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途切れた道のその先は  作者: 月の輝く夜に
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秋のリーグ戦が再開した。


アジアカップで名前が広まった効果は、ピッチの内側にも現れた。FC東都のホームゲームの観客数が、それまでの平均を三割近く上回った。スタジアムの一角に、桐島のユニフォームを着たサポーターが固まって座るようになった。試合前のウォームアップから、その方向に向けてスマートフォンが向く。

桐島は、それを意識しないようにしながら、意識していた。

注目されることへの慣れは、まだ来ていなかった。ただ、ピッチに入れば消えた。白線の内側に踏み込んだ瞬間から、視界が変わった。スタンドの声は背景になり、ボールとスペースと相手の動線だけが前景に浮かんだ。それは今に始まったことではなく、サッカーを再開した最初の日からそうだった。この体が、ピッチの上では別の何かになった。


しかし秋のリーグ戦で、桐島はひとつの壁に繰り返しぶつかった。


フィジカルコンタクトだった。

相手のボランチやセンターバックと身体的に競り合うとき、明確な差を感じた。筋量の差、骨格の差、重心の高さの差。これらは以前の、四十七年間の自分の体では感じたことのない種類の劣位だった。かつては体格で後れを取る場面はあっても、それは個人差の範囲だった。今感じるのはそれとは違う。構造上の、性差に近い何かだった。

具体的には、こういう場面で起きた。


ボールをトラップした直後、相手が肩をぶつけてくる。体幹を鍛えていても、受け止める質量が足りない。重心が流れ、ファーストタッチの精度が落ちる。あるいは、競り合いでボールに触れる寸前に、相手の腕が先に入ってくる。腕の長さと筋量の差が、そのコンマ何秒かを決めていた。

試合後、コーチの坂本に言われた。

「桐島さん、ここ数試合、デュエルの勝率が落ちてますよ」

「わかっています」

「体をぶつけに行くんじゃなくて、先にポジションを取る...でもそれだけじゃ足りない気もする」

坂本は少し考えてから続けた。

「桐島さん、武道はやったことありますか」


その週末、桐島は西荻窪にある合気道の道場に行った。

坂本が紹介した道場で、指導者は六十代の女性だった。柔らかい物腰の人で、桐島が来た理由を聞いて、少しだけ考えてから「やってみましょう」と言った。

最初の稽古は、ただ立つことから始まった。

「重心の位置を感じてください。骨盤の少し下、丹田のあたりを意識して。頭から吊るされているイメージで背骨を伸ばして」


指示に従いながら、桐島はこの体の重心がどこにあるかを、改めて探った。女性の体は重心が男性より低い。それは理屈としては知っていたが、実際に意識すると、以前の体とは確かに違う感覚があった。低い。安定している。それなのに、なぜ競り合いで負けるのか。

「負けているのは、重心じゃないんです」と指導者が言った。まるで桐島の考えを読んだように。「相手の力を、正面で受け止めようとしているからです」

「受け止めない、ということですか」

「受け流す、と言った方が近い。相手が力を出すとき、その力には必ず方向があります。その方向の外側に、自分を置く」

それが、合気道の基本的な考え方だと教わった。

力と力で正面からぶつかるのではなく、相手の力のベクトルを読み、その外側に半歩動く。力を無効化するのではなく、力の向かう先に自分がいないようにする。

「でも実際の試合では、動く時間が——」

「時間じゃないんです」と指導者は遮った。「タイミングです。相手が力を出す一瞬前に、もう動き始めている。それが間の外し方です」


稽古を重ねた。週に二回、夜に道場へ向かった。

最初の一ヶ月は、感覚がつかめなかった。頭でわかっていても、体が反応する前に相手の力が来た。指導者は焦らなかった。「体が覚えるまで時間がかかります。でも覚えたら消えません」と言った。


