予選
代表の合宿は、千葉の施設で始まった。
集合したのは二十三人だった。Jリーグの各クラブから選ばれた選手たちが、それぞれの荷物を持って食堂に集まり、顔見知りと話し、知らない顔を確認した。桐島はその場を少し離れたところから見ていた。
知っている顔は、何人かいた。アジアカップで一緒だった選手たち。ただしワールドカップ予選の招集は、アジアカップより規模が大きく、新しい顔も多かった。欧州クラブに所属している選手が5人いた。彼らはどこか、Jリーグ組とは空気が違った。悪い意味ではなく、立っている場所が違う、という感じだった。
監督の浜田が全員を集めた。
「今回の予選は、グループリーグ三試合。負けは許されない。それだけを頭に入れて、この一週間を過ごしてくれ」
短い言葉だった。浜田はいつもそうだった。
解散後、桐島はひとりで夕食を取ろうとしたが、隣にトレーを置いた選手がいた。
「桐島さんですよね」
二十歳の、MFだった。名前は宮内。今年初めて代表に入った選手で、顔に緊張が出ていた。
「緊張してますか」と桐島は言った。
「めちゃくちゃしてます」宮内は笑った。「桐島さんはしてないんですか」
「してます」
「そう見えないですよ」
「慣れると、見えなくなるんです」
宮内は少し考えてから「それ、どうやって慣れるんですか」と聞いた。本気の問いだった。
「慣れようとしないことです」と桐島は答えた。「慣れようとすると、体が硬くなる。緊張を、そのままにしておく方がいい」
宮内はしばらく黙って、それから「なるほど」と言った。納得したのか、していないのかわからない顔だった。
合宿二日目の練習で、桐島はある変化に気づいた。
相手選手の動きの予兆が、以前より鮮明に読めた。
合気道を始めてから半年が経ち、オフザボールの練習も積んでいた。その蓄積が、この高い水準の練習の中で、より鮮明に機能した。一対一の局面で、相手が仕掛けてくる前の微かな重心の移動、呼吸の変化、視線の向き。それらが、束になって体に届いた。
情報が多い、と感じた。
以前の体で感じていた以上の量の情報が、皮膚を通じて入ってくる感覚があった。それが葵の体の特性なのか、それとも体そのものが変化した結果なのかは、桐島にはわからなかった。ただ確かなのは、この体は感じる量が多い、ということだった。
その感覚の鋭敏さを、どう使うか。
ボールを持つ味方の次の選択を、一手先に読む。相手のプレッシャーのタイミングを、動きより前に察知する。その余裕が、判断のコンマ何秒かを前倒しした。コンマ何秒かは、このレベルでは試合を変える差になった。
練習後、欧州組のひとりが桐島の横に並んで歩いた。名前は川田。ドイツのクラブでプレーしている二十六歳のMFで、代表のエースと目されていた。
「桐島さん、今日のあのポジショニング、どうやって決めてるんですか。俺が出す前に、もうそこにいる」
「川田さんが出す前に、出すと決めているのがわかります」
川田は少し目を細めた。「どこを見てるんですか」
「全部です」と桐島は言った。「特定の場所というより、全体から来る感じ、という方が近い」
川田は「変わってるな」と言ったが、その口調に悪意はなかった。むしろ面白がっているようだった。
問題が起きたのは、合宿三日目の夜だった。
FWの柏木は二十二歳で、今シーズン急速に頭角を現した選手だった。得点感覚が鋭く、思い切りの良いプレーが武器だったが、その思い切りの良さはピッチの外でも出た。
消灯後、柏木が外出した。
翌朝、それがスタッフの耳に入り、浜田監督が全体ミーティングで取り上げた。名指しはしなかったが、全員が誰のことかわかった。柏木は顔を伏せ、周囲は沈黙した。
ミーティングが終わると、空気が重くなった。
合宿という閉じた空間で、誰かが問題を起こし、全体が叱責を受ける。その後の沈滞は、チームの練習の質に直接影響する。桐島は、それを会社員として何度も見てきた。
昼食の時間、柏木は一人で隅のテーブルに座っていた。周りの選手が距離を置いているのか、本人が避けているのか、どちらかわからない孤立だった。
桐島はトレーを持って、柏木の向かいに座った。
柏木が顔を上げた。
「怒ってるんですか」と柏木は先に言った。
