前夜
決勝の相手は、今大会の大本命。
フランスだった。
ブラジルを準決勝で下した。アフリカ系選手の進退能力と欧州の戦術とが合わさった、化け物だ。特に、FWには「怪物」がいる。
試合会場はニューヨーク。この大会の最後を飾るにふさわしい舞台だった。勝っても負けても、明日でワールドカップは終わる。
最終調整の練習が終わった午後から、チームの空気が変わっていた。決勝に来た高揚だけではない。終わりが近づいていることへの寂寥感が少しずつ入ってきている。
桐島もまた、この特別な旅がもうすぐ終わることに一言では言い尽くせないものを感じていた。
桐島は、キャプテン代理として、いつもより丁寧に選手一人一人と言葉を交わして、それぞれの思いを確かめていた。そうしてやっと部屋に一人になった。
そこで、ワールドカップが終わった後の自分について向き合うべき時間が来た。
* * *
黒川から正式な打診の連絡が来て、数日が経っていた。欧州の複数クラブから、移籍の意向を確認したいという内容だった。
海外でプレーすることのメリットは、自分が一番よくわかっていた。神の子と四十分足らず対峙しただけで、自分のプレーが変わったことを体で感じていた。あの密度の試合を週ごとに積み重ねれば、まだ上がある。Jリーグでは、あの感覚は磨けない。それは正直なところだった。
しかし、移籍の話は、決してサッカーだけの問題ではない。人生そのものに対する大きな決断だ。
自分はこれから、どのように生きていくのか。
桐島は自分だけの人生を生きているわけではなかった。人と一番違うのは、他人から譲り受けた体で生きているということだ。
殊に、この身体はやっぱり女性で、自分?で言うのもなんだが美しい身体だ。その体に、自分のエゴで青あざをいくつも作ってきた。欧州に行けば、その負荷はさらに大きくなる。
それに、移植の拒否反応は今日まで出ていないが、明日も出ないという保証はない。自分に残っている時間はそれほど多くないのかもしれない。その時間を家族との時間にあてなくて後悔しないのか。
更に別の考えでは、葵として、女性として生き直すという選択肢も、頭の端にあった。富山の葵の家族は、この身体が次代に命をつなぐことを望んでいたし、葵自身もそう望んでいたはずだ。本来、葵の身体を受け継ぐということは、彼女が望んでいた未来を、少しでも叶えることではないのか。
性別を変えれば、今の家族を法的には失う。あくまで法的な話でしかないが、その選択は後悔しないか。家族に受け入れられるのか。そもそも自身が女性として生きていくことを、自分自身が受け入れられるのか。それは、場合によっては、自分が男性と結婚することになるが、そういうことまで可能性として考慮に入れないわけにはいかない。
答えが出ない問いが、いくつも重なった。重荷に押しつぶされそうだった。
桐島はスマートフォンを手に取った。恵子に電話しようとして、少し止まった。悩んでいるところは見せたくなかったが、声が聞きたかった。
画面に恵子の顔が映った。
「どうしたの、急に」と恵子は言った。
「明日が決勝なので、顔を見たかっただけ」
「嘘をつくのが下手ね、昔から」
桐島は少し黙った。そのとおり、年上の妻は何でもお見通しだった。遠い昔、出会った頃から。
恵子は画面の向こうで、次の桐島の言葉を静かに待っていた。
「海外移籍の話が来ている」と桐島は言った。「受けるべきかどうか、迷っているんだ」
「それだけ?」
桐島はまた黙った。
「それだけじゃない、という顔をしてる」と恵子は言った。
桐島はいよいよ観念して天井を見た。
それから、全部話した。海外移籍のこと。体のこと。葵の人生のこと。女性として生き直すという選択肢が頭の端にあること。自分が自分だけの人生を生きていないという感覚のこと。
恵子は最後まで聞いた。
「結局」と恵子は言った。「あなたがやりたいことをするしかないでしょう」
「でも——」
「一つだけ聞いて」
恵子の声は穏やかだったが、はっきりしていた。
「私は、あの事故で、あなたがいなくなると思って怖かった。神様に、どんな姿でもよいから帰ってきて、と祈った。そうしたら、本当に違う姿で帰ってきた。でも、帰ってきたことが、本当に嬉しかった。それだけだった」
桐島は何も言えなかった。
