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途切れた道のその先は  作者: 月の輝く夜に
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神の子

準決勝の会場はマイアミだった。

アルゼンチンのサポーターが、スタジアムを水色と白で埋めた。「アルヘンチーナ!アルヘンチーナ!」という大合唱が伝わってくる。南米の熱が、フロリダの夜気に混じって、ピッチまで届いてきた。


桐島はベンチから、アルゼンチンのウォームアップ、そして「神の子」を見た。テレビでは何度も見ていたが、実際に見るのは初めてだ。


三十八歳。小柄な体。身長は今の桐島と変わらない。しかしその選手がボールを持つと、周囲の空気が変わる。味方が動き出し、相手が慄く。まだウォームアップの段階なのに、ピッチ全体が彼を中心に呼吸しているようだった。

個がチームを動かす、ということを、桐島は知識として知っていたが、空気感からもそれを感じるようだった。ドイツの至宝は組織の中で、更なる違いを見せる選手だった。しかし神の子は違う。神の子がいるから、組織が生まれる。全てが、彼から始まり、彼に終わる。まさに「神」だった。


世間では、あの選手はディフェンスをしない、と言われている。しかし、見る人が見ればわかるが、コースを切り、パスの出どころを読み、味方のトランジションのことまで考えて一つ一つのポジションをとっている。それを、走るのではなく歩きながらやっている。


今の日本代表の桐島の立ち位置にも似ている。しかし、神の子には、桐島にないものが少なくとも二つあった。どんな相手も力強く切り裂いていける体幹の強さと、九十分出続けられること。どちらも、女性の体では望むべくもなかった。ただ、振り返ってみると、そもそもここまでこれたのがこの譲り受けた身体だからであり、そこは割り切って考えるしかないと苦笑した。


*  *  *

前半、桐島はいつものようにベンチからのスタートだ。


日本は、ドイツ戦で学んだ守り方を使った。相手にやられて嫌だったことを、こちらも学ばない手はない。一人が神の子の動きを制限し、もう一人が徹底的にカバーリングに入る。飛び込まない。ボールを奪いに行かない。追い込む。コースを消す。もちろん、神の子だけに10人のフィールドプレイヤーを全て当てられたら止められるのかもしれないが、アルゼンチンという高いレベルの相手にそんなことはできないので、これが最善策だった。


最初の一五分、それは機能しているように見えた。神の子が縦にボールを入れたり、バイタルエリアに侵入することはなく、横に流れたり、ボールを味方に戻したりしていた。


二十分。神の子が降臨した。

神の子がボールを持ち、横に流れた時、マーカーとカバーリングの間がとうとうずれた。それはせいぜいが体半分、cm単位のずれだった。神の子は、二人の間から完全な縦パスを通した。フォワードがGKと一対一になった。冷静に流し込んだ。

一対零。

スタンドの水色と白が揺れた。


三十八分、

アルゼンチンの右サイドが仕掛けた。日本の守備が右に意識を向けた。

神の子に向かって、左サイドから早いパスが来た。

日本の選手全員が、神の子を見た。


神の子は、ボールをスルーした。


ボールはそのまま転がり続けた。神の子の後ろに走り込んでいたMFに届いた。日本のマーカーが、一秒に満たない間、完全に止まった。神の子は、そのままペナルティエリアに侵入した。神の子は、あたかも朝食を食べるルーティンのように、ディフェンスラインから完璧なタイミングで抜け出し、ボールを再び受けて、そのまま日本のゴールに流し込んだ。


パスを出したわけでも、ドリブルをしたわけでもない。ただそこに立って、何もなかったような顔で、ボールを通しただけだった。たったそれだけで、神の子は時を止めた。


スタジアムが揺れた。

二対零。


ベンチの桐島は、たまらずピッチ際によって大声を出した。「切り替えて!!」

その声は、大歓声で、選手たちにはもちろん届かない。「アルヘンチーナ!アルヘンチーナ!」の大合唱がスタジアムを支配している。


しかし、日本の選手たちは、その瞬間、下を向くのではなく、ベンチを見ていた。この状況を考えると、それは一つ目の奇跡と言ってもよいかもしれない。フィールドの全員が、声を張り上げる桐島を見ていた。例え声は届かなくても、選手は目はベンチの方を向いて、「もうやらせない」と告げていた。


その後の十分間、アルゼンチンはかさにかかって波状攻撃を繰り広げた。

日本のDFたちは、どんなにズタズタにディフェンスを切り裂かれても、最後の集中を切らさず、セカンドボールに対応し続け、シュートをつま先でブロックし、耐えた。川田らもこの十分間は粘り強く、ディフェンスに戻った。


宮内は中盤で走り続けながら、頭の中で繰り返していた。自分たちをここまで連れてきた、あの人がいる。二点差で、前半を終わらせる。桐島が入ってくるまでに試合を終わらせてはいけない。


