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途切れた道のその先は  作者: 月の輝く夜に
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破壊

ニューヨークのスタジアムは、試合前から別の空気だった。


収容九万五千。その空間が、キックオフ前から音で満たされていた。フランスのサポーターが三色旗を揺らし、日本のサポーターが青を固めていた。

フランス側からは「ラ・マルセイエーズ」が響いている。有名な旋律の歌だが、実は歌詞を聞くと「敵をぶっ殺せ」というとんでもない歌だ。だが、こういう場面にはよくマッチする。


その二か国のサポーターだけではない人間が、この試合を見るためだけにここへ来ていた。

ワールドカップの決勝。その言葉が持つ重力が、ピッチの上まで降りてきている。


ロッカールームで浜田が全員を見渡した。

「俺たちは誰も想像しないところまで来た」と浜田は言った。「アジアの片隅の国が、ここまで来れば満足、という奴もいるだろう。だが、俺はどうしても勝ちたい。歴史に残るかどうかは、ここで勝つかどうかだ。美しい敗者であるよりも、滑稽でも勝者でありたい。少しでもそういう気持ちのある人間は、今申し出てくれ」

誰も動かなかった。浜田は、一度全員を見てから、「行ってこい」と言った。


フランス代表には、怪物がいた。


アフリカ系の血を持つFWで、身長一九四センチ、体重九十五キロ。その体格で、百メートルを九秒台で走ると言われていた。フランス代表がその選手をスターティングメンバーに据えるとき、ディフェンスの義務を完全に免除していた。

アルゼンチンの神の子とは違う。神の子は体力を温存しながら守備の仕事をこなしていた。怪物は、本当にしなかった。それを差し引いても、フランスはその選手を使い続けた。理由は単純だった。誰も止められなかったからだ。


桐島はウォームアップ中にその怪物を目で確認していた。動きを見ていた。立っているだけで、周囲の選手より一回り大きかった。しかし大きいだけではなかった。重心の低さ、加速の入り方、ボールの持ち方。それら全てが、普通の選手とは違う次元としか言いようがない。


桐島はベンチに入った。このこれ以上ないぐらいに特別な日も、スタートは同じだった。


*  *  *

前半が始まった。


最初の展開に、日本の選手たちが驚いた。フランスがボールを持たなかった。引いた。ブロックを作り、日本に持たせた。

日本がボールを回した。つながった。前に運べた。いけるかもしれない、という感覚が、徐々にチームの中に生まれた。

ベンチの桐島には、それが危うく見えた。


フランスは待っていた。日本がある一線を越えたとき、フランスが牙を剥く。その形を、桐島はフランスの映像を見ながら理解していた。

問題は、その一線がどこにあるかを、ピッチにいる選手が感じ取れるかどうかだった。


二十四分、それが来た。

日本の中盤でパスが一本ずれた。フランスの選手がカットしようとした。日本の選手がプレスを回避しようとしてもう一本つないだ。その瞬間、フランスが動いた。

中盤が、一気にプレスをかけてきた。日本の最終ラインからのビルドアップに複数人が寄ってきた。中盤でボールを奪われた。

奪ったフランスの選手が、前を向いた。一本のパスが前線に入った。ここまでボールを奪われてから3秒しか経っていない。


怪物がボールを受けた。

桐島の背中に、戦慄が走った。


日本のDFが三人、立ち向かった。フランスの前線には二人しかいなかった。それでも数の上では、日本が有利だった。


怪物が加速した。

欧州組のDFが体をぶつけた。吹き飛ばされた。立っていた選手が、トラックが発泡スチロールの壁にぶつかるように、衝突の瞬間に地面に転がった。

他の二人が左右からカバーに入ろうとした。怪物はその間を斜めに加速して突き抜けた。


右の選手が追った。

次のステップで、怪物は別の速度に入った。人間が出せる速さではなかった。ボールを持つ怪物は、ボールを持たないディフェンス二人を置き去りにしていた。


GKが前に出た。角度を消した。

怪物がシュートを打った。

これまで世界を相手にしてきたGKの手が、ボールと同じ空間にあった。ただ、コンマ1秒、そこにあるのが遅かった。ゴールネットが、まるで何かを受け止めるように揺れた。


怪物が吠えた。

その声は、スタジアムの九万五千人の声を突き破った。ピッチ上の日本の選手たちに、その声が届いた。

一対零。


ベンチで桐島は、ピッチを見ていた。

日本の選手たちの立ち方が変わっていた。体は、前を向いていた。だが、一言で言えば、腰が引けていた。ポジションが少しずつ下がっていた。目は、相手を見ていない。何か大事なものを忘れてきたかのようにさまよっている。


ミシミシという音が、桐島には聞こえる気がした。

チームの土台が削られていく感覚が、ベンチに伝わってきた。戦術という盾が壊された。技術という槍が折れた。ここまで積み上げてきた経験が、あの一撃で揺らがされていた。


怪物を倒さない限り、日本に勝機はない。

桐島はその確信を、初めてはっきりと持った。


*  *  *

後半、桐島が入った。

桐島がピッチに入った瞬間、フランスが動いた。

ギアが上がった。プレスの強度が、前半とは別物になった。桐島が入ったことへの対応ではなかった。これがフランスの本来の強度だった。前半は、日本に持たせながら機会を待っていた。後半、仕留めにきた。


日本が防戦になった。

桐島は本来の位置に入ろうとして、すぐに自陣に引いた。今はそこではなかった。コースを限定した。まるで触手が伸びるようなフランスの攻撃を一本ずつ、切っていった。


そんな時、怪物がやや下がってボールを持った。

その瞬間、桐島は、一直線に味方ゴールに走った。


怪物が加速した。今度は日本のDFラインを縦に切り裂いた。怪物のシュートコースに体を入れて、足を伸ばした。間に合った。怪物がボールを蹴った。

低い弾道のシュートが来た。


体が吹っ飛んだ。足にぶつかったボールは、空中にいた桐島の足にあたり、桐島を一回転させた。

その上で、ボールはコースを変えず、ゴールに突き刺さった。

二対零。


桐島はピッチに倒れていた。頭が揺れていた。審判が来た。メディカルスタッフが走ってきた。チェックが行われた。桐島は目を開けたまま、空を見ていた。一瞬、ここが温かい風が流れる河川敷の草サッカーのグラウンドであり、男性の自分が、そこに寝転んでいるかのような錯覚を覚えた。


メディカルスタッフが駆け寄ってきた。ユニフォームが乱れていた。芝が細い首筋にかかっていた。スタッフが桐島の頭を支えながら確認した。その角度で、スタジアムの大型スクリーンに映った桐島の顔が、世界中に流れた。乱れた髪。土のついた白い頬。それでも、目が開いていた。その目が、空を見ていた。


「桐島さん!」というチームメイトの声で、桐島は覚醒した。

ここがどこであるかをはっきりと理解できた。自分の身に何が起きたのかも思い出せた。


そうだ、ここはワールドカップ決勝戦のスタジアムだ。自分は、葵の脚で、ここに立っている。

プレー続行可能、という判断が出た。


ただ、いつもと違って、自分のこのほっそりと長い脚が、頼りないものに思えた。




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