二ヶ月目に入ったある日、稽古の相手として来た若い男性の道場生と組んだとき、何かが変わった。

相手が押してきた。

桐島の体が、考えるより先に半歩動いた。

相手の力が、空を切った。

「それです」と指導者が言った。

桐島は動いた感覚をしばらく確かめた。意識したわけではなかった。体がそう動いた。相手が力を出す前の微かな予兆、重心の移動、呼吸の変化、そういうものを、皮膚が先に読んでいた。

「サッカーで使えますか」と桐島は聞いた。

指導者は少し笑った。「それはあなたが考えることです。私が教えられるのは、体の使い方だけです」


同じ頃、別の変化も起きていた。

FC東都のフィジカルコーチ、永田から声をかけられたのは、十月の練習後だった。

「桐島さん、ボールを持っていないときの動きを、一度じっくり話し合いませんか」

永田は戦術分析が専門で、チームの中では珍しく、データと映像を組み合わせた細かい分析を個人ベースで行っていた。

翌日、練習後に映像を見た。映し出されたのは、桐島がボールを持っていない時間の動きだった。

「ここを見てください」永田がスクリーンを指した。「ボールが逆サイドに展開されたとき、桐島さんはまず立ち止まりますよね。状況を確認してから動く」

「そうですね」

「この〇・五秒が惜しい。この時間に、もう動き始めていると、受けられる場所が全然違う」

「でも確認しないと……」

「確認を、動きながらやれるようにする、ということです」永田は言った。「桐島さんはボールを持ったときの判断は早い。でもボールのないときの体の準備が、まだワンテンポ遅れている。男性のトップスピードには勝てない以上、動き出しで勝つしかない。」

それから、練習の中にオフザボールの動きを意識した課題が加わった。


ボールが出た瞬間に、次の位置に向かって動き出す。その動きが、相手のマークを引きずって別のスペースを作る。または、相手のマークのギャップを使って、自分が受けに行く。どちらにするかの判断は、ボールが出る前の相手の重心を見て決める。


最初は意識しすぎて体が追いつかなかった。しかし合気道で養っていた「相手の予兆を読む」感覚が、思わぬ形でつながった。ボールを持つ味方が、次にどこに出すかの予兆を読む。相手のマーカーが、どちらに体重を乗せているかを読む。その二つが組み合わさると、自分が動き出すタイミングが自然に決まった。

「面白い動きになってきた」と永田が言った。「こういう選手、代表でも欲しがるはずです」

桐島はその言葉を、軽く受け流した。代表の話は、今は考えない。今は、この体が覚えていくことに集中する。そう決めていた。


十一月のリーグ戦終盤、桐島の変化はスタッツに出始めた。

デュエルの勝率が戻った。正確には、デュエルそのものの回数が減り、代わりにボールに触れる回数が増えた。競り合いを制したのではなく、競り合いの前に自分を有利な位置に置くことで、競り合い自体を減らした。

また、アシスト数が増えた。自分でゴールを狙うより、オフザボールの動きでスペースを作り、走り込む味方へのパスを通す場面が増えた。ゴールよりは地味な数字だったが、監督の伊藤は試合後のミーティングで、それを何度か取り上げた。

