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途切れた道のその先は  作者: 月の輝く夜に
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間章

深夜のスポーツバーに、瀬川は一人で来た。

扉を開けると、草サッカーの仲間が五、六人いた。試合の日にはいつもそうなっていた。瀬川が来ると知っているから、みんなが来た。

バーはほぼ満員だった。


ドイツ戦の前半30分まで、日本は押され続けて、ほとんどチャンスを作れず、ドイツのポゼッションが続く。そして、ドイツの至宝が右足を一閃し、日本が失点した。

バーの中はお通夜のようだった。


その中で、桐島が入ってくる。バーの中が一変した。

見知らぬ客が桐島の名前を呼んだ。画面の前で立ち上がった人間がいた。瀬川は椅子に座ったまま、画面を見ていた。

桐島が、あの体でピッチに入っていく。細い肩。小さな背丈。走り方も全然違う。かつての桐島とは、全くその姿は重ならない。だが、何か目には見えないものが重なって見えるような気がした。

前半、日本は押し返せず終了した。


ハーフタイム、色々な言葉が飛び交う。ああすればよい、日本はやっぱりだめだ、あきらめるな、色々な言葉が飛び交う。その中で、隣のテーブルの男が画面を指して言った言葉が耳に入った。

「桐島って、エロいな」


瀬川の体に、熱いものが走った。椅子を引く前に、仲間の一人が瀬川の腕を掴んだ。「やめろ」と低く言った。

瀬川は一度深呼吸した。

隣のテーブルの男は、もう別の話をしていた。瀬川のことには気づいていなかった。

「あいつら、知らないんだよ」と仲間が小声で言った。「俺たちが知ってるあいつを」

瀬川は何も言わなかった。グラスを持ち直して、画面を見た。後半が始まった。


決勝点の場面で、バーが爆発した。

瀬川は立ち上がらなかった。ただ、目が熱くなった。


勝利の余韻にバーが一体となって騒いでいる。

別のテーブルから、三十代くらいの男が声をかけてきた。桐島のユニフォームを着ていた。

「桐島、凄かったですね」

瀬川は男を見た。悪意はなかった。純粋に興奮していた。

「ああ」瀬川は頷き、そして

「最高だ」と言った。

男が笑顔で頷いた。「ですよね!」

そのやり取りが、瀬川には少し可笑しかった。最高だ、という言葉の中に、自分がどれほどのことを詰め込んでいるかを、この男は知らない。しかし、それでよかった。知らなくても、最高だということは同じだった。


インタビューで桐島が胸に手を当てて「今日も、明日も、変わらない」と言ったとき、バーが静かになった。

ああ、彼は何も変わらないんだな、と瀬川は思った。俺たちも、明日も、明後日も、どんなに身体が動かなくなっても、死ぬまでボールをけり続ける。その通りだ。何も変わらない。


*  *  *

恵子は、リビングでテレビを見ていた。

拓海は深夜まで起きていて、後半の途中で眠ってしまった。美鈴は最後まで隣にいた。

桐島がピッチに入る場面で、美鈴が「お父さん」と言った。恵子は頷いた。恵子は心配になった。


あの中年ながらにそれなりにがっちりした体はもうなく、夫は、あの小さな、折れそうな頼りない体で、ドイツの屈強な選手たちと戦っている。恵子は、夫が病院に運ばれた時のことを思った。瀕死の重傷を負ったことを知り、どんな形でもいい、生きていてほしいと願い、それが叶ったことが嬉しかった。家に帰ってきてくれた時は本当にうれしかった。それがまた、ドイツの選手にのしかかられただけで大けがをしそうな戦いに身を投じている。嬉しさよりも不安が勝る。

決勝点を取ったことは嬉しかった。だが、なによりも無事に終わってくれたことに安堵した。


そんなとき、桐島のインタビューが始まった。

「家族には心配をかけていると思いますが、もう少しだけ、待っていてください」という言葉が来たとき、恵子は画面から目を逸らした。

泣くつもりはなかった。しかし、目が熱くなった。

美鈴が「お母さん、泣いてる」と言った。

「泣いてない」と恵子は言った。

「目が赤い」

「疲れてるだけ」

美鈴が笑った。恵子も笑った。

「帰ってきたら、何食べたいか聞いてあげよう」と恵子は言った。

それから二人は、最後まで画面を見ていた。


拓海が寝室から出てきて「終わった?」と聞いた。恵子が「勝ったよ」と言った。拓海は「そっか」と言って、また部屋に戻った。廊下の途中で立ち止まって、振り返った。「お父さん、点取ったの?」

