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途切れた道のその先は  作者: 月の輝く夜に
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動く体

六月の初め、桐島はランニングシューズを買いに行った。


スポーツ用品店に入り、シューズのコーナーに立つと、まず男性用と女性用の棚が別れていることに気づいた。当然のことだが、桐島は一瞬そこで止まった。どちらを見ればいいのか、という問いが来る。戸籍は男性だ。意識も男性だ。しかし足のサイズは二十三・五センチで、男性用のラインナップにはほとんど存在しないサイズだった。


女性用の棚に向かった。

店員が近づいてきた。若い男性で、桐島の顔と棚を交互に見た。一瞬の間があったが、すぐに「何かお探しですか」と言った。その対応の速さに、桐島は内心で感謝した。

「ジョギング用で、足に負担が少ないもの」

「サイズは?」

「二十三・五」

試着を三足した。


二足目で、ピンときた。クッション性が高く、かかとのホールドがしっかりしている。足裏への接触が、以前のサッカースパイクとはまったくちがうが、それはそれとして、このシューズは今の足に合っていると感じた。

レジに向かいながら、桐島は思った。

今の足に合っている、と自然に考えた。

少し前までは、そういう考え方ができなかった。今の足、今の体、という言葉を使うたびに、それが田村葵のものであるという意識が先に来た。しかし最近、その順番が少しずつ入れ替わりつつある。まず「今の自分の体」があり、その次に葵のことを思う。その変化が、罪悪感なのか、適応なのか、桐島にはまだはっきりと判断できなかった。


最初のジョギングは、六月の第二土曜日だった。

早朝五時半。空はまだ薄暗く、街は静かだった。桐島はウィンドブレーカーを羽織り、玄関を出た。

走り出す前に、少しストレッチをした。

足首を回す。膝を伸ばす。前屈する。

...前屈で、手が地面についた。


桐島は、その事実をしばらく処理できなかった。

以前の自分は、前屈で指先が床から十センチほど浮いていた。四十代の体の、それが現実だった。どれだけ続けてもそれ以上は縮まらず、柔軟性の限界というものを実感していた。しかし今、手のひら全体が、冷たいアスファルトに触れている。体の前面が、すっと折れている。抵抗がない。痛みもない。まるで体に、もともとそういう設計が組み込まれているかのように、曲がる。


「……なんだこれ」

呟きが、白い息になった。

桐島はそのまま、もう少し前傾してみた。頭が膝に近づく。ハムストリングスの伸びを感じるが、それは心地よい伸びであり、限界の手前ではなかった。まだ先がある。この体の柔軟性には、まだ余白がある。


走り始めた。

最初の数十メートルは、意識的にゆっくり入った。体の動き方を確認するように、一歩一歩の感触を拾いながら走った。

着地。蹴り出し。腕の振り。呼吸。

全部が、軽かった。

体重が軽いというのは、走ることにおいて、これほど意味があるのかと思った。以前の自分の体重は78キロだった。今の体は55キロ。その差23キロが、一歩ごとに膝と腰にかかる負荷の違いとして現れる。走っていて、疲れにくい。それだけでなく、ピッチが上げやすい。足が回る速度が、まるでちがう。

しかし。

三百メートルほど走ったところで、桐島は速度を落とした。


胸が、揺れる。

わかっていたことだった。頭では完全に理解していた。しかし実際に走ってみると、その感覚は想像とはまったく別の次元にあった。スポーツブラを着けていたが、それでも、走るたびに胸部に重量の移動が生じる。上下の振動が、体幹への微妙な負荷になる。以前の体では存在しなかった感覚が、走るたびに繰り返し届いてくる。

意識したくないのに、意識せざるを得ない。

桐島は少しペースを落とし、腕の振り方を変えた。腕を体に近づけ、体幹への入力を安定させる。少しフォームが変わるが、揺れが収まった。


次は、下半身の感覚だった。

走るたびに、下半身の中心部への感覚入力が、以前と根本的にちがう。以前の体にあったものが、今はない。その不在が、走るたびに意識に上がってくる。物理的な問題というより、神経が慣れ親しんだパターンと、現実の体との間にある乖離が、定期的に「ちがう」という信号を送ってくる。

最初のうちは、それが走りに集中することを妨げた。

一キロ、二キロ。


しかし桐島は走り続けた。

三キロを過ぎたころから、何かが変わってきた。

体が温まるにつれ、意識の配分が変わった。股間の不在感や胸の揺れへの意識が、じわじわと背景に退いていき、代わりに前景に出てきたものがあった。

呼吸だった。

この体の肺活量が、尋常ではない。

バレーボールの強豪校で鍛えられた心肺機能は、三キロ程度では微動だにしなかった。息が上がらない。筋肉が悲鳴を上げない。以前の自分なら、四十代の体でこのペースを維持すれば、三キロ地点で心拍数がかなり上がっていたはずだ。しかし今、心臓は落ち着いている。まだ先に行けると、体が言っている。

もう少し上げてみた。

体が応えた。

ピッチが上がった。ストライドが伸びた。地面からの反発力が、足裏を通して膝、腰、背骨へと伝わってくる。その伝わり方が、弾むようだった。以前の体にはなかった弾力性。アキレス腱とふくらはぎが、バネのように機能している。踏んで、返ってくる。その返りが大きい分、同じエネルギーでより遠くに進める。


