小さな天才と、ひとつの真実
五月の終わり、新緑が深まる季節。街はすでに初夏の気配を見せ始め、日差しは日に日に強さを増している。事務所のレッスン室にも、窓を開け放つとどこか遠くから鳥の声が聞こえてくるようになった。
箒が正式にデビューを果たしたのは、ちょうど先週のことだ。十三歳という若さでありながら、その初ライブは予想をはるかに超える盛況だった。もともと箒は天性の人を惹きつける力を持っていて、SNSのフォロワー数も同期の中で群を抜いていた。事務所も早々に彼女の才能を見抜き、満を持してのソロデビューとなったのだ。
初奈は、その初ライブに特別に招待されていた。箒本人から「絶対に来てください!」と直々に頼まれ、断る理由などなかった。当日、会場となったのは都内でも有名なライブハウスで、初奈がデビューしたときの会場よりもはるかに大きく、観客の数も比べ物にならない。開演前から熱気はすさまじく、色とりどりのサイリウムがすでに揺れている。
「すごい人……」
初奈は関係者席からその光景を見下ろしながら、素直にそう思った。自分が立ってきたステージとは、何もかもが違う。客席の数、照明の豪華さ、そして観客の熱狂。すべてが桁違いだった。
開演のブザーが鳴り、箒がステージに飛び出すと、会場の熱気は一気に最高潮に達した。彼女は一瞬たりとも怯まなかった。むしろ、この場を待っていたと言わんばかりに、全身で楽しんでいる。小さな身体を大きく使って、ステージ狭しと駆け回り、客席に手を振り、あの特徴的な関西弁で観客の心を鷲掴みにしていく。
「みんな、ウチのこと見つけてくれてありがとうな!」
歌も、ダンスも、まだ荒削りな部分はある。それでも、彼女の周りだけ空気が違う。人が集まり、笑顔になり、もっと見たいと思わせる。これが天性の才能なのだと初奈は思った。理屈では説明できない、持って生まれた何か。それは努力で追いつける領域を、軽々と超えている。
ライブが終わったあと、初奈は楽屋に箒を訪ねた。箒は汗を拭きながら、けろりとした顔でペットボトルの水を飲んでいる。
「箒ちゃん、すごかったです。本当に感動しました」
「おおきに! でもな、ウチ、別に緊張とかせえへんかったわ。だって、ウチ、負けたことないし」
その言葉があまりにも自然で、初奈は一瞬息を呑んだ。彼女は決して驕っているわけではない。まるで空が青いと言うのと同じくらい当たり前に、自分が勝つことを知っている。そんな顔だった。
「……負けたこと、ないんですか」
「うん。昔から、なんでも一番やった。勉強も、運動も、人気も。誰かに負けるって感覚がようわからんのや。もちろん努力はしてるで。でも、努力しても勝てへん人がいるっていうのが、ウチには不思議で」
ああ、この子は違う世界に生きているんだ。初奈はそう思った。自分は違う。自分はいつも誰かと比べて、足りなくて、転んでばかりで。それでも食らいつこうと必死でもがいている。それが初奈のアイドルだった。
「初奈さん、どないしました? なんか暗い顔してる」
「いいえ。箒ちゃんはすごいなと思っただけです。私は、まだまだだなって」
「初奈さんは初奈さんでええんやで。ウチは初奈さんの歌声、めっちゃ好きやし」
「ありがとう、箒ちゃん」
初奈は微笑んだが、やはり心のどこかに小さな影が落ちていた。つい比べてしまう。天性の人気者である彼女と、何もかもが正反対の自分と。
ライブ後、初奈はグッズ売り場で売り子の手伝いをしていた。箒のグッズは飛ぶように売れていき、列は途切れることを知らない。缶バッジも、ポストカードも、あっという間に売り切れていく。自分が手作りしたグッズをぽつりぽつりとしか売れなかった日々が脳裏をよぎる。才能の差は、残酷なまでに数字となって現れる。それでも、自分は自分だと初奈は心の中で唱えた。
「初奈殿! ご無沙汰しておりまする!」
聞き覚えのある口調に振り返ると、ドル研の先輩二人が立っていた。胸には相変わらず「ドル研」と書かれたシャツ。田中先輩に伊藤先輩だ。
