一丸
合宿地に戻った翌日、桐島はメディカルマッサージを受けた。
うつ伏せになって、トレーナーが背中から脚にかけて丁寧に手を当てていった。その過程で、トレーナーは何度か手を止めた。
「かなり入ってますね」
鏡はなかったが、触られている場所で、なんとなくわかった。背中の右側。左の太もも。ふくらはぎの裏。「青あざになってます」
桐島は黙って聞いていた。
あの試合では、三十分しか出ていない。腕を掴まれ、引きずり倒され、ユニフォームを後ろから引っ張られた。その傷跡が体に残っていた。
桐島が交代した後の試合終盤は、10人のパラグアイの執念を日本が体で受け止める、肉弾戦になっていた。その中に巻き込まれていたら、このくらいでは済まなかった。三十分で交代になったことが、結果的には体を守った。しかし、その三十分で、これだけ傷んでいた。あの時はアドレナリンで感じていなかったが。
改めて申し訳ない気持ちになった。
元々フィジカルコンタクトのないバレーボールをしていた体は、女子サッカーをしている選手たちよりも、肩幅が狭く、細身だ。トレーニングをしても、20を超えた身体の骨格は変わらない。この身体は元々サッカーをするために作られた体ではない。それを、自分はサッカーに引きずり込み、代表に連れてきて、ワールドカップのピッチで男性に引きずり倒されるところまで自分のエゴで使ってしまっている。自分の身体でもあり、借り物でもあるこの身体を壊してしまったら、葵やその両親に申し訳が立たない。
改めて、山岸とメキシコシティで語り合った、今後自分はどうするべきか、ということが頭をぐるぐる回る。
トレーナーが手を動かし始めた。
* * *
代表のスタッフ陣も、頭を悩ませていた。
山岸の不在は、数字以上の問題だった。一九〇センチのDFが一人抜ける。守備の高さが変わる。加えて、終盤に苦しくなったとき、山岸を前線に上げてパワープレーを仕掛けるという選択肢が消えた。フォーメーションの幅が、一つ狭くなった。
もう一つの問題が、キャプテン代理だった。
浜田から話があったのは、その日の夜だった。
「キャプテン代理をお願いしたい」
桐島は即座に首を振った。
「自分には向きません」
「どうしてそう思う?」
「先発で出ることが難しい。キャプテンというのは、ピッチ上でチームを引っ張る役割が大きい。途中出場の選手が腕章をつけることは、チームの士気にとってプラスではないと思います。それから」
桐島は少し間を置いた。
「自分は、このチームにとって異物です。特殊な事情を抱えた選手が、チームの顔になることは好ましくない」
浜田は黙って聞いていた。
「川田はどうですか。チームを引っ張れる。」
「川田は言葉が少ない。プレーで引っ張る側面を加味しても、前線の選手だ。後ろからチームをまとめる声がけという意味では足りない」
桐島は反論できなかった。川田のことを、正確に見ていた。
「何より、スタメンと控え、両方からの信頼がある選手が必要だ」と浜田は続けた。「今のチームで、それができるのはお前だけだ」
「……浜田さん」
「気持ちはわかる。ただ、お前しかいない」
桐島はしばらく黙っていた。
山岸が食堂で言った言葉が、頭の中で動いた。「俺がいなくなった後のチームを、頼みます」
「わかりました」と桐島は言った。
* * *
キャプテン代理就任の発表は、翌日の練習前のミーティングで行われた。
浜田が簡潔に告げた。チームメイトたちの反応は、静かだった。驚きはなかった。それが、むしろ桐島には意外だった。
「異論はあるか」と浜田が聞いた。
誰も手を挙げなかった。宮内が、少し頷いた。川田が、前を向いたまま目を閉じた。欧州組のDFが「Good choice」とサムズアップして答えた。他の選手も、本来のキャプテンである山岸に遠慮はある感じがしたがそれを除けば非常に好意的だった。
代表のSNSに「桐島キャプテン代理就任」という投稿が流れた。そのコメント欄が、桐島には馴染みのない種類の言葉で埋まっていた。
「推せる」「尊い」「キャプテンになってくれてありがとう」「ずっと応援してます」
・・・サッカーの応援とは違う意味合いの言葉が多かった。