欧州組のDFは、どんなにパスを回されても、最後のシュートを撃つ人間フィニッシャーだけに集中し、二回のシュートを跳ね返した。

川田はプレスをかけ続けていた。また、ボールがこぼれた時も、強く競り合い、また体を張ってキープした。


ハーフタイムの笛が鳴った。二対零。


*  *  *

後半、桐島がキャプテンマークをつけてピッチに立った。


円陣を組んだ。桐島が中心にいた。全員の顔を一度見た。感謝の言葉は、ハーフタイムに既に伝えていた。今は、目の前の相手に集中するときだ。

全員が頷き、誰からともなく「勝つぞ」と声をだした。

アルゼンチンの選手たちは、不思議なものをみるような目で日本を見た。2-0で負けていて、前半ほとんど何もできなかったチームが気炎をあげている。それは、理解の外にある出来事だった。



桐島が中盤に入ると、日本のプレスラインが変わった。高い位置でコースを切り、奪った瞬間、2秒以内に桐島にボールが入った。空気が変わったことは明らかだった。


五十三分、その流れが形になった。アルゼンチンの攻撃が、とうとう日本の網にかかった。桐島が中盤でボールを引き出し、プレスをかいくぐると、腰の柔軟性を生かして狭いパスコースに正確なパスを通した。センターFWが受けた。アルゼンチンのセンターバックがついていたが、日本のセンターFWは、前半ボールにほとんど触れなかったうっぷんを晴らすように、自分の体の前から来たボールをコントロールし、強引に振り向いてシュートした。ネットが揺れた。

二対一。


今度はスタンドの日本ゾーンが歓声をあげた。


・・・そのとき、アルゼンチンの配置が変わった。

神の子が、桐島のそばに来た。神の子が誰かをマークするのは、前代未聞だった。


神の子が、桐島を見ていた。その目は、怒りでも喜びでも悲しみでもなく、ただ全てを見通しているような目をしていた。


五十七分。

ディフェンスラインがビルドアップで桐島にボールを入れた。桐島がトラップしようとした瞬間、背中が総毛だった。その瞬間、背中から神の子の手が伸びてきた。反射的にしゃがむように低い姿勢になり、足を延ばしたことでボールをコントロールすることはできた。そうして前を向くと、出そうとしていたパスコースに神の子が立っていた。ダブルタッチで引きはがそうとした。新しいパスコースにも神の子が立っていた。


桐島は早いトランジションを諦め、ディフェンスラインにいったんボールを戻した。


六十分。今度は神の子がボールをもった。その瞬間、爆発するように加速した。だが、なぜか桐島にはその瞬間が見えていた。桐島の後ろにいたアルゼンチンのFWが動きなおしている。桐島は、なぜかその動きが背後にいても感じ取れた。逆に、その位置から、神の子がどこに進もうとしているのかが分かった。桐島は足を出さなかったが、なんとか進行方向に先に体を入れることができた。神の子は、腕を伸ばしかけて、明らかにファールになるタイミングだと察して止めた。神の子は、一旦味方にボールを預けた。


桐島にとっては、一つ一つのプレーが細いつり橋を渡るようなスリルだった。一瞬でも対応が遅れていれば、神の子はそのままペナルティエリアに侵入して、決定的な場面になっていたはずだ。


二人がボールをはさんで、試合の時計だけが進んだ。スタジアムが、その対峙を見ていた。


一人のアルゼンチンのMFは、ベンチからその場面を見ていた。若い選手だった。その選手は、自分が物心つくころから、神の子に憧れていた。

そして、「おかしい」と思った。


神の子がこれほど一人の選手に時間をかけているところを、自分は一度も見たことがなかった。神の子は常に先を行っていた。

相手を読み、かわし、次の局面を作っていた。しかし今夜、あの小さな選手の前で、神の子は止まっていた。MFは、神を人間が見るような目で、いつも神の子を見てきた。その神が、人と対峙している。何かが、違う。受け入れられない。


呼ばれて気付くと、交代で自分がピッチに入るように指示をうけた。役目は神の子のフォローだった。


六十九分。

交代で入ったMFは、桐島にボールが入った瞬間、後ろから勢いよく足を延ばしながらチャージした。態勢を崩させてボールを取る、又はこぼさせようとする意図だった。あの膠着を終わらせたかった。神の子が手こずっている姿を、これ以上見ていられなかった。

あの華奢なMFが、自分のチャージをまともに受ければ、もし仮にファールになったとしても、大きなダメージを受けるはずだ。得失の得は明らかにアルゼンチンの方が大きい。そう計算した。


目の前の華奢な選手が、ふっと横に流れた。背中に目がついているようだった。そして、そのまま細い腕でガイドするように、すっと自分の体を前に流した。華奢な選手は、体を半回転させながら、態勢を崩した自分を、神の子の前にあたかも供物を差し出すように置いた。