「桐島のオフザボールで、うちの攻撃がほぐれ始めた。これを意識して使えれば、もっとやれる」

チームメートの目が変わったと感じたのは、ある練習でのことだった。

二十三歳のフォワード、大野が走り込んで桐島のパスを受け、ゴールを決めた後で「すごいっす、あのパス」と言いに来た。子供のような顔で言った。

「動いてくれたから出せました」と桐島は返した。

大野はしばらく考えてから「桐島さん、何者なんですか」と言った。冗談のように聞こえたが、本気の問いだった。

「わかりません」と桐島は答えた。「自分でも」

大野は笑った。その笑いに、警戒はなかった。

十二月の初め、FC東都のフロントから桐島に連絡が来た。

「日本サッカー協会から、連絡がありました」

担当者の声は、少し上ずっていた。

「ワールドカップアジア予選の、代表招集リストに名前が入っています」

桐島はその言葉を一度だけ聞いて、特に返事をしなかった。

「桐島さん?」

「聞こえています」

「どうされますか」

「少し、考えます」

電話を切ってから、桐島はしばらくスマートフォンを持ったまま立っていた。

夜、桐島はひとりで近所を歩いた。


ワールドカップ。

その言葉の大きさが、徐々に実感になって降りてきた。アジアカップとは違う。規模が違う。相手の水準が違う。世界の強豪クラブでプレーしている選手たちが、代表に集まってくる。彼らのスピード、パワー、そしてサッカーへの理解の深さ。

かつて四十七年間のアマチュアの自分が、そのピッチに立てるのか。

体は葵のものだ。身体能力は本物だ。合気道で得た間の外し方も、永田に叩き込まれたオフザボールも、今は確かに機能している。それはわかっている。

しかし、わかっていることと、信じられることの間には、いつも距離があった。

桐島は公園のベンチに座った。

街灯に照らされた砂地を見ながら、自分の来た道を辿った。

膝をテーピングで固めながら、夜の公園でボールを蹴っていた頃があった。誰も見ていない練習場で、コーンを並べて、何度も同じ動きを繰り返した日があった。代表候補の練習に呼ばれたとき、周りの選手たちが自分の体を、珍しいものを見るような目で見た。それでもピッチの上では、その目が関係なくなった。


体の年齢は二十歳で、経験の年齢は四十七歳だ。どちらが自分の本体か、今もよくわからない。ただ、その組み合わせで今の自分があることは確かだった。それは他の誰も持っていない何かで、だからこそ今まで通じてきた部分がある。

桐島は少し空を見た。冬の星が、鮮明だった。

世界を相手に通じるかどうか、今の段階では誰にもわからない。桐島にもわからない。だからこそ行く意味がある、と思う気持ちが、じわりと浮かんできた。確かめるために行く、ということの意味。

翌朝、黒川に電話した。

「招集、受けます」

黒川は「わかりました」と言った。それだけだった。余計な言葉を加えない男だった。


招集の連絡後、代表監督の浜田から直接電話があった。

「桐島、来てくれるか」

「行きます」

「ワールドカップ予選は、アジアカップとはレベルが違う。それはわかってるな」

「わかっています」

「わかった上で言うが、お前には期待している。ただし、使い方を変える。先発を考えている」

桐島は少し間を置いた。

「先発ですか」

「アジアカップで後半から入れて結果が出た。それは確かだ。しかし先発で使えるなら、もっと長く試合を変えていける。リスクはある。お前も感じているだろう、フィジカルの壁は」

「感じています」

「それでも、お前のオフザボールと、あの間の外し方は、フィジカルを超えるものになり得る。俺はそう思っている。あとはお前が、九十分かけて証明するだけだ」

電話を切ったあと、桐島はしばらく何もしなかった。

九十分。

長い時間だ、と思った。フィジカルの消耗も、判断の劣化も、後半になるにつれて深くなる。それでも九十分、ピッチに立ち続ける。それが先発ということの意味だった。

桐島は立ち上がり、スパイクを手に取った。

明日も走る。

それしか、今はできることがなかった。

*  *  *

代表発表の記者会見がある日、桐島の名前はニュースの上位に並んだ。

見出しは様々だった。「桐島、W杯予選へ」というシンプルなものから、「移植手術から代表へ、異端の軌跡」、「四十七歳の代表選手」、一部の週刊誌は「性別を超えた選手の、次の挑戦」とつけた。

コメント欄は長く、賑やかで、様々な意見が混在した。

桐島はそれをスマートフォンで一通り見て、画面を閉じた。

何を言われようと、ピッチの上のことは変わらない。

相手が来れば、間を外す。スペースがあれば、動き出す。ボールが来れば、触る。

それだけだった。

それだけのことを、四十七年かけて学んだ。

世界が相手なら、もう一度、同じことをやるだけだった。


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