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途切れた道のその先は  作者: 月の輝く夜に
12/34

静止


所属チームのフィジカルコーチ、永田に呼ばれたのは、予選第三戦から十日後だった。


場所はFC東都のトレーニング施設の、小さなミーティングルームだった。テーブルを挟んで向かい合うと、永田の前にデータのプリントアウトが並んでいた。数字と、グラフと、いくつかの赤い線。


「見てもらいたいものがあります」と永田は言った。声が、いつもより丁寧だった。その丁寧さの中に、言いにくいことがある、という予感があった。

グラフは、この六ヶ月の桐島のコンディションデータだった。練習強度、心拍数の回復曲線、筋疲労の蓄積値、ホルモン周期に伴う体調変動。それらが重なって表示されていた。

「率直に言います」永田は続けた。「限界に近付いています」

「どの程度ですか」

「このままのペースで続けると、1月以内に何らかの故障が出る確率が高い、というのが医師の見解です。疲労骨折か、筋断裂か、あるいは慢性的なホルモンバランスの崩壊か。どれが先に来るかはわからない、ただ何かが来る」


桐島はグラフを見た。若返った精神はまだやれると叫ぶが、数字は嘘をつかないことを誰よりも知っているのが会社員だ。

「どれくらい休めばいいですか」

「最低四週間」永田は言った。「できれば六週間。完全オフではなく、軽いメニューに落として、体を立て直す」

「六週間」

「ワールドカップ予選の次の二試合には、間に合わない可能性があります」

桐島はその言葉を聞いて、何も言わなかった。言わなかったが、胸の中で何かが沈んだ。水の中に石を落としたときのような、静かで重い沈み方だった。


「桐島さんの体は、男性アスリートの回復モデルで管理できない部分があります」永田は続けた。「ホルモン周期の影響が、データに明確に出ている。これまで私の管理が甘かった。申し訳なかったと思っています」

「永田さんのせいではないです」

「いや、見えていなかった」永田は首を振った。「走れている間は問題ないと思いがちですが、女性の体は疲労の出方が男性と違う。表面に出てきたときには、すでに深いところが削れている」


桐島はもう一度グラフを見た。

深いところが削れている。その言葉が、具体的な感覚として体に届いた。確かに最近、練習後の回復が以前より遅かった。夜中に目が覚めることが増えていた。それを疲れだと思っていたが、もっと根の深いところで何かが起きていたのかもしれない。

「わかりました」と桐島は言った。

「休みます」

しかし、わかりましたと言ってから、実際に体を止めるまでの間に、焦りが来た。


焦りは最初、形がなかった。ただ落ち着かない、という感覚として体の中をうろついた。練習を軽いメニューに落とした最初の週、桐島は自分が何かを取り上げられているような、奇妙な喪失感を感じた。

走れる。

体は動く気がする。

なのに走らない、という選択を、自分でしている。その矛盾が、焦りを輪郭のあるものにしていった。

ワールドカップ予選の次の試合まで、五週間だった。

その間にチームは国内合宿を行い、調整試合をこなしていた。桐島に招集はかからなかった。浜田からは「今は体を作ることだけを考えてくれ」という短いメッセージが来た。それだけだった。


代わりに、チームの試合映像を見ていた。

予選第四戦、日本は引き分けた。

前半は押していたが、後半に入って中盤のプレスが間延びした。縦パスをカットされ、カウンターを受け、失点した。追いついたが勝ちきれなかった。映像の中で、桐島がいれば埋められたかもしれないギャップが、何度か見えた。見える分だけ、重かった。

自分がいないことで、チームが勝てない。

その考えが頭に浮かんだ瞬間、桐島はそれを打ち消した。傲慢だ、と思った。チームは自分一人で動いているのではない。しかし打ち消しても、また浮かんだ。それを繰り返した。


休養に入って三週目、桐島は近所の銭湯に行った。

代表合宿でもJの遠征でも、温泉や大浴場を使う機会はあった。しかしそれらは常に、チームの流れの中にあった。誰かと一緒で、時間が決まっていて、感じる余裕がなかった。

夜遅い時間を選んで行った。客は少なかった。

洗い場で体を洗いながら、桐島はゆっくりと自分の体を見た。

手術から二年近くが経っていた。

体は、もう「借りもの」という感覚ではなくなっていた。正確には、借りものであることは変わらないが、その事実と体の感覚が、少しずつ分離していた。体は体として、そこにある。葵のものだという記憶は消えないが、今ここで動いているのは、この体で生きてきた時間の堆積でもあった。

しかしそれと同時に、今日ここで改めて感じることがあった。


傷んでいる、と思った。

傷、という意味ではなく、使われている、という意味で。骨と筋肉と関節が、限界まで使われてきた痕跡が、体のあちこちに残っていた。疲労として目に見えるものではなく、触れるとわかる硬さや、動かすと感じる微かな抵抗感として。

湯船に入った。

お湯が首まで来た。熱さが体の深いところまで届いた。

桐島はしばらく目を閉じた。

葵のことを考えた。二十歳だった彼女が、このまま生きていれば、この体はどう使われていたか。バレーボールを続け、体育教師になり、二十二歳二十三歳と歳を取って、別の疲れ方をしていた。そのはずだった。

今の疲れ方は、葵が選んだものではない。

その事実を、桐島は改めて受け取った。受け取って、どこに置けばいいかわからないまま、ただ湯の中で持っていた。

ごめんなさい、という言葉が来た。

誰に向けて言う言葉なのか、よくわからなかった。葵に向けてなのか、葵の家族に向けてなのか、それともこの体そのものに向けてなのか。言葉にしてしまうと形が崩れるような気がして、声には出さなかった。ただ、湯の中で、その感覚をそのままにしていた。

