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途切れた道のその先は  作者: 月の輝く夜に
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復職

三月の第一月曜日、桐島は電車に乗った。

通勤ラッシュの時間帯を外し、九時半の出発にした。それは会社側の配慮でもあり、桐島自身の判断でもあった。満員電車の中で今の自分の体を他人と密着させることへの、説明しにくい抵抗感がまだあった。人に触れられることへの不安というより、触れられたとき自分がどう反応するかへの不安だった。


ホームに立つと、風が来た。

スーツの感触が、首筋に当たっていた。

恵子が仕立て直してくれたスーツだ。以前のものはサイズが合わなくなったため、桐島の新しい体の寸法に合わせて、テーラーで手を入れた。男物のスーツを女性の体型に合わせることは、技術的にかなりの無理がある。それでも恵子は三軒のテーラーに相談し、一番誠実に向き合ってくれた職人に頼んだ。仕上がったスーツは、完璧ではないにしても、きちんと「男性のスーツ」だった。

桐島はそれを望んでいた。


戸籍上、桐島修二は男性のままだ。会社にも男性社員として復職する。それ以外の選択肢を、桐島は考えなかった。考える必要を感じなかった、というより、その問いに向き合う余力が、まだなかった。今は、ただ桐島修二として会社に戻ることだけを考えていた。


電車が来た。

乗り込み、吊り革を掴んだ。

手が届いた。以前の自分なら当然届く高さだが、今の体では背が低くなったぶん、少し腕を伸ばした。その些細な動作に、ちらりと視線を感じた。気のせいかもしれない。気のせいではないかもしれない。桐島はどちらでもいいと思うことにした。


会社は都内の中堅商社で、桐島は営業部の課長職にあった。

エレベーターを降りてオフィスのフロアに入ると、まず総務の川口が立ち上がった。四十代の、人の好い男だ。

「桐島さん、お帰りなさい」

「ただいま」と桐島は答えた。

「あ、あの……お体の具合は」

「問題ないです」

川口は何か言いかけて、やめた。その「やめた」の輪郭が、桐島には見えた。体のことを聞くべきか聞かざるべきか、どう言及すれば失礼にならないか、そういった逡巡が、川口の表情に透けていた。桐島はそれを責める気にはなれなかった。自分でも、どう扱えばいいかわからない問いを、他人に整理しろというのは無理な話だ。

「戻ってきてくれて、よかったです」と川口は最終的に言った。

「ありがとう」

それだけで十分だった。


営業部のフロアに進むと、部下たちがそれぞれの反応を見せた。露骨に視線を逸らす者、過剰に明るく「おはようございます!」と言う者、何事もなかったように普通に挨拶する者。人間の反応というのは、本当に多様だと桐島は思った。どの反応が正しいということもなく、全員が全員なりに、前例のない状況に対処しようとしていた。

席についた。

デスクは以前のままだった。引き出しの中の文房具の位置も、モニターの角度も。

パソコンを起動した。

メールが、四百件以上溜まっていた。

桐島はそれを見て、ふっと息を吐いた。笑いに近い、安堵に近い、なんとも言いがたい感情だった。四百件のメールは、桐島修二が必要とされてきた証拠だ。この世界には、自分の返事を待っている案件がある。自分の判断を必要としている仕事がある。

最初のメールを開いた。

取引先からの問い合わせだった。

桐島は状況を整理し、返信を書き始めた。

指が、キーボードの上を動いた。

細い指だった。しかし動き自体は、以前と変わらない。いや、変わらないどころか、以前より速かった。指が長く、関節の柔軟性が高い分、キーストロークの精度が上がっている。桐島は少し驚いた。こんなところにも、この体の特性が出るのかと。

