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途切れた道のその先は  作者: 月の輝く夜に
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圧力

ダラスのスタジアムは、九万二千人を収容できる。


その空間が、試合前から圧力を持っていた。ドイツのサポーターが黒と赤で大半を埋め、スタンドから発生する音の塊が、ピッチに向かって降りてきた。「世界に冠たるドイツ」と「美しきドイツ」の歌声が響いてくる。日本のゾーンはドイツと比べれば控えめで一角に固まっていたが、決して負けていない。


桐島はベンチからその音を聞きながら、ドイツのウォームアップを見ていた。それを見ているだけで分かる。動き一つ一つの出力と、正確性が違う。個々の技術水準が高く、それが当たり前のように全員に備わっていた。

そしてその中に「至宝」がいた。


欧州の最高峰クラブが「手放したくない」と言うMFで、ボールを持てば局面を一変させ、守備では中盤を制圧した。そんな選手と、川田が言葉を交わしあっている。

なお、もう一人、ドイツには世界最高峰と言われる主軸MFがいたが、今回のワールドカップは怪我で出られない。しかし、そんなことは対戦相手からすれば、些細なことだと思わせるレベルだ。

*  *  *

前半、日本は押された。


勿論ゲーゲンプレス対策はしていたが、ドイツはボールを持った瞬間に複数人が来る。素早いパス回しをしようにも、有効なパスコースがない。蹴り出しても、高い予測力を基にすぐに回収される。日本のビルドアップが、ことごとくドイツのプレスにはまった。なんとかサイド経由で前線に通しても、孤立するか、完全にブロックを引かれる。トランジションにことごとく失敗している。

日本の素早いパス回しより先に、ドイツがプレッシャーに来る。なまじ日本は個の力に頼るサッカーをやってこなかったので、前線になんとかボールが回っても、それだけではなかなかチャンスにならない。日本が今までやってきたことを、高いレベルでやり返されているともいえる。ボールポゼッションは、正確には分からないが、ドイツ側が80%近くになっている印象だ。


こういう時の圧力は、体にも心にも来る。それでも、岸本のいない日本は、キャプテンマークをしたGKを中心に何とか耐えている。ベンチで桐島はそれを見ていた。当初の予定では、いつも通り桐島は後半から入る予定だった。しかしこのままでは、日本の堤防が決壊するのが先に来るように思えた。浜田は、このタイミングで桐島を投入することを決断せざるを得なかった。


桐島がタッチラインに立ち、電光掲示板に「24」が灯る。


その瞬間、日本が跳ね返したボールを至宝が拾い、前を向いた。今までのパターンでは、ウィングにボールを出すパターンだった。そのパターンで、ドイツの強力なウイングは、日本のディフェンスを振り切って中に切り込んだり、決定的なパスを出していたため、自然とそちらに体が向いた。しかし、それは罠だった。

軽いキックフェイントにより、ディフェンダーがウイングへのコースを切ろうとしているところを、簡単に内側に切れ込んで、ディフェンダーがカバーリングに入る前に、長めから弧を描くようなシュートを打った。強く、美しいシュートだった。

ネットが揺れた。一対零。


桐島はタッチラインの外で、それを見ていた。ピッチに入る寸前だった。

審判が桐島の交代を確認した。桐島はピッチに入り、キャプテンマークをGKから引き渡された。


ドイツのベンチは浮かれておらず、桐島が入ろうとしているところを見逃さずにすぐに選手に指示を出していることが分かった。


事前に計算されていたと思われる、ドイツの桐島への対策は・・・全く奇をてらわない王道だった。一人が前から圧力をかけ、もう一人がそのカバーに入る。桐島がかわしても、外側に壁がある。しつこく、二人で真綿を占めるように押しつぶす。ボールを持たせず、持っても出口をなくす。それを、精密機械のように、高いレベルで実行する。


ドイツの一八六センチの選手が、ドイツの攻撃の時も桐島を離さずプレッシャーをかけてくる。その選手のプレッシャーをかわして前に出ようとした瞬間、誰か一人の選手が間を置かず詰めてきて、前へのパスコースを切ってくる。安易には飛び込んでこない。それを繰り返されるだけで、桐島を経由して素早く攻撃にトランジションするという日本の勝利パターンが崩される。何とかボールを保持して、後ろに戻しても、既にドイツにはブロックができている。桐島頼み、という構図が崩れた。