「私は、あのとき、あなたと最後まで生きていく、と決めた。どんな形になっても。海外に行っても、どこに行っても、法律がどうだろうと、それは変わらない。だから、迷わないでいい」
しばらく、二人とも何も言わなかった。画面越しに、恵子の顔があった。
桐島の奥から、言葉にならない思いが込み上げた。「...ありがとう」やっとのことでそれだけを絞り出した。
電話を切った。まだ答えらしいものは出ていないが、背中を押された気がした。
彼女は、いつもお見通しだ。
* * *
そうして部屋が静かに戻った時には、色々な記憶が押し寄せてきた。病院でのリハビリ。初めてこの身体を直視した日。この身体で瀬川たちと初めてボールを蹴ったとき。復職した日。最初に走った日。草サッカーに出た日。Jリーグに上がったとき。代表に初めて呼ばれたとき。
アジアカップ。ワールドカップ予選。ドイツ。アルゼンチン。
全部が、たったこの二年の中にあった。たった2年が、四十七年の普通の男性として生きてきた時間より濃かった。奇跡、としか言いようがない時間だった。
そのとき、ドアがノックされた。
* * *
宮内だった。
「散歩、どうですか」と言った。
ホテルの周囲を、二人で歩いた。夜風があった。街の音が遠くに聞こえた。
宮内はしばらく何も言わなかった。桐島も待った。
「この旅が終わってほしくないんです」と宮内は言った。
桐島は頷いた。
「明日が終わったら、みんなそれぞれに戻っていく。桐島さんも、どこかに行く」
夜風が来た。宮内が立ち止まった。
「どうして、あなただったんだろう」
ぽつりと言った。独り言のような声だった。
桐島は答えなかった。答えを求められている言葉ではなかった。
宮内はしばらく、灯りを見ていた。
「後悔はしていません。ただ」
少し間があった。
「...あなたと出会えてよかった。それだけを言いたかった」
宮内が歩き出した。
桐島は「私もそう思います」と言った。その意味が少しずれているのは分かっていたが、それは本当の言葉だ。
宮内は「おやすみなさい」と言って、そのまま歩いていった。振り返らなかった。
桐島は夜風の中に一人残った。
宮内が一人で抱えてきたものを、桐島は受け取れなかった。それはまた、宮内には申し訳ないが、自分の気持ちを一つクリアにするものだった。
* * *
食堂に行くと、電気が半分消えていた。誰もいないと思ったが、窓際のテーブルに、珍しく監督の浜田が座っていた。
ちびちびとチューハイを飲んでいた。桐島に気づいて、「眠れないか」と言った。
「少し考えたいことがあって」
「座れ」
桐島は向かいに座った。しばらく、二人とも何も言わなかった。
浜田が口を開いた。
「お前がいなければ、ここまで来られなかった。感謝してるよ」
「チーム全員のおかげです」
「それは当然だ。それ以上に、お前がいたからこそ、このチームは一つになり、奇跡のような時間を共有できた」
桐島は頷いた。
浜田はチューハイを一口飲んでから、少し遠い目をした。
「本来、監督は選手とこういう話をするべきじゃない。監督は、情で選手を選んではいけないからだ。だが、今日だけは、お前にだけは良いだろうと思う。お前はみんなを支えてくれたが、このチームにはお前より年上は俺しかおらん。」
そうして浜田は続けた。
「俺は現役のとき、家族をほとんど顧みなかった。試合のことしか考えていなかった。妻には負担をかけたし、子供の行事にもほとんど行けなかった。監督になってからも、それは変わらなかった」
桐島は黙って聞いた。
「後悔しているか、と聞かれれば、わからない。ただ、俺は、結局一人の人間である前に、サッカープレイヤーだった。例え間違っていると言われても、どうしようもない、そういう人種が俺たちだ」
浜田は桐島を見た。
「考えることはある。ただ、いつも戻るところは同じだ。そうやって、今日、明日と繰り返して、ここまで来た。選択肢としては、違う人生がもしかしたらあったのかもしれないが、何度戻っても違う選択をしたとは思わないし、その意味では後悔はない」
浜田はチューハイを飲み干して、立ち上がった。「喋りすぎた。また明日な」と言って、食堂を出ていった。
単に浜田の人生を聞かされただけで、何かをアドバイスされたわけでもなかった。だが、いくつかのピースがはまった音がした。
きっと、明日が終わったら何か結論らしいものが出る。そういう予感があった。
桐島は立ち上がって、部屋に戻るために歩き出した。




