魔法
スウェーデンは、強いチームだった。
突出したスターはいない。しかしそれが逆に、厄介だった。全員が高水準でまとまっている。平均身長は一八八センチ。フィジカルと戦術と技術が、どの選手にも同じ水準で備わっていた。弱点を突こうとしても、どこにも隙がなかった。
グループステージの成績は、オランダに一対零で敗れ、チュニジアに二対零で勝利。日本と同様に、この最終戦の結果がグループステージ突破を決める試合だった。スウェーデンは引き分け以上でも状況次第で突破の可能性があった。
日本は、勝たなければならなかった。
引き分けた場合、別会場で同時進行しているオランダ対チュニジアで、オランダがチュニジアに二点差以上で勝てば、日本は敗退する。
体を動かした。今日は、軽かった。ホルモン周期の重さは、とっくにピークを過ぎていた。頭の霞もない。体が、自分のものとして動く。風が、ピッチの情報が、この敏感な体を通していつも以上にはっきりと入ってくる感覚があった。
* * *
前半は、緊迫した展開になった。
スウェーデンはプレスが速く、日本がビルドアップしようとすると、すぐに複数人が寄ってきた。それでも日本は崩れない。ディフェンスラインからの丁寧なビルドアップと、ボールを失ったあとのプレスバックは十分に機能している。
二十三分、日本のショートカウンターが決まった。右サイドからの展開で、川田がDFの裏に抜け出した。GKと一対一。落ち着いて流し込んだ。
一対零。
しかしスウェーデンは動じなかった。三十七分、警戒していたコーナーキックからセットプレーで合わせられた。高さで勝るスウェーデンが、ヘッドを叩き込んだ。
一対一。
その緊張のままハーフタイムを迎えた。
浜田監督は「前半はよくやってくれた。他会場の経過は気にするな」と言葉をかけた。ハーフタイムに、他会場の結果は伝えられなかった。しかし、言葉と裏腹にスタッフがかなり意識をしていることは伝わった。実は、この時点で、オランダは既に2点をチュニジアからもぎ取っていた。
メンバー交代なしに後半が始まった。
スウェーデンは後半から布陣を少し変えてきた。中盤の守備強度を上げ、日本の縦パスをより厳しく封じ、ポゼッションよりもカウンターを発動しやすい形になってきた。日本は、ボールを持てているが、リスクを感じてなかなかバイタルエリアに入れられず、ポケットを取る縦パスを封じられていた。
時計が進んだ。六十分。六十三分。
浜田が逡巡して、スタッフと協議していた。この状況は、チュニジア戦の時にも似たところがあった。チュニジア戦の二の舞にならないかという怖さが、浜田を縛っていた。時間は過ぎていく。他会場の経過は動かず、焦りが募るが、迷いは更に強くなる。
浜田の目は、浜田自身も自覚しないまま、桐島に落ちていた。桐島はそれに気づき、促すような、確信に満ちた目で浜田を見返した。浜田は決断した。
桐島がピッチに入った瞬間、スウェーデンベンチも動いた。
選手交代の表示が出た。入ってきたのは、体格のいいMFだった。一九二センチ。スウェーデンの中でも特にフィジカルが強い選手だった。配置を確認すると、桐島のポジションの周辺に入ってきた。
対策が来た、と桐島は思った。
オランダ戦とチュニジア戦の映像は世界中が見ている。桐島がボールを持ったときに何が起きるかを、スウェーデンは研究していた。持たせた後では遅い。ならば、1人をビルドアップから下げてもマーカーに桐島にボールが入る瞬間を狙い、体を密着させ自由にさせない。
最初のボールは、日本がビルドアップをしている中で入ってきたボールだった。
桐島がボールに触れる前に、マーカーが横から体を合わせてきた。一九二センチの体重が、一六八センチの体に当たり、思わず桐島のコントロールが乱れた。こぼれ球になり、スウェーデンのボールになったが、これは素早い日本のプレスバックにより事なきを得た。
が、チームに動揺が走っていた。オランダ戦であれだけ機能した選手が、最初の接触で機能しなかった。その事実が、周囲の空気を重くした。
だが、桐島は自信に満ちた目で、「大丈夫だ」
と告げた。
* * *
二度目のボールは、今度はスウェーデンがボールをポゼッションしている中で、インサイドハーフが触り、ディフェンスラインの山岸の足下にこぼれたものだった。
山岸は、迷いなく、桐島にボールを預けることを選択していた。さっきの状況や、残り時間を考えれば決してその決断は容易ではなかっただろう。
マーカーは、スウェーデンのポゼッションには積極的に加わらず、常に桐島の側にいた。今度も少し早めに、後ろから体を当ててくる動きをしている。
桐島はその動きを背中で感じていた。マーカーの体重は、前にかかっている。
桐島はボールを近めでトラップするふりをして、身体の向きを変え、逆足でボールをとらえた。
マーカーは回転に巻き込まれ。前に出ようとしていた重心が、一瞬宙に浮いた。しかし、192センチの身体は、手を伸ばして桐島を捉えることができる...はずだった。
相手が重心を前から後ろに切り替えようとした、まさにその瞬間——桐島は自分から軽く体を当てた。押した、というより触れた、という程度の力だった。
重心が切り替わる瞬間に、外からわずかな力が加わった。それだけで、一九二センチの体が、バランスを保てなくなった。マーカーは、尻もちをついた。
マーカーは茫然とした表情で、芝の上に座っていた。自分に何が起きたかを、理解しようとしていた。体格差は圧倒的だった。接触の瞬間、相手の体に硬さを感じなかった。押された感覚もなかった。なのに、倒れた。