日本は、何とかボールを保持することはできるようになった。が、それだけだ。ドイツを脅かすような攻撃には至らず、前半はそのまま終わった。



ロッカールームに入ると、そこには重さがあった。

選手たちが椅子に座り、タオルで顔を拭いていた。誰も話さなかった。全員が目に見えない圧力で押さえつけられているようだ。

浜田も、また決断を迷っているようだった。


桐島は、腕のキャプテンマークを見た。今、自分が話すべきような、ふっと背中を押されたような感じがして、立ち上がった。

「少し、いいでしょうか」

全員が桐島を見た。


「本気のドイツは本当に強い。それは今更です。こういう相手と、この舞台でやれること自体が奇跡です。思い出してください」桐島は、右手を胸に当てて、続けた。

「私がここにいること、それ自体が奇跡です。誰も、こんな歳で、こんな体の人間が、こんなところにいるなんてことを1年前には思っていなかった...そもそも私は、生きていること、それ自体が奇跡ですけどね」桐島は苦笑した。

「だから、楽しみましょう。やれることを全てやりきりましょう。きっと、結果はその後についてきます。」

宮内が前を向いた。川田が目を上げた。欧州組のDFが、大きく頷いた。


ロッカールームの空気が大きく変わった。圧力そのものがなくなったわけではない。

しかし、反発力が生まれた。


浜田がその後を引き取った。

「聞いてくれ」そして、大きな決断をするように、大きく息を吐いた。

「いくつか後半から変更する。まず、DFは4枚から3枚に減らし、中盤に宮内を入れる。その分、一人が桐島のサポートに回る。インサイドハーフに宮内と小杉。桐島と常に三角形を作ってくれ。DFに関しては、3バックだとどうしてもウィングの位置が低くなりそうだが、思い切って高い位置を取ってくれ。相手のウイングに高い位置を取らせないことを意識する。攻撃は最大の防御だ。ぶっつけ本番だし、リスクがあることは承知している。だが、これしかない。責任は俺がとる」

全員が頷いた。


*  *  *

後半が始まった。


桐島の両脇に日本の選手が位置どることで、桐島がワンツーを使えるようになった。その選択肢ができたことで、マーカーが絞り切れなくなり、桐島に余裕を持たせた。


ドイツのMFは、桐島がボールを受けるたびに距離を詰めた。しかし今度は、体を当てようとする瞬間に違和感を感じた。桐島の体が、予測した方向に動かなかった。正確には、桐島がトラップしたと思った瞬間に、桐島の体の角度が変わっていて飛び込めなかった。そのマジックの鍵は、下半身の可動域の違いだ。まるでゴムのように、トラップしたときの実際のボールの位置と、本来上半身の位置から想定されるボールの位置とが30度近く差がある。

女性の体の関節の可動域が、男性選手では出せない動作を可能にした。サッカーでは、ボールを置く位置一つで、出せるパスコースが大きく変わる。今までカバーリングをしていた選手たちもパスコースを消し切れていない。


ドイツのベンチで、アナリストがタブレットを操作していた。「トラップの軌道が読めない」と報告が来た。戦術家として知られる、若い監督は腕を組んだ。映像で見てきた動きと、実際の動きが違った。今も、日本の前線にボールが通った。

今まで取ってきたあらゆるデータが、少しずつ誤作動を起こし始めた。


ポゼッションが均等になってきた。何より、日本の選手が、前を向けてボールを受けられるようになった。ウイングも高い位置をキープし、果敢に裏をとる動きを見せている。

そして、日本の中盤がドイツのプレスをかいくぐり、トランジションに成功していることそれ自体がドイツの選手たちに迷いを引き起こし、誤作動を与えている。そうすると、システマチックに動いていたドイツ選手たちの集中が切れる。七十分、七十五分。ドイツの運動量が明らかに落ちてきた。


