帰国
帰国便は深夜に羽田に着いた。
タラップを降りると、夏の終わりの湿った空気が体を包んだ。汗ばむような熱気ではなく、微かに秋の気配を含んだ、東京の夜の空気。それが、帰ってきたという実感を、言葉より先に体に届けた。
到着ロビーに足を踏み入れた瞬間、桐島は立ち止まった。
人がいた。
これほどの数が来るとは、思っていなかった。報道陣だけではない。一般の人々が、柵の外から首を伸ばし、スマートフォンを構え、名前を呼んでいた。日本代表のユニフォームを着た子供が、親に肩車をされて手を振っている。その手が小さく揺れていた。
「桐島!」「おかえり!」
声が重なった。
桐島は少しだけ立ち止まり、その方向に向かって小さく頭を下げた。手を振ることは、まだ少しぎこちなかった。四十七年間、人前でそういう振る舞いをする機会のなかった人間の、ぎこちなさだった。
翌朝から、メディアの取材申し込みが殺到した。
黒川から送られてきたリストには、テレビ局が十二社、スポーツ新聞が七紙、週刊誌が九誌、ウェブメディアは数えきれなかった。黒川は「全部断ることも、全部受けることも、どちらも難しい」と言い、取材を段階的に解放するスケジュールを組んだ。
最初に受けたのは、NHKのスポーツドキュメンタリーだった。インタビュアーは四十代の女性ディレクターで、事前に渡した「聞かないでほしいこと」のリストを丁寧に守ってくれた。移植の経緯については触れない。田村葵の名前は出さない。それだけが条件だった。
「サッカーを始めたきっかけを教えてください」
「小学校の体育の授業です」と桐島は答えた。「先生がボールを蹴って、それが思ったより遠くに飛んだ。それだけのことだったんですけど、なぜか忘れられなくて」
「今、サッカーを続けている理由は?」
桐島は少し考えた。
「まだ、走れるからだと思います」
短い答えだった。しかしそれ以上のことは、今はまだ言葉にならなかった。
その番組が放送された翌週、桐島のSNS公式アカウントのフォロワー数が百万を超えた。
コメント欄は毎日、数千件が届いた。日本語だけではなかった。英語、韓国語、スペイン語、アラビア語。アジアカップでの活躍が、文字通り世界に届いていた。
その中に、ある種のコメントが増えていった。桐島の容姿についての言及だった。
移植手術から一年半が経ち、女性ホルモンの影響は静かに、しかし着実に進んでいた。顔の輪郭が少しずつ変わった。皮膚の質感が変わった。首から上の、かつて四十七歳の男が持っていた面影は、今はもう、別の何かになっていた。
男性でも女性でもない、とコメントを書いた人がいた。この世のものとは思えない顔をしている、と書いた人がいた。どちらも侮辱ではなく、言葉が追いつかないという正直な感想だった。
桐島自身は、自分の顔を鏡で見るたびに、静かな違和感を感じていた。知っている顔ではない。しかしそれが誰の顔かと問われると、返答に詰まった。四十七年間の自分でもなく、葵の体の持ち主でもない。どちらでもない何かが、鏡の中に立っていた。
中性的、という形容を、記事の中で初めて見たとき、桐島はその言葉をしばらく眺めた。正確ではないが、遠くもない。そう感じた。
九月の連休を使って、家族で温泉に行くことにした。言い出したのは、妻の恵子だった。「どこかに行きましょう」という言葉が、夕食の後に突然出てきた。桐島は少し驚いたが、反対しなかった。
行き先は栃木の、山あいの静かな宿にした。以前に家族で来たことがある場所だった。
車で二時間、山道を走った。後部座席で、拓海と美鈴が他愛のない話をしていた。大学の友人の話、好きなバンドの話、最近見たドラマの話。内容は聞き取れたり聞き取れなかったりしたが、そのざわめきが、桐島には心地よかった。
部屋は和室で、窓から杉の木立が見えた。夕暮れの光が林の中に差し込み、木の影が長く伸びていた。
二人になった部屋で、恵子がお茶を淹れた。
「疲れてる?」
「そうでもないです」
「嘘をつかなくていい」
恵子は静かに笑った。目の端に細かいしわが寄る、控えめな笑い方。昔から変わっていない。
「少し、疲れています」と桐島は言い直した。「でも悪い疲れじゃない」
しばらくして、恵子が続けた。「きれいになりましたね。変な言い方だけど」
二人は黙って、窓の外の林を眺めた。夕暮れが、山の向こうに沈んでいくところだった。
少し気まずいのが温泉だった。さて、温泉に入ろうというときに、自分がどちらの浴場に行けばよいのか、桐島は逡巡したが、この身体で男性の浴場に行くわけにはいかない。
「じゃあ一緒に行きましょうか」と恵子が言った。娘も「うん」と小さく言った。そこに間はなかった。
三人で廊下に出た。浴場への通路は静かだった。宿の他の客とすれ違うたびに、桐島は微かに体が強張るのを感じた。見られている、という意識が先に来た。この体つきで、この顔で、女性の浴場に入る。それが正当なことであるとわかっていても、他人の視線の前ではまだ、心臓が縮む思いがした。