マーカーは、短く何か言った。
英語だった。「Magic」
桐島はすでに前を向いてボールを持ち出していた。
空いた右のスペースに、川田が動き出していた。桐島はボールを出した。
川田がボールを受けた。
スウェーデンのDFラインが崩れていた。マーカーが倒れたことで、桐島が崩れたところを待ち構えていた守備の形が、完全に崩れていた。川田は外に開きながらボールを持ち、中を見た。
センターフォワードが走り込んでいた。
川田はグラウンダーのパスを出した。
ボールがDFとGKの間を抜けた。センターフォワードがファーサイドでワンタッチで合わせた。
ネットが揺れた。
二対一。
スタンドが揺れた。日本のサポーターが立ち上がった。
スウェーデンは必死に押し返してきた。
しかしマーカーが迷っていた。もう一度桐島に当たりに行くべきか。しかし同じことをされたら、また自分が倒れる。その迷いが、守備の判断を遅らせた。桐島に強くいけず、中途半端なプレスにならざるを得なかった。そこを狙い所として設定していたスウェーデン全体も、意思統一が取れなくなった。
八十一分、強引にゴールに迫ろうとするスウェーデンから日本のディフェンスが奪ったあと、また日本の陣内のちょうど中央の位置で桐島にボールが入った。2人がかりでで強引にプレスバックしようとするスウェーデンをかいくぐり、桐島は前線にボールを出した。さっきのリプレイのようなカウンターが始まった。
今度は、桐島も前線に走った。トップスピードは本来スウェーデンの選手はおろか、日本のすべての男子カテゴリの選手にも及ばないはずだが、桐島は途中からの投入であり、葵から受け継いだ走力は、この試合最終盤で、十分にスウェーデンのディフェンスを切り破ることができた。右サイドに流れた川田は、数的優位でいくつかの選択肢があることを確認しながら、あたかも長い距離のワンツーのように、センターバック2人の間を割って走り込んできた桐島に速いボールを繰り出した。
GKは桐島のトラップが流れることを期待して前に出ようとした。全速力で走って、横からシュート性の速いボールが入って来たとき、例え世界のトップ選手でも100%完全にコントロールすることは難しい。
その予測を裏切るように、ボールは柔らかく桐島の足元に、あたかも最初からそこにあったかのように収まった。あり得ない柔軟性だった。
そして、GKの挙動の裏を突くようなループ気味の桐島のシュートは、ピッチに虹を描くようにスウェーデンのゴールネットを揺らした。
三対一。
スウェーデンの選手たちの心が折れた。
残りの時間とロスタイムを日本は何なく耐え切り、最後の笛が鳴った。
* * *
日本がスウェーデンを下し、グループステージ突破を決めた。三大会連続のラウンド十六強進出だった。
ピッチ上で選手たちが抱き合っていた。浜田がピッチに入ってきた。山岸キャプテンと握手をした。
桐島はその中にいたが、スウェーデンの選手が自身のユニフォームを手に近づいてきた。例のマーカーだった。試合中の茫然とした表情とは違い、今は落ち着いた顔をしていた。
「ユニフォームを交換してもらえますか」
英語だった。桐島は一瞬、考えた。
「すみません。できません」
マーカーは怪訝な顔をした。拒絶が、桐島がそうしたくないというより、できないことを残念がるような表情とともにされたからだった。
「なぜですか」
桐島は少し間を置いてから、「私は、肉体的には女性です。人前で上半身を出すことができません」と恥ずかしそうに言った。
マーカーが固まった。
数秒の沈黙があったあと、マーカーはしばらく桐島の全身を見ていた。何かを言おうとして、言葉が見つからないようだった。試合中の「Magic」という言葉が、今の表情に重なった。
「わかりました」とマーカーはようやく言った。「ありがとう、あなたはスペシャルだ」
それだけだった。
マーカーは仲間のところへ戻っていった。途中で振り返り、もう一度桐島を見た。それから、何か仲間に言った。仲間たちが桐島を見た。
その視線の意味を、桐島は正確には受け取れなかった。ただ、敵意ではなかった。
翌日、複数の海外メディアがその場面を記事にした。見出しは一つではなかった。しかしその中の一つが、広く拡散した。「魔女」「東洋の魔女」。試合中にマーカーがつぶやいた言葉が、奇しくも桐島の二つ名の語源になった。
* * *
合宿地に戻ったその夜、チームが沸いた。グループステージ突破は、今や日本に課せられたノルマのようなものでもあったが、その重圧から解放された。
食堂のテーブルが寄せられ、誰かが音楽をかけた。選手とスタッフが入り交じって、勝利を噛みしめた。グループステージ三戦で2勝1分。堂々と1位通過で決勝トーナメントへの切符を手にした。
宮内もいた。宮内も次の試合から出場できる。それがが、桐島の気持ちを少し軽くした。
食堂の隅に浜田が立っていた。騒ぎには加わらず、選手たちを見ていた。桐島と目が合った。浜田は一度、頷いた。
桐島も頷いた。
夜が更けたころ、浜田が全員を集めた。
「明日は一日フリーにする。街に出ていい。ただし、翌朝六時には全員ここに戻ること。決勝トーナメントに向けて切り替える時間に使ってくれ」
歓声が上がった。
桐島は食堂を出て、廊下を歩いた。
決勝トーナメント。次の対戦国はまだわからない。ただ、そこに行けることは決まった。
宮内に対して感じていた借りも、最低限返すことができた。
廊下の窓の外に、メキシコの夜空があった。空が近いからか、星が多かった。まだこの旅は続く。
桐島は少しの間、星を見ていた。




