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途切れた道のその先は  作者: 月の輝く夜に
22/34

代償

チュニジア戦の試合会場はアメリカ南部、ヒューストンのスタジアムだった。オランダ戦と比べると、日本人サポーターも多い。

チュニジアは第1戦を負け、後がない。最低でも引き分けがグループリーグ突破の条件だ。


空は曇っていた。試合前から小雨が降り続き、ピッチは水を含んでいた。芝の上を走ると、シューズが滑る感触があった。ボールも、乾いたピッチとは違う転がり方をする。日本のフィジカルコーチが「足を取られないように」と繰り返し言っていた。


チュニジアは、映像で見た通りのチームだった。いや、映像より速かった。個々の身体能力の高さと、一対一での技術の確かさ。特にウイングの二人は、仕掛けるタイミングと加速の鋭さが際立っていた。

日本は先発を五人入れ替えた。オランダ戦で消耗した選手を休め、この試合のために準備してきたメンバーを使った。

桐島はベンチにいた。

体の重さは、朝から続いていた。

起きたとき、すぐにわかった。昨夜の予感が現実になっていた。チームドクターと朝の段階で話した。プロトコル通りに対応する、という結論になった。プレーができないほどではない。ただ、頭に薄い霞がかかっているような感覚があった。集中しようとすると、いつもより一手間かかる。判断が、わずかに遅れる気がした。

ベンチに座って試合を見ながら、桐島はそのことを一人で抱えていた。


メディカルコーチから浜田にも伝わっているはずだった。浜田は試合前、桐島に一度だけ目を向けた。何も言わなかった。桐島も何も言わなかった。

*  *  *

前半は、互いに形を作りきれないまま進んだ。

日本はボールを持てた。ポゼッションは高かった。しかしチュニジアのゴール前は堅かった。ブロックを作り、縦のコースを消し、シュートコースに体を入れてくる。個の能力が高い分、守備の強度も高かった。日本の決定機は、前半を通じて二度しかなかった。どちらもシュートが枠をわずかに外れた。

チュニジアは守ってカウンターを狙っていた。日本がボールを失った瞬間、縦への切り替えが速かった。二度、ヒヤリとする場面があった。日本のGKが弾き出した場面と、シュートがポストを叩いた場面。

前半終了、スコアレス。


ロッカールームで浜田は、「高い集中力を持ってやり続けよう。ミスなく、かつ大胆にやろう」と言った。


後半に入っても、試合の構図は変わらなかった。ある意味チュニジアのペースであり、変える必要があるのはチュニジアではなく、日本には劇的に状況を変えるのは先制点しかないことが、この状況を作っている。

日本はボールを動かし、チュニジアの守備ブロックの外側を回した。しかし中に入れるコースがない。ウイングが縦に仕掛けると、チュニジアの両SBが素早くスライドして潰してきた。シュートまで持っていけない時間が続いた。

スタンドが少し静かになってきていた。試合が動かないことへの焦れが、観客にも伝わっていた。


後半二十分、浜田がベンチで動いた。

桐島の隣に来て、立ったまま言った。「行ってくれるか」

桐島は浜田を見た。

浜田の目が、すがるような色をしていた。これはチュニジア向けの戦術ではない。それは桐島にも、おそらく浜田にもわかっていた。しかし、このまま時間を使い続ければ勝ち点3を取れない。アジアで堅い相手を崩してきた桐島の経験に、今は賭けるしかない。その判断が、浜田の目の色に出ていた。浜田には女性チームを率いた経験がなく、その経験のなさがここで出た、ともいえる。


桐島は一度、自分の体を確かめた。

頭の霞は、まだあった。いつもと同じではない。しかし、ここで断ることも桐島にはできなかった。最終戦の相手はスウェーデンだった。格上の相手で、勝ち点3を取れる保証はない。グループステージを突破するためには、このチュニジア戦で勝ち点を積み上げておく必要があった。

「行きます」

桐島は立ち上がった。

*  *  *

ピッチに入ると、体が重かった。

走り出すと、感触がいつもと違うとわかった。足が動く。判断もできる。しかし、何かが薄かった。ボールの軌道を先読みする感覚、相手の動き出しを予測する感覚、その精度がわずかに落ちていた。

それでも、日本の攻撃に変化は生まれた。

桐島が中盤に入ったことで、チュニジアの守備ブロックの前に新しい目標ができた。チュニジアの選手が桐島を意識し始め、マークの配置がわずかにずれた。そのずれが、他の選手に少しだけスペースを作った。日本がより積極的に縦を狙い始めた。


