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途切れた道のその先は  作者: 月の輝く夜に
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帰還

退院の日、桐島は病院の玄関で立ち止まった。

自動ドアが開き、十二月の空気が流れ込んでくる。冷たい。その冷たさが、首から下の皮膚に触れた瞬間、全身がわずかに粟立った。以前の自分の体なら、この程度の気温は「少し寒い」で済んでいた。しかし今の体は、寒さの受け取り方がちがう。皮膚が薄い分だけ、外気をじかに拾う。冬の空気が、針のように細かく、全身に刺さってくる感じがした。


車が待っていた。

運転席には、妻の恵子がいた。五十二歳。結婚して二十三年。桐島より五つ年上で、その落ち着きをずっと頼りにしてきた女性だ。恵子は助手席のドアを開け、桐島が乗り込むのを待った。何も言わなかった。余計なことを言わない人だった。

桐島はシートに座り、シートベルトを締めた。

バックルを探す手が、一瞬迷った。体の幅が、以前と変わってしまったから。腰の位置も、腕の長さも、すべてが微妙にずれている。シートベルトが斜めにかかる角度が、記憶とちがう。そんな些細なことが、じわりと堪えた。

恵子がエンジンをかけた。

「寒くない?」

「少し」と桐島は答えた。

恵子は黙って、暖房の温度を上げた。


二人の間に、言葉はしばらく来なかった。それは気まずい沈黙ではなく、言葉にするには複雑すぎる何かを、二人でただ抱えているような沈黙だった。桐島は窓の外を流れる景色を見ていた。師走の街。買い物袋を提げた人々。自転車。信号。何一つ変わっていない日常の風景が、どこか遠い映画のスクリーンのように見えた。

「ご飯、何が食べたい」と恵子が聞いた。

「なんでも」

「なんでもって言う人に限って、作ったら文句言うのよ」

桐島は少し笑った。笑い声も、高かった。

恵子はちらりとこちらを見た。その目に何があったか、桐島には読み取れなかった。悲しみか、安堵か、あるいはその両方か。二十三年間連れ添った妻でも、今の自分を見てどう感じているのかは、もう簡単にはわからない。


自宅に着いた。

玄関を上がり、廊下を歩いた。

足音が、軽い。

以前の自分は、歩くたびに床がわずかに鳴った。体重のある男の歩き方だった。それが今は、ほとんど音がしない。自分の存在が、家の中から消えかけているような、奇妙な感覚。

リビングに入ると、娘の美鈴が立っていた。大学二年生、二十歳。今年の春から一人暮らしを始めたはずが、退院に合わせて帰ってきていた。もう一人の息子は今日はいない。


美鈴は桐島の顔を見た。

桐島も美鈴の顔を見た。

「……お帰り」と美鈴は言った。声が少し震えていた。

「ただいま」

美鈴は泣かなかった。唇をきつく結んで、泣くまいとしているのが見えた。桐島はその表情が、子供のころから変わっていないと思った。小学校の運動会で転んで膝を擦りむいたとき、美鈴はこんな顔をしていた。泣きたいのに泣くまいとする、その頑固な表情。

桐島は何か言おうとして、言えなかった。

父親として何を言えばいいのか、わからなかったのではない。言葉は浮かんでいた。しかし今の自分の姿が、どれだけ美鈴の中の「父親」という像を壊しているか、それを思うと声が出なかった。

恵子が「お茶にしましょ」と言い、三人は食卓についた。


夜、桐島は一人で浴室に入った。

恵子は「手伝おうか」と言ったが、桐島は断った。病院のリハビリで、日常動作はひと通りこなせるようになっていた。問題は技術ではなく、別のところにあった。


鏡が、ある。

洗面台の上の、縦長の鏡。

桐島は服を脱ぐ前に、しばらくそこに立っていた。今の自分の姿は、入院中も何度か見ていた。しかし病院の鏡は小さく、また医療的な文脈の中で見るのと、自宅の浴室で一人きりで見るのとでは、意味がちがう。