「これはこれは、箒殿のライブも見事でござった。いやあ、素晴らしい才能でござる」
「左様左様。しかし拙者たちが真に待ち望んでおるのは、次なる初奈殿のイベントでござるよ。次のご予定はいつでござるか」
二人は相変わらずのコテコテの口調で、初奈のグッズをいくつも買ってくれた。初奈がお礼を言うと、田中先輩がふと思い出したように口を開く。
「そういえば、達也氏は本日欠席でござる。なんでも、またバイトだとか」
「達也くんが……そう、ですか」
初奈の声が、少しだけ沈んだ。それを見逃さなかったのは伊藤先輩だった。
「初奈殿、少しお耳に入れておきたいことがあるのでござるが」
「なんでしょうか」
「達也氏はな、入学当時、ドル研に無理やり入れられたのでござるよ。というのも、アイツは元々アイドルにまったく興味がなく、教室でいつも一人で本を読んでおるような奴だったのだ。見かねた拙者たちが、友達を作るきっかけになればと、半ば強引に引きずり込んだのでござる」
「アイドルに……興味がない?」
初奈は思わず聞き返した。
「左様。最初はヲタ芸もサイリウムもまったくできず、ただぼんやりとライブを眺めておるだけだった。ところがある日、アイツが突然申したのだ。『応援したい人ができた』と。それが初奈殿でござる」
「今では達也氏の方が熱心で、拙者たちが誘わなくとも一人でイベントに足を運んでおる始末。まったく、初奈殿には感謝してもしきれぬ」
初奈は何も言えなかった。アイドルに興味がない達也くんが、自分のライブに来るようになった。それがどういうことなのか、深く考えるまでもなかった。
イベントが終わり、片付けを終えた初奈は、楽屋で箒と二人きりになった。箒はどこか残念そうな顔をしている。
「はあ、今日は達也くん来てへんかったなあ」
「知ってたんですか、達也くんのこと」
「もちろん! あの有名な学ランくんやろ。ウチ、会ってみたかったのに。ぼたんさんもるるかさんも知ってるのに、ウチだけ会うたことないんやもん」
「箒ちゃんが会ってどうするんですか」
「決まってるやん。初奈さんの『貴方』がどんな人か、この目で確かめるんや」
「ち、違います。達也くんは『貴方』なんかじゃ……」
「ええからええから。今度こそ、ウチも紹介してや。約束やで!」
箒の無邪気な笑顔に、初奈は観念したようにうなずいた。ああ、もう隠し通せない。この子には、すべてお見通しなのかもしれない。そう思いながらも、不思議と嫌な気はしなかった。
帰り道、初奈は一人で夜道を歩きながら、先輩たちの言葉を反芻していた。達也くんはもともとアイドルに興味がなかった。ドル研に無理やり入れられただけだった。それなのに、今では応援したい人がいる。初奈だけを推している。
それは、どういうことなのだろう。
星がきれいな夜だった。明日はきっと晴れる。初奈は空を見上げて、そっと願った。どうか次のイベントにも、達也くんが来てくれますように。
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初奈の日記
五月二十五日 晴れ
箒ちゃんの初ライブに行った。会場は超満員で、彼女の才能がまばゆく輝いていた。「負けたことがない」と言った箒ちゃんは、とても眩しかった。天性の人気者。つい自分と比べてしまう。私はああはなれない。でも、それでもいいと思える自分もいる。
売り子をしていると、ドル研の先輩たちが来てくれた。そこで初めて知った。達也くんはもともとアイドルに興味がなく、友達作りのために無理やりドル研に入れられたらしい。それなのに、今では一人でイベントに来ている。応援したい人ができたからと。
箒ちゃんに「貴方って学ランくん?」とまた言われた。もう否定できない。達也くんに会いたいと言われたけれど、なんだか照れくさくて、うまく返事ができなかった。次こそはちゃんと紹介できるように。私自身が、もっとしっかりしなければ。
おやすみなさい、お母様。今日も一日、いろいろありました。