暖簾をくぐり、脱衣所に入った。先客が二人いた。中年の女性と、その娘らしい若い女性だった。二人はこちらをちらりと見て、それから視線を戻した。特別な反応はなかった。
桐島は浴衣を脱ぎながら、なるべく考えないようにした。しかし考えないようにすることが、かえって意識を高めた。隣に恵子がいた。その向こうに美鈴がいた。三人が同じ女性専用の空間にいることの、奇妙な普通さと、奇妙な非日常が、同時に桐島の中に存在した。
湯船は広かった。露天に続く戸が開いていて、夕暮れの空が見えた。
桐島は端の方に腰を下ろし、膝を抱えるようにして湯に浸かった。
「肩まで入らないと意味ないよ」と娘が隣に来て言った。
「わかってます」
「じゃあ入れば」
桐島はゆっくりと体を伸ばした。肩まで湯に沈んだ。熱さが全身に広がった。
しばらく誰も何も言わなかった。
「慣れないよね、こういうの」と娘がぽつりと言った。
「慣れないよ」
「でも、来て良かったんじゃない?」
桐島は答えなかった。答えなかったが、そうだと思った。
恵子が向かいの縁に腕をかけて、空を見上げていた。「星が出てきた」と誰にともなく言った。
一番星が、薄い空の端に光っていた。
湯の中で、三人が同じ空を見ていた。
それだけのことが、桐島には思いのほか、重かった。悪い重さではなかった。長い時間をかけて積み上げてきたものが、この瞬間に静かに沈んでいくような、そういう重さだった。
夕食は囲炉裏のある部屋で、四人でとった。
拓海が珍しく饒舌だった。内定した会社の話、社会人になることへの漠然とした不安の話。横に座った美鈴が時折「大丈夫じゃない」と言い、拓海が「お前に何がわかる」と言い返す。その繰り返しが、いつもの二人だった。
桐島は食べながら、テーブルの周りを眺めた。
ただの夕食だった。
ただの、と言いながら、桐島にとってはそうではなかった。この場所に、自分がいる。家族の輪の中に、椅子がある。当たり前のようで、ずいぶん遠回りをした末に辿り着いた場所だと、今夜は特に感じた。
温泉旅行から戻って十日後、前の職場の同僚・大和田から連絡が来た。「久しぶり。アジアカップ、テレビで見てたよ。飲みに行こう」という、短いメッセージだった。
場所は新橋の、昔からよく使っていた居酒屋にした。集まったのは四人。大和田、田口、中島、そして桐島。かつて同じフロアで働いていた、同年代の男たちだった。
桐島が店に入ると、三人は一瞬だけ黙った。変わった、と思っている。ただそれをどう言葉にすればいいか、誰もまだ決めていない。そういう沈黙だった。
「お前、ほんとに同一人物か」大和田が先に口を開いた。
「まあ色々報道されましたからね」
「いや、そういう話じゃなくて」大和田は苦笑した。「なんか、顔が、こう」
「きれいになったって言いたいんだろ」田口が横から言った。「俺も思った。言えなかっただけで」
中島が「俺も」と小声で言った。
ビールが来た。最初の一杯を飲み干すまで、誰も大したことは話さなかった。それで十分だった。
二杯目から、話が動き始めた。田口の部署が再編されて管理職を外れた話、中島の子供が今年受験する話、大和田のゴルフが全く上達しない話。桐島が離れている間に積み重なった、普通の日々だった。
「そういえば」と田口が言った。「桐島、復職してから一回も愚痴を言ってこないな、と思ってたんだよ。あの頃、お前が一番ストレス抱えてた気がしたんだけど」
「出てきませんでした」
「なんで?」
「出すより先に、別のことが起きたので」
田口は「ああ」と言って、それ以上は聞かなかった。
「代表ってどんな感じ?」と大和田が話題を変えた。
「年齢的にはダントツで上です。でも、ピッチの上だとあんまり関係ない。それが面白いんですよね」
「面白い、か」大和田は繰り返した。「お前がそういう言い方をするの、珍しいな。昔は、仕事に対して面白いって言ったこと、なかったと思うんだよ」
桐島はそれには答えなかった。そうかもしれない、とは思った。
閉店近くまで飲んで、四人で店を出た。夜の新橋は、サラリーマンの帰りで混んでいた。桐島はかつて、この景色の中にいた。今はもう、いない。
「また来よう」と大和田が言った。
「また来ましょう」と桐島は答えた。
翌朝、桐島は早起きして走りに出た。
日の出前の道は静かだった。住宅街の路地を抜け、川沿いの遊歩道に出た。川面が薄明かりを受けて光っている。どこかで鳥が鳴いていた。
走りながら、漠然と考えた。
アジアカップが終わった。テレビで自分のことが放映された。家族と温泉に行った。昔の仲間と飲んだ。それぞれに意味があって、それぞれに重さがあった。ピッチの外にも、確かに道が続いている。




