外した。達也は解放されるなり、その場にしゃがみこんでしまった。
「あの、達也くん。大丈夫ですか」
初奈がそっと声をかけると、達也は顔を上げた。メガネの奥の目が、うるうると潤んでいる。よほど慌てたらしい。
「だ、大丈夫です。すみません、取り乱して」
「いいえ。それより、ぼたんさんが失礼を。後でちゃんと叱っておきますから」
「お、お気になさらず。その、今日は浴衣、とても」
そこで言葉が止まった。もごもごと口を動かして、視線をあちこちに泳がせる。
「とても、なんでしょうか」
「……似合ってるな、と」
達也の声は、祭りの喧騒にかき消されそうなほど小さかった。
初奈は、胸の奥がふわりとあたたかくなるのを感じた。浴衣が似合っている。そう言ってくれた人は初めてだった。
「……ありがとう、達也くん。焼きそば、あとで買いに来ますね」
「は、はい!」
達也はぺこりとお辞儀をして、それから慌ててお玉を拾い上げた。
初奈たちが屋台を離れると、ぼたんは少しだけ不貞腐れたように言った。
「なあ、なんであいつ、オレにはあんなに慌てるのに、初奈には『似合ってる』とか言えんだよ」
「ぼたんさんが急に肩を組んだり推せとか言うからです」
「あいつ、面白いからつい構いたくなるんだよ。オレは結構気に入ってるぞ」
「それはわかりますけど……」
初奈は振り返って屋台の方を見た。達也はもう焼きそばを炒めていて、先ほどの動揺が嘘のように手際よく動いている。浴衣、似合ってる、か。初奈は小さく微笑んで、りんご飴をかじった。甘い、夏の味がした。
【初奈の日記】
今日は生まれて初めての夏祭りに行きました。ぼたんさん、るるかさん、箒ちゃんと四人で。りんご飴も金魚すくいも初めてで、浴衣を着てこんなに楽しい場所があったのかと驚きました。子どもの頃、お父様は人が多いからと連れて行ってくれなかったから、ずっと縁のない世界だと思っていました。でも、こうして友達と笑い合いながら歩く夜は、想像以上に温かくて、忘れられない思い出になりそうです。
お祭りの屋台で、達也くんがアルバイトをしていました。焼きそばを焼く姿が様になっていて、やっぱりあの人は真面目で不器用で、でも一生懸命なんだなと思いました。ぼたんさんが彼に「オレも推せ」と肩を組んだときは、正直もやもやしました。これが嫉妬というものなのでしょうか。自分でもよくわかりません。でも彼が「僕は初奈さん一筋で」と言ったとき、ちょっとだけほっとした自分がいました。
それから、浴衣を褒めてくれました。「似合ってる」と。たったそれだけで、胸がふわっとあたたかくなって、ずっと忘れられない一言になりそうです。
お父様は相変わらずアイドルを蔑んでいますが、まだ何も知られていないのは、きっと私がまだ何も成し遂げていないから。いつか胸を張って「私はアイドルです」と言えるように、もっと頑張りたいと思います。