「取ったよ」

「そっか」

今度は戻らなかった。廊下で、しばらく立っていた。

*  *  *

富山の田村家では、両親と姉が三人でテレビを見ていた。

葵の姉が先に連絡をくれた。「今日、試合ですね」と。それで両親も画面の前に座った。

桐島がピッチに入ってきた場面で、母親が口元に手を当てた。

あの体が、走っている。あの脚が、芝の上を蹴っている。あの細い体が、屈強なドイツ人と当たっている。危なっかしくて見ていられなかった。

父親は何も言わなかった。ただ、画面から目を離さなかった。

決勝点の場面は、三人とも声を出さなかった。

ただ、母親の目から涙が伝った。声もなく、ただ流れた。父は何かを堪えていた。

姉が母親の肩に手を置いた。

インタビューが始まった。画面の中の桐島が答えていた。落ち着いた声だった。言葉を選んでいた。

桐島が胸に手を当てて「今ここにいること自体が、私にとっては奇跡です」と話したとき、その言葉から葵の体を譲り受けたことを感謝していることが伝わってきた。

「今日も、明日も、変わらない」という言葉が流れた後、しばらく三人は動かなかった。

葵の魂は天国に行ったが、葵は、まだ形を変えてそこにいる。


テレビの画面には、スタジアムの夜空が映っていた。

*  *  *

ドイツ戦の翌日、日本のテレビは桐島一色だった。

朝の情報番組がハイライトを流した。昼のワイドショーが特集を組んだ。夜のニュースが繰り返した。どの番組も、同じ場面を何度も流した。。

ある番組では、スポーツの専門家がこう言った。「体格でも速さでも圧倒的に不利な状況で、それでも誰よりも結果を出している。我々の常識では計り知れない。」

別の番組では、元代表選手がこう語った。「後輩から聞きましたが、桐島選手がハーフタイムのロッカールームで全員の気持ちを立て直したそうです。ピッチ上だけではなく、そういうことができる。一体どれだけのことを乗り越えればそういうようになれるのか、想像もつきません」

コメンテーターが言った。「インタビューの言葉が、刺さったんですよね。『今ここにいること自体が奇跡だ』という言葉と、それでも今日も明日も変わらない、という言葉が。勝ったから言えた言葉ではないと思う。あれだけのことを乗り越えてきた人間が、それでも今を一生懸命やる、という生き方そのものが伝わった」

司会が「女性の体であれだけのことをするというところも、凄いですよね」と言った。

コメンテーターが少し考えてから答えた。「それも確かにあると思います。でも、本質はそこじゃなくて、色々な経験を元に、あの状況でああいう生き方ができる人だから、感動を与えた、そういうことなんじゃないですかね」


SNSでは、インタビュー映像の切り抜きが一晩で数千万回再生された。桐島が胸に手を当てた場面。右手を少し握るようにして、目を正面に向けたまま、静かに語りかける。

「何この人」「誰」「こんな人が代表にいたの」という言葉が、スポーツファン以外のタイムラインにも流れた。

ファンレターが黒川のもとに届き始めた。スポーツ系のものが大半だったが、中には六十代の女性からのものもあった。「色々と悲しいことがあったけれど、まだ人生は終わっていないし、続くんだと思えるようになりました。今日も、明日も、精一杯生きます」とその手紙は綴っていた。また「わたしも魔法を使えるようになりたい」という小学生からのものもあった。黒川はその二通を、桐島に転送した。

*  *  *

山岸の靭帯の修復手術は、予定通りに終わった。担当医から「うまくいきました」という言葉をもらったとき、山岸はベッドの上で目を閉じた。麻酔がまだ体に残っていた。

リハビリには最低でも六ヶ月かかる、と言われた。

六ヶ月。今大会は終わる。次のシーズンも、序盤は難しい。

しかし山岸の頭の中には、テレビで桐島が言っていたことが、まるで残響のように頭の中に響いていた。『今日も、明日も、変わらない』

自分のワールドカップは終わった。だがそこで終わりではない。後のことは、後で考える。年齢も、今は考えない。この体が動くかどうかも、今は考えない。


病室にスマートフォンが返ってきた。通知が溜まっていた。チームメイトからのメッセージが複数あった。浜田からもあった。

桐島からも来ていた。「勝ちました。ありがとうございました。手術はうまくいったと聞きました。まずはゆっくり休んでください」

山岸はしばらくそのメッセージを見ていた。

桐島は自分からキャプテンマークを受け継いで、ドイツを倒した。チームをまとめた。あの一瞬の判断が、間違っていなかったと証明してみせてくれた。

うれしかった。だが、それで自分の代表での役割が終わったわけではない。

山岸はメッセージを打った。

「見てました。ありがとう。次も頼みます。」

送信してから、山岸は一度目を閉じた。そして、次の一行を付け加えた。

「俺は俺のできることをします。」


リハビリが始まれば、また動ける。動けるようになれば、またピッチに立てる。プロの人生が終わっても、その先は続いている。自分にはやるべきことがある。

山岸は目を開けて、窓の外を見た。空が晴れていた。


※実際には準々決勝は、日本時間の早朝になる見込みです。

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