桐島から見て、その選手はスクリーンになった。


神の子は、自分をまるで厄介者のように、責めるような目をしていた。


桐島は、フォローしていた味方にボールを預け、アルゼンチンゴールへ向かって、低い重心から爆発するように加速した。神の子が全速力で追ってくる。


宮内がボールを持っていた。桐島の動きを見ていた。タイミングを計っていた。パスが出た。

桐島にボールが来た。DFが寄ってきた。桐島は、後ろから神の子が追っていると感じていた。止まったら終わりだ。DFが挟み撃ちにしようと前に出た。その前に出た体を巻き込むように、桐島はルーレットの要領で回転した。DFと位置が入れ替わり、アルゼンチンのラインが乱れた。

川田がさっきDFがいたスペースに走り込んでいることを、桐島は感じた。ヒールでボールを出した。川田がほぼフリーの態勢で強烈なシュートを打ち、サイドネットに刺さった。

二対二。


桐島は、異変を感じて自陣を見た。


神の子が足を抑えていた。スタッフが駆け寄っていた。神の子は首を振った。歩いてはいるが、走れないことが、遠目からでもわかった。

桐島を抑えるために常になく走った。今まで神の子が誰かをマークしたことはなかった。その消耗が、三十八歳の体に来た。


桐島は自分の脚を見た。もちろん、消耗している。同時に、体の奥から、細い水が池に流れるように、回復してくるような感覚がある。それが、若さだった。この体が、自分に与えてくれるものをはっきり理解した。自分は、葵から受け継いだ体と、自分の経験と、二人分で戦っている。それが、神の子に届いた。


*  *  *

神の子が退いてから、試合の空気が変わった。

アルゼンチンは強かった。個の能力は残っていた。

しかし神の子がいなくなった後、チームのトランジションに、抜き身の刀を向けられているような怖さはなくなった。個の力で決定的なミスにはなっていないが、ボールの出どころがほんの少しずれたり、走るタイミングがほんの少しずれたりすることで、集中している日本のディフェンスを破ることはできなくなった。神の子がいるときは見えていた答えが、見えなくなった。


延長戦に入った。アルゼンチンは、中盤を飛ばして前線にロングボールを送る組み立てをしてきた。しかし、ロングボールも日本の前線が懸命に走り、良い形で出させない。焦りがミスを誘った。アルゼンチンのDFが切り返して、利き足ではない足でボールを前線に出そうとしたが、やや蹴り損ねて短いボールになった。そのボールは、日本のブロックの前にいた桐島が、ほぼフリーの形でインターセプトする形になった。


前を見た。左に宮内が走っていた。そのまま桐島も走った。ゴールに向かって。

宮内がボールをゴール際のポケットに運びながら、桐島の動きを見た。アルゼンチンのDFが二人、宮内に寄ってきた。その瞬間、宮内がリターンを出した。

桐島に戻ってきたが、そのまま打つには、やや深く入り過ぎていた。

桐島の背後にはMFが来ていた。振り返る時間はなかった。


桐島は右足を後ろに伸ばした。かかとでボールをコントロールして、股関節を最大限に使ったフリックで、ゴールに向けてボールを流した。

スタジアムが揺れた。

三対二。


浜田が交代の表示を出した。桐島はピッチを出た。

残り時間を、日本は全員で守り切った。最後の笛が鳴った。日本が、初めてワールドカップの決勝に進んだ。

*  *  *

ピッチ上で選手たちが抱き合っていた。泣いている選手がいた。空を見上げている選手がいた。

桐島はベンチの前に立って、その光景を見ていた。足元が、少し揺れる気がした。疲れだった。しかし倒れなかった。

人混みの中から、神の子が来た。足を引きずっていた。スタッフが支えようとしたが、手を振って自分で歩いてきた。桐島の前に立った。


神の子はしばらく桐島を見た。神の子の視線が、桐島の細い肩から脚の先までを一度だけたどった。

「俺は三十八年もの間、自分と同じ土俵に上がれる人間はいないと思っていた」と神の子は言った。

「長生きはするものだな。」そういって、神の子は初めて笑った。この試合、初めて見る人間の顔だった。

桐島は、なんといってよいか分からなかった。ただ頷いた。


神の子が手を差し出した。桐島は、その手を握り返した。

神の子は、手を離して、振り返った。

そして何か不思議なものを触ったかのように自身の手を見つめながら、チームメイトのところへ戻っていった。


桐島はしばらく、世界中が知っているその背中を見ていた。

二十歳の体。四十八年分の経験。その組み合わせが、今夜神の子に届いた。それは自分の経験ではとても足りないし、葵の体の力だけでもあり得ないことだった。まさに一つの奇跡の組み合わせだ。


仲間が駆け寄ってきた。宮内が背中を叩いた。川田が何も言わずに隣に立った。スタンドを見た。日本のゾーンはまだ揺れていた。日の丸が揺れていた。


ワールドカップ決勝。未だに現実感はなかった。



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