蘇生
目が覚めたとき、最初に気づいたのは天井の白さだった。
病院特有の、感情を排したような白。蛍光灯の光が均等に広がり、影というものがほとんど存在しない空間。桐島修二は、その白を見つめながら、自分がまだ生きていることを、奇妙な距離感とともに確認した。
生きている。
だが、何かがちがう。
首から下が、遠い。
そう表現するほかなかった。腕があるはずの場所に意識を向けると、確かに何かが存在する感触はある。神経の細い糸が、まだ慣れない経路をたどって、かろうじてつながっているような、そんな頼りなさ。右手を動かそうとする。信号を送る。しかしその信号が届くまでに、普通ではありえない「間」があった。コンマ何秒かの遅延。健康だったころの自分の体なら、考えるより先に指が動いていた。その当たり前が、もうここにはない。
「桐島さん、聞こえますか」
声がした。視界の端に、白衣の人影が現れる。四十代とおぼしき男性医師で、目元に深い疲労を刻んでいた。その疲労が、この数週間の経緯を物語っていた。
桐島は口を開こうとした。
喉が動く。空気が通る。しかし出てきた声は、自分のものではなかった。
高い。
驚くほど、高い。
男の声帯というのは、長年使い込まれた楽器のように、ある種の重みと渋みを帯びるものだ。四十七年間、桐島の声はそうだった。朝礼で部下に話しかけるときの、少しかすれた中低音。電話口で取引先と交渉するときの、意図的に落とした声のトーン。それが今、跡形もなく消えている。
「あ……」
その一音だけで、桐島は黙った。
医師が近づいてくる。
「意識は戻っていますね。目の動きも正常です。今日は無理に話さなくていい。まず体の感覚を確かめてください。ゆっくりでいい」
ゆっくりでいい、と医師は言った。だが桐島の意識は、すでに「ゆっくり」などという状態にはなかった。
シーツの感触。
それが次に来た。
背中に当たる布の感触が、知っているようで知らない。以前の自分の体は、ある程度の厚みと重みで世界と接していた。肩幅があり、背中の筋肉が盛り上がり、横になるたびにマットレスがそれなりに沈んだ。しかし今感じる接触面は、薄い。軽い。体重が、まるで別の生き物のように少ない。
恐る恐る、視線を下げた。
シーツの膨らみ。胸のあたりの、二つの丘。
桐島は目を閉じた。
閉じて、また開いた。
消えていない。
これが現実だと、頭では理解していた。事故の前から、この手術の可能性については説明を受けていた。脳幹を含む頭部のみが無事で、身体は回復不能と診断されたとき、担当医が「前例のない選択肢」として提示したのがこの移植手術だった。ドナーは、同じ事故で脳死状態になった二十歳の女性。バレーボールの強豪大学に所属し、その身体能力は同世代の中でも抜きん出ていたという。家族の同意があった。桐島自身も、生きることを選んだ。
理解していた。同意もした。
しかし理解と、実感は、まったく別の話だった。
「足先を動かしてみてください」と医師が言った。
桐島は指示に従い、足の指に意識を集中した。
動いた。
シーツの先端が、微かに波打った。
それだけのことで、桐島は泣きそうになった。泣きそうになった理由が自分でもよくわからなかった。感動なのか、恐怖なのか、それとも取り返しのつかない何かへの哀悼なのか。四十七年間ともにあった自分の体は、すでにこの世界に存在しない。今ここにあるのは他人の体で、その他人はもうここにいない。
どちらが死んだのだろう、と桐島は思った。
三週間後、桐島は初めてリハビリ室に立った。
正確には、立たされた。理学療法士の若い女性が両脇を支え、平行棒を前に「体重をかけてみてください」と言った。桐島はその言葉に従い、足裏に意識を集中させた。
床の感触が、上がってくる。
冷たいリノリウムの硬さが、足の裏から膝へ、腰へと伝わってくる。その伝わり方が、やはり知っているようで知らない。以前の自分の足は、もっと地面との間に距離があった。靴のソールと、厚い皮膚と、重い骨格と。しかし今の足裏は、世界との境界が薄い。神経が、地面のテクスチャをダイレクトに拾い上げてくる。
「上手ですよ」と療法士が言った。
上手、という言葉が、妙に引っかかった。
自分はかつて、サッカーを三十五歳までプレーしていた。学生時代から社会人リーグまで、二十年以上ボールを蹴り続けた人間だ。走ること、バランスをとること、体重移動、そういったことへの感覚的な理解は、骨の髄まで染み込んでいる。それなのに今、療法士に「上手」と褒められている。
二十歳の体に宿った、四十七歳の意識。
そのアンバランスを一番よく知っているのは、桐島自身だった。
平行棒を両手で握る。グリップの感触。指が細い。以前の自分の手は、長年のスポーツと事務仕事で、節くれだった厚みがあった。今の手は、滑らかで、柔らかく、指一本一本が長い。バレーボール選手の手だ。スパイクを打つために鍛えられた、しかし依然として女性の手だ。
療法士が「少し歩いてみましょうか」と言った。
桐島はうなずき、右足を出した。
一歩。
体の重心が、ひどく高いところにある気がした。以前の自分の重心は、もっと低く、どっしりとした安定感があった。今の体の重心は高く、そして軽い。風が吹いたら揺れそうな、そんな感覚。しかし同時に、足が地面を離れる瞬間の軽さが、尋常ではなかった。
二歩、三歩。
療法士が手を放した。
桐島は、一人で立っていた。
窓の外に、曇り空が見えた。十一月の、色のない空。桐島は二十年前のサッカーグラウンドを、ふと思い出した。冬の早朝練習、白い息、泥だらけのスパイク。その記憶は、今の自分の体と、恐ろしいほど結びつかない。
「桐島さん?」
療法士の声で、我に返った。
「大丈夫です」と桐島は答えた。
その声の高さに、まだ慣れない。おそらく、しばらくは慣れないだろう。