黒川からメッセージが来た。「ファン層が一部変わっています。」
桐島はしばらくそのメッセージを眺めていた・・・が、どうすることもできずスマートフォンをベッドに放り投げた。
* * *
次の相手はドイツだった。
ベスト八。日本を除く全てのチームが、ワールドカップの常連だった。ドイツ、ブラジル、アルゼンチン、フランス、スペイン、クロアチア、モロッコ。このステージに来ること自体、日本にとっては初めてのことだった。
前回大会でドイツに勝ったことは、選手たちの記憶にある。しかしそれで気が緩む選手は、今のチームにはいなかった。むしろ逆だった。あの勝利は、まぐれではないが、それこそ死力を尽くした末に勝ち取ったものだ。初戦で準備を重ねたことも大きかったし、ドイツのような強豪国は、ワールドカップでは元々決勝トーナメントに照準を合わせていたことも否定できない要素だ。何より、ドイツのリーグは明らかに日本のリーグより格上・・・というより世界最高峰と言ってよい。それらに対する畏怖がある。
全体ミーティングでドイツの映像を見て研究しているとき、桐島は選手たちの顔を見た。緊張の色が強いが、それ自体は問題ない。ただ、いくつかの顔に、緊張とは別のものが混じっていた。「格上」に勝てるのか、という疑問が、言葉にならないまま体に入り込んでいるときの顔だった。
桐島は、その感覚を知っていた。Jリーグに最初に上がったとき、周囲の選手たちとの体格差を見て、同じ感覚を覚えた。勝てない、ではなく、同じ土俵に立てていないのでは、という感覚。それを超えるのに、桐島は時間がかかった。しかし、今は短期決戦の場だ。
練習後、桐島は何人かの選手に声をかけた。
一人ずつ、話を聞いた。
欧州組のFWは「ドイツのプレスの強さが頭にある。自分がボールを収められるか自信がない」と言った。桐島は「一人でやる必要はない。フォローの速さが必要だし、みんなと話し合ってイメージを共有して」と言った。
若い選手の一人は「自分が出る場面が来るかどうかわからないが、出たとして、何ができるか、その場面が整理できない」と言った。桐島は「男なんだから腹を据える。それだけです」と言った。なぜかその選手は母親に諭された時のような顔をしていた。
宮内には、何も言わなかった。宮内は「大丈夫です」と先に言った。男の目をしていた。桐島は頷いた。
そうやって話して回りながら、桐島はキャプテン代理というものが何をする役割なのかを、少しずつ自分の言葉で理解していった。
山岸は後ろから声をかけ続けていた。ミスをした選手に「大丈夫だ」と言い続けていた。失点した後も、外した後も、桐島が気づいていない場面でも、山岸の声が誰かの背中を押していた。その頼もしさがチームの土台になっていたことを、いなくなってから改めて感じた。自分には、山岸と同じことはできない。しかし、できることをやる。それだけだと、桐島は思うことにした。
その割り切りが伝わったのか、それとも別の何かが働いたのか、桐島にはよくわからなかった。ただ、短い期間でチームの空気が変わった。桐島への信頼というより、桐島を守りたい、桐島のためにやりたい、という気持ちが、多かれ少なかれ選手の中に自然に生まれていた。スタメンも控えも、その気持ちが一つのよりどころとなって、一体感が生まれた。
ドイツ戦の前夜、夕食後の食堂でそれが言葉として出てきた。
一人一人覚悟を表明していった。その中に、
「桐島さんのためなら死ねます」
桐島は「死なないでください。線香はあげに行きません」と返した。
別の選手が「倒れたら膝枕してほしいです」と言った。
桐島は「いくらですか」と返した。
「いくらでも払いますよ」との返事がきた。
・・・食堂に笑いが起きた。
桐島は苦笑しながら、その光景を見ていた。理解できないところもあった。しかし、何はともあれチームが笑っていた。前夜に笑えるチームは、弱くない。そう思うことにした。
部屋に戻って、桐島は腕章を手に取った。細い腕に巻き付けてみた。山岸の逞しい腕にあったときのような、頼りがいはない。しかし、なぜかそれはそこに元々あったような、フィット感があった。