ゆっくりと、着ているものを脱いだ。

鏡の中に、女性の裸体があった。

当たり前だ、とわかっている。わかっているのに、脳が処理しきれない。自分の体を見ているはずなのに、他人を見ているような感覚。それでいて、確かにこれは自分の体で、意識を向ければ皮膚の感触が返ってくる。


鏡の中の体は、美しかった。アスリートの体らしく、グラビアのモデル体型というわけではない。しかし、鍛えられた筋肉と、女性的な柔らかさが両立している。そしてなにより、輝くような若さがある。


その認識が来た瞬間、桐島は目を逸らした。

しかしすぐに気づいた。目を逸らした、ということ自体の意味に。自分の体を見て、美しいと思った。四十七年間男として生きてきた意識が、今の自分の体を、女性として認識し、その美しさを感じた。それは反射的な、抑えようのない知覚だった。


罪悪感が、波のように来た。

この体は、自分のものではない。

二十歳だった。名前は、田村葵といった。移植医療チームから聞かされた名前。富山出身で、バレーボール一筋に育ってきた。好きな食べ物はカレーライスで、将来は体育教師になりたかったという。担当医が、個人情報ですがと前置きし、家族の同意を得たうえで、「知っておいてほしい」と伝えた言葉たち。


田村葵は、死んだ。

その体の上に、桐島修二が乗っている。

美しいと思う資格が、自分にあるのか。この体を性的な対象として知覚することは、死者への冒涜ではないのか。いや、そもそも「この体」と「田村葵」は、切り離して考えることができるのか。今ここにある肉体は、田村葵の意識が去ったあとの、単なる器なのか。それとも、まだここに彼女の何かが宿っているのか。


桐島は浴槽の縁に腰を下ろした。

湯気が、顔に当たった。

考えれば考えるほど、答えが遠ざかっていった。哲学的な問いでも、倫理的な問いでもなく、もっと根源的な、どこにも持っていけない問いだった。

しばらくして、桐島はシャワーを出した。

お湯が、背中に落ちた。

細い肩。くびれた腰。長い脚。これが今の自分だ。好むと好まざるとにかかわらず、これが今の自分の体だ。そう言い聞かせながら、桐島は黙って体を洗った。


年が明けた。

一月の初め、桐島は近所の公園に出かけた。走るためではない。ただ歩くために。リハビリの一環として、毎朝三十分歩くことにしていた。

早朝の公園は人が少なかった。犬を連れた老人が一人、遠くのベンチに座っているだけだった。桐島は舗装された遊歩道を、ゆっくりと歩き始めた。


呼吸が、楽だった。

これが毎回、微妙に桐島を驚かせた。四十代の体は、無意識に蓄積された疲労というものがある。睡眠で取り切れない疲れが、常に底に残っていた。しかしこの体には、そういった澱がない。朝起きた瞬間から、体が軽い。肺が広い。空気を吸い込むたびに、それが隅々まで行き渡る感じがする。


公園の端に、小さなフットサルコートがあった。

金網越しに、コートが見えた。

ゴールポストの錆。人工芝の緑。桐島は立ち止まり、その光景を見つめた。

もうサッカーはできない、と思っていた。正確には、するべきではないと思っていた。今の体は田村葵のものであり、その体を自分の趣味のために使うことへの抵抗感が、ずっとあった。この体はバレーボールのために鍛えられた体で、自分がサッカーをするために存在した体ではない。


それに、と桐島は思った。

今の自分がボールを蹴る姿を、誰かに見られたら。

男性の顔と女性の体。その組み合わせは、依然として奇妙に映るはずだ。退院してからの数週間、近所のスーパーに出かけるたびに感じた。視線。直接ではなく、ちらりとした、しかし明確な視線。桐島はそれを無視することを覚えつつあったが、慣れたとは言いがたかった。

金網に手をかけた。

指が、冷たい金属に触れた。

ここで学生時代、よく友人たちとボールを蹴った。就職してからも、近所のフットサルチームに混ざって、週末ここに来ていた。息子の拓海が小さかった頃は、この同じコートで一緒に遊んだ。

