星
試合後、ピッチの上で「至宝」が近づいてきた。
川田が隣にいた。至宝と川田は同じクラブで時期が重なっていたことがあり、ドイツ語で会話ができる関係だった。川田が通訳を申し出た。
至宝は、桐島を正面から見た。少し悔しそうな顔をしてから、笑った。その順番が、正直だと思った。
「マークをつけた選手から報告が来るたびに、理解できない、と言っていた。俺も映像でしか見ていなかったが、実際にピッチで見ると、話が違った」
至宝は少し間を置いた。
「あれはサッカーじゃない、というやつもいるだろう。まるで魔法をかけられているようだった。俺は今まで、世界中のトップレベルの選手と戦ってきた。でも、あなたのようなプレーをする人間には、一度も会ったことがない」
川田が訳しながら、一度桐島を見た。訳すことへの照れがあるようだった。
「そういう領域に達するプレーヤーは、世界に限られた数しかいない。あなたはその中の一人だと思う」
至宝はそう言って、また笑った。今度は悔しさより、何か別のものが混じった笑い方だった。
「ドイツのユニフォームに星を増やせなかったのは残念だったが、今日はそれに値するゲームだった」
と最後に締めた。
桐島はしばらく黙ってから、「あなたとピッチで戦えたことを、光栄に思います」と言った。
至宝は頷いた。それで会話は終わった。
至宝がチームメイトのところへ歩いていくのを見ながら、桐島は川田に通訳に対する礼を言った。
スタジアムは昼から夜へと変わり、星が輝き始めた。
* * *
インタビューは、ピッチサイドで行われた。
カメラが複数向いていた。日本のメディアだけでなく、海外メディアも来ていた。
「まずは得点シーンについて教えてください」
「無我夢中でした」としか答えられなかった。
「キャプテン代理として、今日のチームを振り返ってください」
桐島は少し考えた。
「前半、ドイツの圧力でチーム全体が苦しい時間がありました。でも、ハーフタイムで切り替えられました。後半のサッカーは、今日のチームが出せる最高のものだったし、最高のメンバーだと思います。」
「山岸選手への言葉は」
「山岸選手がいたから、このチームは今ここにいます。今日の勝利を、一番に届けたかった」
「家族への言葉を」
「家族には心配をかけていると思いますが、もう少しだけ、待っていてください」
「最後に、今後のキャリアについてはお考えはありますか」
桐島は言葉に詰まった。それは、桐島自身も悩んで答えが出ない問題だったからだ。
「……今答えるのは難しいです。正直に言えば、今ここにいること自体が、私にとっては奇跡です。一年前、自分がワールドカップのピッチに立つとは、誰も、私自身も、思っていなかった」
桐島はまた右手を胸に当てて、続けた。
「この体がいつまで動くかわからない。来年、いや明日もどうなっているかも、わからない。だから今を一生懸命やること、それしかできません。そしてそれは、今日も、明日も、変わらない」
その答えが、翌日から世界中で流れた。日本でも、桐島が胸に手を当てながら「今日も、明日も、変わらない」という映像は、ニュースで繰り返し流れた。それは、瀬川らを始めとしたかつての草サッカーのチームメイト、かつての会社の同僚たち、そして日本中の老若男女の全ての人の心の中に静かに滑り込む言葉だった。
* * *
合宿地に戻ったのは夜の21時過ぎだった。
食堂から笑い声が聞こえた。桐島はメディカルルームに直行した。
チームドクターが待っていた。一通りのチェックをした。血圧、心拍数、各部位の触診。約六十分の出場で、体にかかった負荷を確認していった。
「大きな異常はありません」とドクターが言った。「ただ、酷使しすぎています。この体のサイズで、あの強度のフィジカルコンタクトを続けることのリスクは・・・今更ですね。」
桐島は苦笑するしかなかった。
ドクターが体の各所を確認していく過程で、桐島は自分の体を改めて見た。
左の太もも。右のふくらはぎ。脇腹の下。青あざが散っていた。試合の痕跡だった。
しかし今夜は、申し訳なさより先に、別のことに目が行った。
日焼けしていない部分の肌が、青あざの色と並んでいた。細い腕。なだらかな鎖骨の線。サッカーをするには華奢すぎる身体だ。それが今夜のピッチで、ドイツを倒すために動いていた。
至宝が「世界に限られたプレーヤーだけが達する領域」と言った。この葵から受け継いだ体が、その言葉をもらった。今夜は、そのことが無性に嬉しかった。
ドクターが「今夜はよく休んでください」と言った。桐島は頷いた。
* * *
チームメイトの輪から抜けたのは、日付が変わるころだった。
廊下を抜けて、外に出た。ホテルの中庭に小さなベンチがあった。桐島はそこに座って、足を引き上げて膝を抱えた。
空を見た。
星が多かった。この大会を通じて何度か見上げた空だった。
ベスト四。日本代表が初めて立つ場所に、自分がいる。
次はアルゼンチンだった。前回大会の優勝チームだった。
勝てるか、と問えば、わからない。
この体がいつまで動くか、わからない。来年どこにいるか、わからない。何もかもがわからないまま、ここまで来た。今も、何も分からない。ただ、ずっと星を見上げていると、空に吸い込まれて自分が溶けてなくなっていくような気分を覚えた。
突然、上着を背中にかけられた。振り返ると、宮内がいた。その後ろに、川田がいた。さらに後ろに、何人かの選手が続いた。
誰も何も言わなかった。
宮内が桐島の隣に座った。川田がその隣に座った。他の今日出場した選手も、今日出場がなかった選手も、みんなベンチの周りに腰を下ろした。
全員が、空を見た。
しばらく、誰も話さなかった。風が少し吹いた。
桐島はその静けさの中で、気づいた。
誰かが、外に出た桐島を探して、ここまで来た。言葉をかけるためではなく、ただそこにいるために。
異物では、もうなかった。
このチームの、一つのピースだった。欠けたら別の形になる、必要なピースだった。言葉よりも、そこに仲間たちがいることが、何よりも雄弁に語っていた。
この旅を、最後まで続けたい。決勝まで。
それが今夜、初めてはっきりと、自分の言葉になった。
空に、また星が増えた気がした。