「怒ってません」
「じゃあなんで」
「飯を食いに来ました」桐島はそう言って、味噌汁を飲んだ。
柏木はしばらく黙っていたが、やがて「なんで外出したか、聞きますか」と言った。
「聞きません」
「聞かないんですか」
「必要ならあなたが話すでしょう。聞かれて話すより、自分から話す方が、整理がつく」
柏木はまた黙った。箸を動かした。しばらくして、「彼女と喧嘩して」と小さく言った。
桐島は何も言わなかった。
「代表に来てから連絡が取りにくくて、それで向こうが……まあ、俺の方が悪いんですけど」
「そうですか」
「だから怒ってもいいんですよ」柏木が少し顔を上げた。「俺が悪いんだから」
「怒るために座ったんじゃないです」桐島は言った。「孤立させないために座りました」
柏木が黙った。今度の沈黙は、さっきとは質が違った。
「チームに謝った方がいい」と桐島は続けた。「監督にじゃなくて、チームメートに。あなたがいなくなったら困る、と思っているやつに」
「困ると思ってるやつ、いますかね」
「います」
「誰ですか」
「俺もそうです」
柏木が桐島を見た。何かを言いかけて、止まった。目が少し赤くなった。
「食べなさい」と桐島は言った。「冷めます」
柏木は頷いて、箸を持ち直した。
その日の夕方の練習前、柏木が全員の前で短く話した。
「昨日、迷惑かけました。すみませんでした」
それだけだった。立派な言葉ではなかった。しかし短さと直接さが、空気をほぐした。
キャプテンの山岸が「わかった、やろう」と言って練習が始まった。
柏木がその日の練習で二点取った。消えていた吹っ切れた動きが、戻っていた。
夜、宮内が桐島のところに来て「桐島さん、昼に柏木に話しかけてましたよね」と言った。
「飯を食っていました」
「それだけですか」
「それだけです」
宮内はしばらく考えてから「桐島さんって、なんか、そういうの上手いですよね」と言った。
「会社員でしたから」
「会社員ですか」宮内は意外そうな顔をした。「それって、サッカーより長いんですか」
桐島は豊かな胸を張って言った。「はるかに長いです」
宮内はそれを聞いて、少し笑った。笑いの中に、何かが緩んだ気配があった。
浜田監督はいい監督だったが、距離のある人間だった。
練習中の指示は明確で、戦術の説明は論理的だった。しかし選手との個人的な会話を好まず、ミーティングの外では自分から話しかけることをしなかった。選手たちはその距離を、尊重しているのか、持て余しているのか、どちらともつかない態度で受け取っていた。
欧州組の川田が、練習後に桐島に言った。
「浜田さんって、戦術はわかるんですけど、何を考えてるかわからないときがある」
「どういうときですか」
「たとえばポジションチェンジとか、急に言われても意図がわからなくて。聞きに行くと、説明はしてくれるんですけど、なんか……なんで最初から言わないんだろう、って思うことがある」
桐島は少し考えた。
「監督に直接聞きましたか」
「聞きにくいんですよね、あの人には」
「川田さんが聞きにくいなら、私が橋渡ししましょうか」
川田が少し目を丸くした。「桐島さんが?」
「選手として話せる範囲で」
その夜、桐島は浜田のもとを訪ねた。ノックして、ドアを開けると、浜田は戦術ボードの前に座っていた。
「何だ」
「少し聞いてもいいですか」桐島は言った。「監督としてではなく、チームの状況として」
浜田は椅子を動かして向き直った。
桐島は川田の言葉を、川田の名前を出さずに伝えた。戦術の意図が見えないと感じている選手がいること。聞きに行くのをためらっている空気があること。
浜田は黙って聞いた。
しばらくして「俺は、聞きに来る選手には全部説明するつもりでいた」と言った。
「聞きに来ない選手には、届いていないかもしれません」
浜田は少し間を置いた。「プロである以上、それは仕方ないし、理解しようとしない選手に理解させることは難しい」
「知っています」と桐島は言った。「でも選手は監督の言葉を欲しがっています。試合前でなくていい。練習後に二言三言で十分です」
浜田はその言葉を受け取った。受け取った、ということが、表情の微かな変化でわかった。
「わかった」と浜田は言った。「ありがとう」