元々ゲーゲンプレスは高いインテンシティを要求する。それが、最後まで自分たちのペースでできなくなったことにより、息切れを引き起こした。今度は、試合は日本ペースになった。日本が、ドイツという世界の強豪国相手に、押し込む展開になった。ドイツは何とか反撃を繰り出そうとするが、今度は桐島が日本のブロックの前でのボール回しに対して、決定的なパスを出させない。今や、中盤の支配権は日本にあり、日本は波状攻撃を開始した。


何度かのトライの後だった。

八十分、宮内がワンツーで左サイドを抜けて、ゴール脇のポケットを取った。これもこの試合で始めての展開だ。そして、早いボールを放り込む。日本の選手が何人か飛び込む。ドイツの選手も負けじと戻ってくる。しかし、この瞬間は、運が日本に味方した。ドイツの選手たちのスタミナが切れて、集中力が切れていた。そして、ドイツの右ウィングが何とか左足で触ったボールが、足先ではなくかかと部分にあたり角度を変えてドイツGKのニアサイドをそのまま破る。

1-1、同点。


スタンドの日本ゾーンが弾けた。


しかし、それでもドイツは慌てなかった。ゲーゲンプレスをいったん止め、ブロックを引いた。残り時間を守る。延長に持ち込む。延長になれば、桐島の体力が先に限界を迎える。そうすれば地力の差で勝てる。その計算が、ドイツの配置から読めた。

実にいやらしい、合理的な判断だった。桐島にも、そのことはわかったが、既に45分以上ドイツ選手の大柄な体とやりあってきた桐島の細い脚には強い負担がかかっていた。日本はまだ戦えるが、桐島はもはや延長になった場合は下がらざるをえない。そうすると、ドイツはきっと息を吹き返す。絶対に、ここで仕留め切らなければならなかった。


八十八分。

日本の右ウイングがボールを持ち上がったことにより、空いたドイツのウイングとDFの前のスペースで川田がボールを受けた。

桐島が走り出した。

ディフェンスラインとボランチの間のスペース。そこに走り込んだ。


川田がパスを出した。

ボランチが追走していたため、桐島からかなり遠い位置に、やや低めのセンタリングのようなボールが来た。

桐島はゴール方向にジャンプしながら右足を伸ばし、ボールに触った。そのボールは、桐島の少し上にあがるような形になり、前に勢いがついていた桐島の背中側に落ちるようなボールになった。ドイツDFからはボールが見えなくなったが、そればミスにしか見えなかったので、ドイツDFはボールを回収するつもりですっと前に出た。

その時だった。後ろから桐島を追いかけていたたマーカーのMFが、DFに向かって「Hexe(魔女)をみろ!」と警告した。

桐島は、反転し、男性ではあり得ない角度まで足を跳ね上げ、チップキックでDFの上にボールを通していた。そして自身は再度反転しDFの横をすっと低い姿勢で通り抜けた。DFからは桐島の背中でボールが見えず、下にボールを持たない桐島という分裂した状況が、そのドイツDFの反応を遅らせた。

それは、あたかもフィギュアスケートの演技が目の前を流れていくようでもあり、細い体が持つ柔軟性と重心の違いが、サッカーという競技を一瞬逸脱した瞬間だった。


ドイツDFが振り向いた時には遅かった。桐島は、上から落ちてきたボールを地面に叩きつけるボレーシュートを撃った。決して勢いのあるシュートではなかったが、GKが倒れこんでセーブするには近すぎた。残りのDFらの必死のカバーも間に合わなかった。ボールはゴールネットを揺らした。


二対一。


*  *  *

試合終了の笛が鳴った。

優勝候補ドイツが、二大会連続で日本に敗れた。

ピッチ上で選手たちが倒れ込んでいた。ドイツだけではない。日本の選手もだ。桐島はピッチに体育座りをしていた。脚が言うことを聞かなかった。宮内が来て、桐島の腕を引き、やっと立ち上がれた。

スタンドを見た。日本のゾーンが揺れていた。日の丸の大きな旗が揺れていた。これは、間違いなく自分達を後押ししてくれた力だ。




※桐島のゴールシーンを修正

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