世界
代表デビュー戦から三日後、桐島の名前は国境を越えた。
試合映像の一部がSNSに上がり、最初に反応したのはスペインのサッカー専門メディアだった。「日本に奇妙なボランチがいる」という見出しで、桐島の動き方を分析した短い記事が出た。奇妙、という言葉は侮辱ではなく、純粋な困惑から来ていた。これまで見たことのある動き方ではない、という意味での困惑。
その記事が、欧州のサッカー関係者の間で広まった。
翌週にはイタリアのメディアが続き、ドイツの専門誌がより詳細な戦術分析を掲載した。共通して取り上げられたのは、二つの場面だった。ひとつは体を極端に低く落として相手の逆を取る場面。もうひとつは、自分の身長を大きく超える跳躍でボールに触れる場面。どちらも、男性選手の標準的な身体特性から大きく外れていた。
コメント欄に、様々な言語が並んだ。
スペイン語、イタリア語、アラビア語、ポルトガル語。内容はわからなくても、桐島という名前が繰り返し出てくることは、スマートフォンの画面でも読み取れた。
黒川からメッセージが来た。
「ヨーロッパから問い合わせが来ています。複数のクラブから」
桐島は少し考えてから返信した。
「今は代表に集中します」
翌年一月、アジアカップが始まった。
代表監督の浜田は、桐島を「切り札」として扱うことを明言した。先発ではなく、試合の流れを変える駒として後半に投入する。四十五分という制約を、戦術的な武器に変える考え方だった。
第一戦、相手はベトナム。守備が堅く、前半を〇対〇で折り返した。
後半、桐島が入った。
ピッチに入った瞬間、相手の選手たちに変化が起きた。映像で研究してきたはずの動きが、実際に目の前に現れると、やはり体が正確に対応できない。頭でわかっていることと、体が覚えていることの間に、埋めきれない溝がある。特に、前半でペースを掴んでいた相手には、強い困惑を生む。
五十五分、桐島は中盤低い位置でボールを受けた。
相手のアンカーが寄せてきた。大柄で、強引なチャージを好むタイプだった。
桐島は受け身に回らなかった。
むしろ相手の方向に半歩踏み込み、直前で体を捻った。腰の回転と股関節の可動域が生み出す、人体の構造上ありえないような角度の切り替え。相手の重心が前に出た。桐島はその脇を抜け、縦に一本、背後のスペースに走り込むフォワードへパスを送った。
フォワードが抜け出し、シュートを打った。
ゴール。
一対〇。
スタジアムから声が上がった。桐島の名前を呼ぶ声が、その中に混じっていた。
第二戦は、ウズベキスタンだった。
フィジカルが強く、中盤の支配力が高いチームで、前半のうちに一点を先行された。
後半、桐島が入ったとき、スコアは〇対一だった。
相手の守備は整っていた。ブロックを組み、縦のパスコースを消し、サイドへ誘導する守り方。それは教科書的で、かつ実効性のある守備だった。
桐島はその守備の構造を、ピッチに入った最初の五分で読んだ。
ブロックの左側に、わずかなズレがある。左のセンターバックと左ボランチの間の距離が、右側より少し広い。おそらく左ボランチが攻撃参加の意識が強く、守備時に絞り切れていない。そこに入れれば、局面が変わる。
六十二分、桐島は意図的に右サイドでボールを受けた。
相手のブロックが右に絞った。
その瞬間に、素早く左に展開した。受け手が左サイドから中央に切り込み、桐島が走り込んだ。左センターバックとボランチの間の、わずかな空白に体を滑り込ませることができた。
パスが来た。
桐島はファーストタッチで前を向き、完全にボランチを置き去りにした。ボランチは完全に背後の死角から回り込まれ、桐島の存在を認識できていなかった。
ゴールまで、二十二メートル。センターバックが寄せてくる前にシュートを打った。
低く、速く、ゴール右隅に向かうボールが、キーパーの手をわずかに掠めてネットに入った。
一対一。
スタジアムが揺れた。
七十八分、今度は桐島がコーナーキックに走り込んだ。
マーカーより先に跳んだ。
ボールに頭が届いた。
二対一。
試合終了。
試合後の記者会見で、ウズベキスタンの監督がコメントした。
「桐島については研究した。映像を何時間も見た。しかし映像で見るのと、実際に対戦するのは別物だ。あの動き方は、今まで対戦してきたどの選手とも、根本的にちがう」
その発言が翌日、複数の言語に翻訳されて広まった。
三月、欧州チャンピオンズリーグのシーズン中に、スペインの名門クラブのテクニカルディレクターが来日した。
表向きは別件だったが、黒川経由でFC東都に連絡が入り、桐島の練習見学が設定された。
テクニカルディレクターは練習を九十分見て、黒川に一言だけ言った。
「いくらですか」
黒川は笑って「今はまだ動きません」と答えた。
その話を、黒川から聞いたとき、桐島は特に感情が動かなかった。
ヨーロッパへの興味がないわけではなかった。三十代にサッカーを続けていたころ、欧州のサッカーへの憧れが全くなかったと言えば嘘になる。しかし今の自分にとって、欧州移籍が意味を持つためには、まだやることがある、という感覚が先にあった。