時間がどれくらい経ったか、わからなかった。

気がつくと体が軽くなっていた。軽くなった、というより、少しだけ解けた、という方が近かった。固く閉じていたものが、ほんの少し口を開いた感じ。

湯船から出た。

体を拭きながら、今日はここまでだ、と思った。これ以上、今夜は考えなくていい。


休養四週目に、永田と話し合いをした。

「桐島さん、一つ聞いていいですか。これまで、生理周期についてトレーニングに反映させてきませんでしたが、ちゃんと向き合った方がいいと思っています」

桐島は少し間を置いた。


この体を手に入れてから、月経については医師から説明を受け、ホルモン剤を処方されていた。対処はしていた。しかしそれをスポーツのパフォーマンスと結びつけて考えたことは、ほとんどなかった。体のメカニズムとして受け取るのが精一杯で、自分のこととして深く入っていくのを、どこかで避けていた。

「聞かせてください」と桐島は言った。

永田は丁寧に説明した。女性アスリートの体は、ホルモンの周期によってパフォーマンスの特性が変わること。筋力や持久力が上がる時期、怪我をしやすくなる時期、回復が速い時期。それらを把握した上でトレーニング強度を設計することが、長期的なキャリアには不可欠だということ。


「これまで、なぜ教えていただけなかったのですか」と桐島は聞いた。責めるつもりではなく、純粋に知りたかった。

「言いにくかったんです」永田は正直に言った。「桐島さんの状況が特殊で、どこまで踏み込んでいいかわからなかった。今も、踏み込みすぎているかもしれない」

「踏み込みすぎていないです」と桐島は言った。「むしろ、もっと早く話してほしかった」

その言葉は、自分でも意外だった。自分の体のことを、こんなに真っ直ぐ受け取れるとは思っていなかった。

「来月から、周期に合わせたメニューに変えます」と永田は言った。「競技を長く続けるためです」

「お願いします」

桐島は少し考えてから付け加えた。「この体のことを、もっとわかりたいと思います」

永田は静かに頷いた。


予選第五戦の夜、桐島はテレビの前にいた。

日本は勝てなかった。

〇対〇のスコアレスドロー。決定機は作ったが、最後の一手が足りなかった。解説者が「決定力不足」と言った。桐島はその言葉を聞きながら、映像の中のギャップを見ていた。今度は中盤の底、相手のブロックが薄くなる一瞬。そこに入れば展開が変わる場面が、試合を通じて三度あった。

リモコンを置いた。


焦りが戻ってきた。今度は輪郭がより鮮明だった。予選は残り二試合。グループの状況は、勝点差が詰まっていた。自動突破には、次の試合を勝ちきることが条件に近かった。

桐島はしばらくその焦りの中に座った。

どうにもならない、と思った。今の自分には、映像の中のギャップを埋めに行く手段がない。体を動かすことを、自分で止めた。それは正しい判断だった。しかし正しい判断が、正しい気持ちをもたらすとは限らない。


黒川にメッセージを送った。「調子はどうですか」という、他愛のない一文だった。

黒川からすぐ返信が来た。「体を作ることだけ考えてください。チームはチームで戦います」

それだけだった。余計な言葉は一切なかった。

桐島はスマートフォンを置いた。

体を作ることだけ考える。

それが今の仕事だ、と言い聞かせた。言い聞かせながら、それが十分ではない、という感覚も同時にあった。二つが並んで、どちらも消えなかった。


六週目に入ると、体が変わり始めた。

変わった、というのは、何かが戻ってきた、という感じだった。練習後の回復が速くなった。夜中に目が覚めることが減った。朝、起きたときに体が軽かった。数字だけではなく、体の内側から来る感覚として、立て直しが進んでいるのがわかった。

永田が「数値が戻ってきました」と言った。「次の招集には間に合います」

その言葉を聞いたとき、桐島が感じたのは安堵より先に、静かな驚きだった。

体が、答えた。

六週間、走ることを止めた。その間に焦りがあり、葛藤があり、湯船の中で誰にも向けられない謝罪があった。しかし体は、その時間の中で、静かに修復していた。

走れなかった時間が、走れる体を作っていた。

桐島は練習グラウンドに出た。軽いジョグから始めた。芝の感触が足裏に返ってきた。

体が覚えていた。

当たり前のことが、今日は当たり前でなかった。足が前に出る。腕が振れる。呼吸が整う。それだけのことが、六週間ぶりだった。

一周走った。

二周走った。

どこかで鳥が鳴いていた。空が高かった。

焦りは、消えていなかった。

しかしその隣に、別の何かが戻ってきていた。

体が動く、という単純な喜びだった。

それで十分だ、と思った。今日は、それで十分だった。

*  *  *

浜田から招集の連絡が来たのは、その翌週だった。

「来られるか」

「行けます」

「体は」

「立て直しました」

浜田が少し間を置いた。「いろいろ考えたか」

「いろいろ考えました」

「それでいい」浜田は言った。「考えた選手は、強くなる」

電話を切った。


桐島はスパイクを手に取った。六週間ぶりに、グラウンドバッグの中に入れた。

革の感触が、手に馴染んだ。

自分は2年近くこの身体と付き合って、色々わかっていたつもりだったが、実は本当には理解していなかったことがよく分かった、そんな6週間だった。

この体を、今度はもっとわかった上で、連れていく。


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