六十七分、日本が連続してチュニジアのゴールに迫った。

シュートが一本、GKに弾かれた。その流れからコーナーキック。ショートコーナーを使い、クロスが入った。ヘッドが枠をわずかに外れた。

惜しかった。スタンドがどよめいた。

しかし次の瞬間、チュニジアがボールを持った。


そこで、桐島は気づくべきだった。

チュニジアのアンカーがボールを受けた瞬間、右ウイングが背後へ走り出した。その動きを、桐島は一瞬、見失った。霞の中で、判断が一手遅れた。

いつもなら、ここで横にポジションを修正する。相手のコースに体を入れる。しかし体が反応した時には、もう遅かった。

縦パスが通った。


チュニジアのウイングがDFとの一対一になった。加速した。振り切られた。フォワードにボールを渡し、そのままそのフォワードはゴールに向かって走り込んでくる。ディフェンスはスライドが間に合わない。日本のGKが前に出てきた。シュートが来る、そのタイミングで——

宮内が、横からスライディングで飛び込んだ。


ペナルティエリアの手前だった。相手の足ごと、引きずり倒した。

笛が鳴った。

主審が走ってきた。ポケットから出てきたのは、赤いカードだった。

スタジアムが揺れた。

宮内は抗議しなかった。カードを受け取って、ゆっくりとピッチを出ていった。

桐島は、その背中を見ていた。

何も言えなかった。

十人になってからの日本は、守備を固めた。

チュニジアの攻勢が続いた。フリーキックの場面、コーナーキックの場面。山岸を筆頭として日本のDFが体と声を張り続けた。GKが何度もビッグセーブをした。


桐島はピッチにいた。しかし、もう判断の精度を上げることはできなかった。体だけを動かして、コースを消し、ブロックの一部として機能するだけだった。

試合はそのまま動かなかった。

最後の笛が鳴った。

零対零。

勝ち点一。スウェーデン戦で最低でも引き分けが必要になった。

*  *  *

ロッカールームで、浜田は「自分のミスだ」と認めた。

選手たちは沈黙していた。負けたわけではなかった。しかし、誰も満足していなかった。宮内の椅子は、空だった。


桐島は着替えながら、自分の判断ミスを何度も頭の中で再生した。あの瞬間、ウイングの動き出しを見落とした。一手遅れた。宮内が体を張らなければ、失点していた。

それが事実だった。

*  *  *

翌朝、練習前にグラウンドへ行くと、宮内がいた。

一人で軽くジョギングをしていた。次の試合は出場停止だった。それでも体を動かしていた。

桐島は近づいた。宮内は桐島に気づいて、足を止めた。

「昨日は、すみませんでした」と桐島は言った。

宮内は少し首を傾けた。「何が」

「私の判断が遅れなければ、あなたがカードをもらうことはなかった」

「俺が判断してカードをもらったんです。桐島さんのせいじゃない」

「でも——」

「桐島さん」と宮内は遮った。声が静かだった。「あの場面で、俺には二つの選択肢があった。行くか、行かないか。行かなければ失点していた。行けば退場になる。俺は行くことを選んだ。それだけです」

桐島は黙った。


「敢えて言うなら」宮内は続けた。「ここで桐島さんとの旅が終わったら、嫌だと思った」

桐島は宮内を見た。

二十四歳の顔だった。怒っていなかった。後悔もしていなかった。ただ、真っすぐだった。

「……ありがとう」

「お礼はいりません」と宮内は言った。少し間を置いてから、「一つだけ」と続けた。

「何ですか」

「スウェーデン戦が終わったら、デートしてください」

桐島は一瞬、黙った。


「ごめんなさい」

「即答だ」

「それはそれ、これはこれなので」

宮内は笑った。声を出して笑った。桐島も、少し笑った。

二人の笑いが、朝のグラウンドに短く消えた。

*  *  *

練習が始まる前、桐島はグラウンドの端で一人、スパイクの紐を結び直した。

宮内は次の試合に出られない。その事実は変わらない。しかし宮内は、チームと桐島のために体を張った。余計なことを、と言える立場ではなく、それはピッチのなかでしか返せない借りだ。


スウェーデン戦に出て、引き分け以上の結果を作る。宮内を決勝トーナメントに連れていく。それが今の桐島にできる、唯一の返し方だった。

チュニジア戦での判断ミスは、体の状態が原因だった。しかし言い訳にはしない。あの一瞬の遅れが、宮内のキャリアに傷をつけた。その重さを、桐島は背負うことにした。

スパイクの紐を引いた。

グラウンドに朝の光が伸びてきていた。

スウェーデン戦まで、四日ある。


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