代表で、もう少し。
アジアカップ本大会は、六月に開催された。
グループリーグを二位で突破し、決勝トーナメントに進んだ。
準決勝の相手は、韓国だった。
試合は拮抗した。前半〇対〇。後半に入っても流れは変わらず、六十分を過ぎても得点が動かなかった。
桐島は六十五分に投入された。
ピッチに入ると、相手の選手たちの目が変わったのがわかった。警戒と、それに隠れた緊張。桐島という選手が何をしてくるかを、彼らは知っていた。知っていて、それでも対処できないことも、おそらく知っていた。
七十分、桐島は相手のダブルボランチの間でボールを受けた。
二人が同時に寄せてきた。研究の成果だった。一人では止められないから、二人で挟む。その判断は正しかった。
しかし二人が寄せた分、別の場所が空いた。
桐島はボールを一度だけ触り、体を低くし、左のボランチの外側にボールを流した。同時に右のボランチとの接触を、体を回転させて避けた。腰の角度が、通常の可動域を超えていた。
二人が交錯した。
桐島はその間を抜けていた。
前を向いて、左に展開した。サイドバックが受け、クロスを上げた。ファーに走り込んだフォワードが合わせた。
ゴール。
一対〇。
スタジアムが動いた。
その一点を守り切り、日本は決勝に進んだ。
決勝は、三日後だった。
試合前夜、桐島はクアラルンプールのホテルでミーティングを終えた後、部屋で窓の外を見ていた。
見知らぬ国の夜景。光の集まり。どこの国でも、夜の街の光は似ている。
田村葵のことを、久しぶりにゆっくりと考えた。
葵が生きていれば、今年で二十二歳だった。大学を卒業して、体育教師への道を歩んでいたかもしれない。好きなカレーライスを食べて、バレーボールを続けて、恋愛をして、普通の二十代を送っていたはずだった。
その人生が、事故で断ち切られた。
桐島はその事実を、一日も忘れたことがなかった。忘れることは、できなかった。しかし以前のように、その事実が罪悪感として体の中心に刺さっている感じは、少しずつ変わっていた。罪悪感が消えたのではない。それは今も確かにある。ただその隣に、別の何かが育っていた。
葵の体で、代表に来た。
葵の体で、世界に名前が届いた。
それが供養になるかどうか、桐島にはわからない。そういう言葉で整理できることではないかもしれない。ただ、この体が持っている力を使いきることが、今の自分にできる最大限のことだと、桐島は信じていた。
明日、全力で走る。
それだけを考えて、桐島は目を閉じた。
決勝当日のオーストラリア戦、スタジアムは満員だった。
桐島は後半から入った。スコアは一対一。
ピッチに踏み出した瞬間、観客の声が変わった。
桐島の名前を呼ぶ声が、スタジアムに広がった。相手チームのサポーターも含めて。国籍も言語も関係なく、この選手を見たいという純粋な期待が、声になっていた。
六十八分、桐島はボールを受けた。
何度か桐島が二人のディフェンダーをはがしてボールを前に運ぶ場面を見て焦れたのか、相手の三人が一斉に寄せてきた。
桐島は笑わなかった。焦らなかった。
四十七年の経験が言っていた。三人来るということは、三人分のスペースが別の場所に生まれているということだ。
一人目をかわした。
二人目の脇をすり抜けた。
三人目が来る前に、ボールを前に出した。
中央に走り込んでいたキャプテンがボールを受け、シュートを打った。
ゴール。
二対一。
スタジアムが割れた。
そのままホイッスルが鳴った。
日本が、アジアチャンピオンになった。
表彰式のあと、桐島はピッチの隅に一人立っていた。
喧騒が遠かった。
夜空が、高かった。
スタジアムの照明が、ピッチの芝を白く照らしていた。
四十七歳でここに立っている。事故があって、手術があって、葵の体をもらって、会社に戻って、サッカーを再開して、プロになって、代表になって、今ここにいる。
どの一点を取り上げても、あり得ないことの連続だった。
人生というのは、設計できない。
四十七年かけて、そのことをずっと知っていたようで、本当に知ったのは今かもしれないと思った。
「桐島さん」
声がした。
振り返ると、キャプテンがいた。
「何してるんですか、こんな端で」
「少し考えていました」
「何を」
桐島は少し間を置いた。
「いろいろと」
キャプテンが隣に立った。二人でピッチを見た。
「桐島さんって、何考えてるか、あんまりわからないですよね」
「そうですか」
「でも、信頼できる」キャプテンは少し考えてから続けた。「なんか、全部見えてる感じがする。ピッチの上で」
「年の功です」
キャプテンが笑った。
桐島も笑った。
芝の上に、二人の影が伸びていた。
遠くで、チームメートたちの声が聞こえた。
桐島は深く息を吸った。夜の空気が、肺の奥まで入ってきた。
葵の肺で吸った空気が、桐島修二の体を満たした。
それで十分だった。
走り続けた先に、ここがあった。
そしてその道はまだ、続く。