五キロを過ぎた。

桐島は気づいたら、笑っていた。

誰もいない早朝の住宅街を、一人で走りながら、笑っていた。おかしくて笑ったのではなく、体の中から何かが溢れてきて、それが笑いという形で出てきた。喜び、と呼んでいいのかどうかもわからない。ただ、体が動くことが、こんなに純粋に気持ちいいとは思っていなかった。

六キロ。七キロ。

止まれなかった。


帰宅すると、恵子がコーヒーを入れていた。

「何キロ走ったの」

「八キロちょっと」

恵子が振り返った。「八キロ? 初日に?」

「止まれなかった」

恵子は少し考えてから「ちゃんと食べなさいよ」と言った。

それだけだったが、桐島にはその一言で十分だった。


七月になると、桐島は毎朝走るようになっていた。

距離は十キロ前後。ペースも上がっていた。走るたびに、自分の体への理解が深まっていく感覚があった。最初に戸惑った胸の感覚も、適切なウェアと走り方の調整で、意識の表面から沈んでいった。股間の不在感も、時間とともに「そういうものだ」という認識に落ち着きつつあった。


ある朝、いつもと別のルートを走った。

川沿いの土手道で、緩やかなアップダウンがある。七月の朝の空気は湿っていたが、川面を渡る風がそれを緩和していた。

上り坂に差し掛かった。

以前の自分なら、ここで大腿四頭筋への負荷を感じ、ペースを落としていた。しかし今の体は、坂への応答がちがった。体幹が安定したまま、重心がすっと前に乗る。股関節の可動域が広いため、一歩一歩のストライドが坂でも落ちない。むしろ、坂でのほうが今の体の特性が出る気がした。

頂点に出た。

眼下に川が広がり、朝の光が水面に散らばっていた。

桐島は立ち止まらずに、そのまま下り坂に入った。

下りで、体が前に出た。

重心が低く保たれ、膝への衝撃をうまく吸収しながら、速度が乗っていく。以前の重い体では、下り坂は膝への負担を気にして抑制的に走っていた。しかし今の体は、下りを恐れない。むしろ下りで加速できる。バネが、下方向の力を前方向に変換していく。


気づいたら、全力に近い速度で走っていた。

風の圧力が、顔に当たった。

髪が、後ろへ流れた。

肺が、限界に近いところで動いていた。

しかしそれは、苦しいというより、体が全力を出しているという充実感だった。エンジンが、設計通りの出力を発揮している、そんな感覚。この体は、動くために作られている。鍛えられ、調整され、最高の状態で維持されてきた機械のような体が、今ようやく、本来の目的に近いことをしている。

土手の下で、速度を落とした。


心拍が高い。呼吸が荒い。汗が、額を伝う。

しかし桐島は、しばらくその場に立って、自分の呼吸が素早く整っていくのを感じていた。


田村葵。

君の体は、すごい。

声に出さずに、思った。

罪悪感と感謝が、今も同時にある。その二つは、対立するものではなく、同じ場所に共存するものだと、最近わかってきた。この体への感謝を持つことは、葵への冒涜ではない。この体が優れていることを喜ぶことは、葵の死を軽んじることではない。

桐島は走り続けることにした。

この体が持つ能力を、できる限り使いきることが、今の自分にできる最善の応答だと思うようになっていた。


八月の終わり、桐島は近所のスポーツジムに入会した。

体験レッスンでトレーナーに体組成を測定してもらうと、体脂肪率が十七パーセントで筋肉量が標準を大きく上回っていた。トレーナーが「アスリートみたいな数値ですね」と言った。

「元バレーボールの選手の体なので」と桐島は答えた。

トレーナーは少し考えてから「なるほど」と言い、それ以上聞かなかった。

ジムで、桐島は様々な動きを試した。

懸垂をした。以前の体では五回が限界だった。今は十五回できた。

ボックスジャンプをした。この体のジャンプ力は、自分でも驚くほどだった。重心が低く保たれたまま、膝と足首のバネが同時に解放される。床から跳び上がる瞬間の、爆発的な力の集約。以前の体では感じたことのない、純粋な跳躍の感覚だった。

ラダートレーニングをした。

足が、速かった。

細かいステップの切り替えが、思考より先に体がついてくる。神経の伝達速度が、若い体の特権として存在していた。四十七歳の脳が意図した動きを、二十歳の神経系が瞬時に実行する。その組み合わせが生み出すものを、桐島は少しずつ理解し始めていた。

経験と、肉体。

どちらかではなく、両方がある。

その事実が、桐島の中で静かに、しかし確実に、大きくなっていった。


九月の最初の週末、桐島は公園のフットサルコートに向かった。

ボールを一個持って、一人でコートに入った。

誰もいなかった。

ボールを地面に置き、しばらくそれを見た。

それから、蹴った。

ゴールに向かって、シュートを打った。

ボールがネットに突き刺さった。

音が、コートに響いた。

桐島はその音を聞きながら、もう一度ボールをセットした。

次の一本も、その次も、ネットに吸い込まれた。

胸の感覚も、股間の不在も、今この瞬間は遠かった。あるのは、ボールと、足と、ゴールだけだった。

この体で、サッカーができる。

まだそれが何を意味するか、どこへ向かうのかは、わからない。

ただ桐島は、秋の朝の光の中で、一人黙々とボールを蹴り続けた。


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