創造
浜田が、起き上がった桐島を呼んで指示をした。
「ディフェンスはしなくていい。任せろ」
ピッチを見ると、宮内が桐島を見ていた。欧州組のDFが頷いた。若い選手が「行ってください」と言った。
満身創痍のチームのみんなが、怪物にもう一度挑むと言っていた。
壊されたチームは、倒れていなかった。その上に、もう一度何かを積もうとしていた。
いつの間にか、さっきまであった自分への頼りなさはなくなっていた。
桐島は頷いた。いつものポジションより少し高めに立ち、日本のディフェンス陣からのボールを待った。
川田が一列下がり、いつもの桐島のポジションに立った。
そこからの日本は、別のチームだった。
怪物に吹き飛ばされながらも、DFたちは体を張り続けた。宮内が中盤で走り続けた。川田がプレスをかけ続けた。一本のボールも無駄にしなかった。全員が、桐島にボールを届けるための時間を作っていた。
そして、何分かのその我慢の後、ディフェンスがとうとうボールを奪い切って桐島にボールが届いた。まだボールはハーフウェーラインを超えていない。
早くもフランスのプレスが来た。桐島は体を低くして受けた。重心を落とし、かかとでボールの方向を変えた。プレスの手が空を切った。フランスのディフェンダーを背負ったセンターフォワードに縦パスを通した。日本が前に進んだ。
つながった。また桐島にボールが来た。また前に運んだ。
少しずつ、少しずつ、嵐に立ち向かう船のように日本のラインが上がってきた。
そして六十三分、日本のボール。桐島はセンターフォワードの味方選手をスクリーンにして、DFラインの背後に走った。
欧州組のDFから、山なりのボールがゴールとディフェンスラインの間に放り込まれた。
抜け出すタイミングは完ぺきだったが、身体能力の高いフランスのディフェンダーを超すために、かなりそのボールの着地点は遠く、そのままではGKが普通に拾いそうだった。GKは前に出てきた。
桐島はボールを振り返らず、踏み込み、飛んだ。そして右脚を最大限まで伸ばした。
線と線が点でつながった。繋がれたのはボールではなく、意志だったかもしれない。
ボールは弧を描き、ゴールの中央へ虹を描くように伸びていった。GKは前に出ていた。体を目一杯そらして空に伸ばした手は届かなかった。
ネットが揺れた。
二対一。
川田がボールをゴールから取り出した。走ってセンターサークルに置いた。
怪物に破壊されたものが、一つのゴールで形を取り戻し始めた。最初の一石が、廃墟の上に置かれた。
日本代表が息を吹き返した。
* * *
フランスが再び攻勢をかけてきた。しかし今度は日本も果敢にプレスをかいくぐり、桐島を中心に前にボールを運んだ。フランスのゴール前まで来た。
後半44分。
日本がフランスのファイナルサードまで侵入し、桐島にボールが渡った。
...そのとき、怪物が桐島の前に来た。
ディフェンスをしない選手が、桐島に食らいついていた。
フランスの他の選手たちも驚いていた。ベンチも驚いていた。しかし怪物は動いていた。本能が動かしていた。あの小さな選手を止めなければ、危険だ。そう体が言っていた。
桐島は怪物と向き合った。
体格差は圧倒的だった。しかし桐島は下がらなかった。股関節を最大限に使い、重心を小刻みに変えた。左に出ようとした。怪物が反応し、左に突っ込んできた。右に切り返した。怪物は、その恐るべきスピードでついてきた。傍からみると、まるでそれは怪物とダンスを踊っているようだった。桐島は、それでも少しずつ前に進んだ。
...しかし、疲労した桐島の脚は、完全には言うことを聞いてくれなかった。左足のつま先が芝生に引っかかった。その時、怪物が振り回した腕が、桐島の頭部に当たった。
桐島の体がまた宙を舞った。怪物は、「しまった」という顔をしていた。
笛が鳴り、審判がPKを指示した。
「大丈夫ですか!」とチームメイトが駆け寄ってきた。今度は桐島も大丈夫だった。首がちぎれて飛んで行ってしまわないかと思ったが、柔軟な体がかなりの力を受け流してくれた。葵の体の並外れた柔軟性に感謝だ。
事前に取り決められたキッカーは川田だった。
しかし、川田は桐島にボールを手渡した。
「桐島さんが蹴ってください」
選手たちが桐島を見た。全員が頷いた。
桐島はボールをペナルティマークに置いた。
スタジアムが静かになった。九万五千人が、一人の選手を見ていた。細い体がスポットライトの中に立っていた。ユニフォームは土と汗で汚れていた。それでも、背筋をピンと伸ばして、空と地面をつなぐように立っていた。GKが構えた。怪物も、動かずにその場面を見ていた。
フランスのGKは、頭ではわかっていた。みんなが知っているとおり、目の前のPKキッカーは、身体的には女性だ。キック力では自分を突き破ることはできないし、反応してからでも間に合うはずだ。...だが、目の前のキッカーは、槍を自分に突き立てようとしている騎士のように威厳に満ちていて、言葉を選ばずにいえば、恐ろしかった。
キッカーは少し速めの助走をとって、ボールに向かう。GKは、思わず、蹴る前に足の向きの方向に身動きしてしまった。