翌日から、浜田は練習後に何人かの選手に短く声をかけるようになった。内容は他愛ないことで十分だった。それだけで、選手たちの背筋が少し変わった。
予選初戦の前夜、桐島は早めに床についたが、しばらく眠れなかった。
眠れない理由は、緊張というより、感覚の過剰さだった。
体が起きていた。シーツの繊維の感触が細かく届いた。廊下を歩く誰かの足音が、遠くから聞こえた。冷房の低い音が、耳に入り続けた。この体は、静かな場所ほど感じる量が増えた。それは試合中には武器になったが、眠ろうとする夜には重かった。
桐島は目を閉じたまま、感覚を整理しようとした。
合気道の指導者が言っていた言葉を思い出した。「感じることを止めようとしないでください。感じながら、その中心に座っていればいい」
息を吸った。吐いた。
感覚はそのままにして、その中に座った。シーツの感触も、廊下の音も、冷房の音も、そのままにした。抵抗しなかった。
いつの間にか、眠っていた。
試合当日、スタジアムは六万人が入った。
桐島は先発に名前があった。
ウォームアップでピッチに出ると、スタンドから声が上がった。桐島の名前が混じっていた。以前なら少し体が硬くなった場面で、今は違った。声が体に入ってきた。感じながら、その中心に座った。
キックオフ。
相手は格上ではなかったが、組織的な守備を敷くチームだった。中盤を圧縮し、縦パスを消し、サイドに追い込む。日本がいつも苦労するタイプの相手だった。
二十分、膠着した。
桐島は焦らなかった。圧縮された中盤の中で、相手のブロックの呼吸を読み続けた。どこかに、必ずズレが生まれる。プレスのタイミングが、完璧に揃い続けることはない。人間の集団には、どこかに間が生まれる。
二十七分、ボールが右サイドに展開された瞬間、桐島は動いた。
相手の左ボランチが右に引き寄せられ、中央に空間が生まれた。その空間が埋まる前に、桐島はすでにそこにいた。パスを受け、ワンタッチで前を向き、斜め前方に走り込む川田へ送り、川田はそれをワンタッチで角度を変えて抜け出した。ゴールキーパーが対応できず、中途半端に前に出るか留まるか迷っていることが感じられるが、そこを川田は容赦なく右足のコントロールショットで貫いた。
ゴール。
一対〇。
スタジアムが揺れた。川田が桐島のところに走ってきた。「言った通りだ」と川田は言った。「出す前にいた」
「出すと決めていたのが、わかったので」
後半、追加点を取り二対〇で終わった。
試合後のロッカールームは明るかった。柏木が大声で何か言い、宮内が笑い、山岸キャプテンが短く総括した。浜田が入ってきて、いつもより長く話した。選手たちの顔が、それを受け取った。
桐島は隅でスポーツブラに包まれた胸を隠してユニフォームを脱ぎながら、その騒ぎをひとつひとつ俯瞰して聞いていた。
チームが、ひとつになっていく音がした。
チームというのは、試合で勝つだけではならない。食堂での会話も、ロッカールームの笑い声も、監督の二言三言も、その全部が積み重なって初めて、ひとつになる。
それを、四十七年のどこかで学んでいた。
* * *
三試合が終わり、グループリーグを一位で突破した。
桐島は三試合すべてに先発出場し、二アシスト、一ゴールを記録した。数字よりも、サッカーの解説者が取り上げたのは、試合中に何度も見せた、説明しにくい桐島の動きだった。
ある解説者が「桐島は試合を読んでいるのではなく、試合を感じている」と言った。褒め言葉として言われたのか、困惑の表現として言われたのか、文脈は曖昧だった。しかし桐島には、その言葉が最も近かった。
予選突破が決まった夜、宮内が廊下で声をかけてきた。
「桐島さん、ワールドカップ本大会、行けそうですね」
「まだ予選の途中です」
「でも、行けそうじゃないですか」
桐島は少し考えた。
「そうかもしれません」
宮内が笑った。「桐島さんがそう言うなら、行けますよ」
根拠のない確信だった。しかし根拠のない確信というのは、ときにそれが必要な人間に届く。宮内のその言葉は、桐島の中の何かに、静かに触れた。
部屋に戻り、電気を消して横になった。
この体が感じる全部を、そのまま受け取った。
眠りは、すぐに来た。