一時間後には、メールを五十件処理していた。


復職から一週間が経った木曜日、桐島は取引先との打ち合わせに臨んだ。

相手は長年の取引先、東和製造の田中部長だった。六十代の、頑固で律義な人物だ。桐島とは十年以上の付き合いがある。

会議室に入ると、田中は立ち上がった。

一瞬だけ、その目が桐島の全体を見た。

桐島はまっすぐ田中のほうへ歩き、立ち止まって会釈した。


「桐島です。ご無沙汰しております」

田中は、一拍置いてから「お噂はかねがね」と言った。

「お気遣いなく。仕事の話をしましょう」

田中はわずかに目を細め、それから「そうですな」と頷いた。

打ち合わせが始まった。

案件は、新規の部品調達ルートの見直しだった。東和製造側が提示してきた条件に、いくつか無理のある点があった。桐島は資料を手元に、順を追って論点を整理した。

「この納期設定は、現行の物流体制では難しい。ただし、ここを二週間後ろにずらして、代わりにロット数をこの数字まで増やせるなら、価格面でこちらも譲れます」

田中が前のめりになった。

「その数字は、本社の承認が取れますか」

「取ります。月内に。その代わり、契約の有効期間をここで確定させてほしい」

交渉は、四十分で着地した。

田中が部屋を出る前に、立ち止まって振り返った。

「桐島さん」

「はい」

「変わらんですな」

桐島は少し考えてから「外見は変わりましたが」と答えた。

田中は苦笑した。苦笑の中に、敬意があった。

「中身が変わらんなら、それが全てですよ」

田中が出ていった。


桐島は会議室に一人残り、窓の外を見た。

都心のビル群。灰色の空。その景色の中に、桐島修二がいる。四十七年生きてきた意識が、二十歳の体に収まって、今日も交渉をして、決裁を取って、仕事をしている。それが滑稽だとは思わない。それが自分だと、今は思う。


四月になった。

桐島の復帰は、社内で少しずつ「日常」になっていった。

最初の数週間こそ、フロアに独特の緊張感があった。誰もが何かを気にしながら、しかし口には出さないという状態。しかし人間というのは慣れる生き物で、桐島が毎朝同じ時間に出勤し、同じデスクに座り、同じように仕事をする姿を繰り返し目にするうちに、その存在は「特別なこと」から「当たり前のこと」へと移行していった。

部下の中に、入社三年目の長尾という若い男がいた。

真面目だが、客先での折衝が苦手で、いつも報告書が事実の羅列になる。伝えたいことの核心が、どこか別の場所に埋まってしまうタイプだった。

ある日、長尾が商談の報告に来た。

「先方は概ね前向きでしたが、価格面で懸念を示されまして、次回の打ち合わせで詳細を詰めることになりました」

桐島は報告書を見ながら聞いていた。

「先方の懸念は、価格そのものか、それとも支払いサイクルか」

「えっと……価格、だと思います」

「思います、じゃなくて。聞いてきた?」

長尾が黙った。

「次の打ち合わせで詳細を詰めると言うが、相手が何を詰めたいのかわかってないまま臨んでも、また持ち帰りになる。今日中に電話して、懸念の中身を確認してきて」

「はい」

「怖くない。向こうも早く決めたいんだから」

長尾は「わかりました」と言って席に戻った。

その背中を見ながら、桐島は三十代の自分を思い出した。自分もかつて、同じように先輩に詰められた。あのときの経験が、今の自分の仕事の仕方を作っている。経験は、体が変わっても消えない。四十七年分の記憶と判断は、この二十歳の体の中に、完全に残っていた。

夕方、長尾が再び来た。

「先方に確認しました。懸念は価格ではなく、支払いサイクルでした。月末締め翌月払いを、翌々月にできないかという話でした」

「そっちなら話が早い。対応できる範囲で条件案を作って、明日の朝イチで見せて」

「はい。……あの、桐島さん」

「なに」

長尾は少し迷ってから言った。「なんで支払いサイクルだとわかったんですか」

「価格に問題があるなら、その場でもっと突っ込んでくるから。持ち帰るということは、上に判断を仰ぐ必要がある社内の事情があるということ。社内の事情で多いのは、キャッシュフローの問題」

長尾は真剣な顔でメモを取った。

桐島はその姿を見て、悪くないと思った。

仕事は、続いている。桐島修二の仕事は、ちゃんと続いている。


五月の連休明け、部長の坂本に呼ばれた。

坂本は五十代の温厚な人物で、桐島の復職を一番積極的に支持してくれた上司だった。

「桐島、次の期から主任課長に上げようと思う」

桐島は少し間を置いた。

「体のことで、同情的な判断ではないですよね」

坂本は苦笑した。「田中部長から連絡が来てな。あなたがいれば安心だって。それに長尾が変わってきた。人が育つのは、いいマネジャーがいる証拠だ」

「……ありがとうございます」

「受けてくれるか」

「受けます」

坂本の部屋を出て、廊下を歩いた。

窓から、五月の空が見えた。

新緑の緑と、深い青。この季節はいつも、サッカーシーズンの始まりを連想させた。土と草の匂い、スパイクの感触、笛の音。そういった記憶が、今の体とつながり始めていた。

まだ迷いはある。田村葵のことは、頭から離れない日のほうが多い。この体を自分のものだと完全に思えるかと問われれば、まだ言い切れない。

それでも、と桐島は思った。


桐島修二は、ここにいる。

仕事をして、部下を育てて、取引先に信頼され、昇進する。外見がどう変わっても、声が変わっても、スーツの形が変わっても、この会社の中に自分の居場所がある。それは誰かから与えられたものではなく、桐島が四十七年かけて積み上げてきたものだった。

エレベーターのボタンを押した。

扉が開き、桐島は乗り込んだ。

鏡張りの扉に、自分の姿が映った。

紺のスーツ、短く整えた髪、年齢を経て柔和になった、自分の顔。

桐島修二が、そこにいた。


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