キッカーは恐るべき柔軟性で助走をぴたりと止め、最後の一歩をゆっくりと進んだ。桐島はGKの動きを見ながら、最後の一歩でシュートの方向を決めた。GKが飛んだ方向とは逆の方向に、ゴロのボールがゆっくりと進み、ゴールラインを越えた。
二対二。
スタジアムが揺れた。
崩された均衡が、戻ってきた。しかしそれは元の形への回帰ではなかった。破壊の後に立ち上がったものは、破壊される前より強固だった。
* * *
延長戦になった。
桐島が疲労しているのは明らかだった。浜田が桐島に代えるかどうか意見を聞いた。桐島は浜田を見て、首を振った。
「まだ出ます」
浜田は一瞬考えた。そして決断した。
「フォワードに入れ。前半は体を休めることだけ考えろ」
桐島は周りを見た。川田も宮内も、みんな頷いていた。
延長前半は、一進一退の攻防だった。
フランスが、怪物を先頭に日本を蹴散らしに来た。
しかし、日本は耐えた。怪物が強引にシュートを撃ってきたが、それさえも体に当て、当たったボールがポストに当たったときはヒヤリとしたが、耐えきった。
桐島は、戻ってディフェンスに加わりたかったが、宮内達から目で制された。
延長前半が終わった。
まだ二対二だった。
長い長い15分が終わり、延長後半が始まった。
回復した桐島が戻り、今度は桐島を先頭に日本がボールを保持するようになった。
一進一退の攻防で時計が進んだ。
延長後半十四分。
桐島が右サイドにボールを預け、ディフェンスラインの前まで進んだ。
アーリー気味にサイドからクロスがゴール前に入ってきた。川田が良く蹴るボールだったが、ディフェンスを越えるために高めの軌道だった。
DFが寄ってきた。怪物も来ていた。逡巡する暇はなかった。
桐島はジャンプした。体を横倒しにして、空中に浮いた。ボールとの距離を測った。足が体より上に上がった。
空中に浮かぶ細い体。一瞬、ユニフォームがはためいた。その一瞬が、時間を止めたように見えた。全てのフィールドにいた全ての人間が、空をとぶ桐島を仰ぎ見た。
その華奢な体は、太陽を背に受け、まるで天使の羽が生えたようだった。
聖女、という言葉が、フランスの選手の頭をよぎった。フランスが知る聖女は、礼拝堂で祈る乙女ではなく、鎧をまとい、旗を振って軍勢の先頭にいる聖女だ。
ボールが弧を描いた。GKが手を伸ばした。
ネットが揺れた。
三対二。
破壊は、創造のための準備だった。怪物が壊したものの上に、日本代表は何かを新たに作り上げた。
それが今、結実した。
桐島は着地した。その場に立ったまま、スタンドを見た。
日本のゾーンが揺れていた。日の丸が揺れていた。
* * *
残り時間を、日本は守り切った。
最後の笛が鳴った。
三対二。
日本が、ワールドカップで優勝した。
その事実が、ピッチ上の選手たちに届くまで、少し時間がかかった。笛が鳴ってから、誰も動かなかった。それから、一人が倒れ込んだ。別の一人が膝をついた。また別の一人が、空を見上げた。
桐島は立っていた。体が動かなかったわけではなかった。ただ、立っていた。
なお、この大会で、桐島は七点を取った。オランダ戦。スウェーデン戦。ドイツ戦。アルゼンチン戦。そして今夜のハットトリック。まさかの得点王というおまけがついた。
ただ、今夜の桐島には、その言葉の重さを受け取る余裕がまだなかった。
しばらくして、怪物が来た。その目は優しくどこか愛嬌があって、試合中とは別ものだった。
「どちらが怪物だ、魔女め」と怪物は笑いながら言った。
桐島は怪物を見上げた。一九四センチと一六八センチが、向き合っていた。
「怪物の名前は遠慮するよ」と桐島は言った。
怪物は少し笑った。それから、大きな手を差し出した。桐島はその手を握った。
怪物はその手を振りながら、チームメイトのところへ歩いていった。
* * *
チームがバスに乗り込む前、選手たちがピッチに残っていた。
誰かが「写真を撮ろう」と言った。全員が集まった。スタッフも入った。
シャッターが切られた。
桐島はその中心にいた。
この大会を通じて、一人一人の顔を覚えた。誰が何を感じて、何を成し遂げようとしているのか、それぞれの思いを知った。きっと忘れることはない。
バスが動き出した。窓の外にスタジアムが見えた。だんだん小さくなっていった。
宮内が隣に座った。何も言わなかった。桐島も何も言わなかった。
しばらくして、宮内が「終わりましたね」と言った。
「良い旅でした」
「そうですね」
それだけだった。
バスの中は、歓声も、笑い声もあった。勝利の余韻があった。が、どこかみんな次の道に向けた心の準備をしているようでもあった。
合宿地に戻ると、食堂の電気が全部ついていた。テーブルが寄せられ、料理が並んでいた。スタッフが拍手で出迎えた。
選手たちが食堂に入っていく中で、桐島は少し外に立っていた。
夜空を見た。
この旅を通じて、何度も夜空を見上げた。メキシコの星。テキサスの空。フロリダの夜。そしてニューヨーク。
この旅は、本当の意味で終わりに近づいている。