遠くで、カラスが鳴いた。

桐島は金網から手を離し、また歩き始めた。


二月になったころ、高校時代のサッカー部の仲間、瀬川から連絡が来た。

瀬川俊介。今も社会人リーグでプレーを続けている、桐島の数少ない旧友のひとりだ。事故の後、一度見舞いに来ていた。あのとき瀬川は、病室のドアを開けた瞬間に固まり、それでも「よう」と言った。その「よう」の一言に、桐島はどれだけ救われたかわからない。

メッセージには、こう書いてあった。

「今度の日曜、コートで軽く蹴るだけだけど来ない?来なくてもいいけど」

桐島はしばらく、その文面を眺めた。

来なくてもいい、という一言が、瀬川らしかった。来い、と言わずに、来なくてもいいと言う。それが強制ではなく、ただの選択肢として提示されているから、桐島は逃げ場を失わずに済んだ。

断ろうと思った。

打ちかけた断りの文章を、三回消した。

気づいたら「行く」と返信していた。


日曜日の朝、桐島は恵子に何も言わずに出かけようとした。玄関でスニーカーを履いていると、恵子がリビングから顔を出した。

「どこ行くの」

「……ちょっと」

「瀬川くんから連絡来てたでしょ」

恵子は全部知っていた。いつもそうだった。桐島が言わなくても、恵子は大抵のことを知っていた。

「行ってらっしゃい」と恵子は言った。ただそれだけ言った。

桐島は玄関を出た。


冬の空が、高く青かった。

公園のコートには、すでに数人が集まっていた。顔見知りばかりだったが、一年近くぶりの顔もいた。皆、桐島を見た。一瞬の沈黙があった。それを破ったのは、瀬川だった。

「遅い」

「五分しか遅れてない」

「俺たちの間では十分前集合が常識だろ、二十年前から」

笑いが起きた。緊張が、溶けた。

桐島はボールを受け取った。

右足のインサイドで、軽くトラップした。

ボールが止まった。

完璧に、止まった。

桐島は驚いた。以前の自分のトラップは、四十代なりの衰えがあった。ボールがわずかに跳ねたり、意図した位置より数センチずれたりすることが増えていた。しかしこの体の足は、感度がちがう。神経の密度がちがう。ボールの重さと速さを、足裏が正確に読んでいた。


左足でボールを転がした。

体重移動が、滑らかだった。

重心が高いぶん、小回りが利く。以前の体では、方向転換のたびにある種の「もっさり感」があった。体重と筋肉量が、慣性を生んでいたから。しかし今の体は、方向を変える際の抵抗が少ない。意識した瞬間に、体がついてくる。

「いくぞ」と瀬川が言い、軽いパス回しが始まった。

桐島は動いた。

走った。

風が、頬を切った。

地面が、足の下を流れた。

肺が、冬の空気を吸い込んだ。

この感覚を、忘れていた。いや、この感覚とは、また別の感覚だった。以前のサッカーは、体を押し出すような力感があった。筋肉の塊が地面を蹴る、その爆発的な感触。しかし今の走りは、もっと流れるようだ。重力に逆らうのではなく、重力と協調しているような。地面を蹴るというより、地面を撫でながら進んでいるような感覚。

ボールが来た。

桐島は右足で受け、体を半回転させ、瀬川にパスを出した。


「……うまいな」と瀬川が呟いた。

「昔からうまかっただろ」

「そういう意味じゃない」

瀬川は言葉を選ぶように少し間を置いてから、「なんか、ちがう動き方をする」と言った。

桐島は答えなかった。

答える言葉を、まだ持っていなかった。

ただボールを追いながら、桐島は思った。

田村葵。

この足は、あなたのものだった。この肺も、この手も。あなたが二十年かけて鍛えてきたものを、今、俺が使っている。

それが正しいことなのかどうか、まだわからない。

でも。

走ることが、こんなに気持ちいいとは、思っていなかった。

空が、青かった。

冬の光が、コートの人工芝に均等に降り注いでいた。ボールが転がり、笑い声が上がり、誰かが転んで泥だらけになった。何も変わっていない、いつもの光景。その中に、桐島修二は確かに、いた。

違和感がゼロだとは言えない。まだ言えない。しかしその朝、公園のコートを出るとき、桐島は帰り道のアスファルトを、少しだけ軽い足取りで踏んでいた。



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