代償
チュニジア戦の試合会場はアメリカ南部、ヒューストンのスタジアムだった。オランダ戦と比べると、日本人サポーターも多い。
チュニジアは第1戦を負け、後がない。最低でも引き分けがグループリーグ突破の条件だ。
空は曇っていた。試合前から小雨が降り続き、ピッチは水を含んでいた。芝の上を走ると、シューズが滑る感触があった。ボールも、乾いたピッチとは違う転がり方をする。日本のフィジカルコーチが「足を取られないように」と繰り返し言っていた。
チュニジアは、映像で見た通りのチームだった。いや、映像より速かった。個々の身体能力の高さと、一対一での技術の確かさ。特にウイングの二人は、仕掛けるタイミングと加速の鋭さが際立っていた。
日本は先発を五人入れ替えた。オランダ戦で消耗した選手を休め、この試合のために準備してきたメンバーを使った。
桐島はベンチにいた。
体の重さは、朝から続いていた。
起きたとき、すぐにわかった。昨夜の予感が現実になっていた。チームドクターと朝の段階で話した。プロトコル通りに対応する、という結論になった。プレーができないほどではない。ただ、頭に薄い霞がかかっているような感覚があった。集中しようとすると、いつもより一手間かかる。判断が、わずかに遅れる気がした。
ベンチに座って試合を見ながら、桐島はそのことを一人で抱えていた。
メディカルコーチから浜田にも伝わっているはずだった。浜田は試合前、桐島に一度だけ目を向けた。何も言わなかった。桐島も何も言わなかった。
* * *
前半は、互いに形を作りきれないまま進んだ。
日本はボールを持てた。ポゼッションは高かった。しかしチュニジアのゴール前は堅かった。ブロックを作り、縦のコースを消し、シュートコースに体を入れてくる。個の能力が高い分、守備の強度も高かった。日本の決定機は、前半を通じて二度しかなかった。どちらもシュートが枠をわずかに外れた。
チュニジアは守ってカウンターを狙っていた。日本がボールを失った瞬間、縦への切り替えが速かった。二度、ヒヤリとする場面があった。日本のGKが弾き出した場面と、シュートがポストを叩いた場面。
前半終了、スコアレス。
ロッカールームで浜田は、「高い集中力を持ってやり続けよう。ミスなく、かつ大胆にやろう」と言った。
後半に入っても、試合の構図は変わらなかった。ある意味チュニジアのペースであり、変える必要があるのはチュニジアではなく、日本には劇的に状況を変えるのは先制点しかないことが、この状況を作っている。
日本はボールを動かし、チュニジアの守備ブロックの外側を回した。しかし中に入れるコースがない。ウイングが縦に仕掛けると、チュニジアの両SBが素早くスライドして潰してきた。シュートまで持っていけない時間が続いた。
スタンドが少し静かになってきていた。試合が動かないことへの焦れが、観客にも伝わっていた。
後半二十分、浜田がベンチで動いた。
桐島の隣に来て、立ったまま言った。「行ってくれるか」
桐島は浜田を見た。
浜田の目が、すがるような色をしていた。これはチュニジア向けの戦術ではない。それは桐島にも、おそらく浜田にもわかっていた。しかし、このまま時間を使い続ければ勝ち点3を取れない。アジアで堅い相手を崩してきた桐島の経験に、今は賭けるしかない。その判断が、浜田の目の色に出ていた。浜田には女性チームを率いた経験がなく、その経験のなさがここで出た、ともいえる。
桐島は一度、自分の体を確かめた。
頭の霞は、まだあった。いつもと同じではない。しかし、ここで断ることも桐島にはできなかった。最終戦の相手はスウェーデンだった。格上の相手で、勝ち点3を取れる保証はない。グループステージを突破するためには、このチュニジア戦で勝ち点を積み上げておく必要があった。
「行きます」
桐島は立ち上がった。
* * *
ピッチに入ると、体が重かった。
走り出すと、感触がいつもと違うとわかった。足が動く。判断もできる。しかし、何かが薄かった。ボールの軌道を先読みする感覚、相手の動き出しを予測する感覚、その精度がわずかに落ちていた。
それでも、日本の攻撃に変化は生まれた。
桐島が中盤に入ったことで、チュニジアの守備ブロックの前に新しい目標ができた。チュニジアの選手が桐島を意識し始め、マークの配置がわずかにずれた。そのずれが、他の選手に少しだけスペースを作った。日本がより積極的に縦を狙い始めた。
六十七分、日本が連続してチュニジアのゴールに迫った。
シュートが一本、GKに弾かれた。その流れからコーナーキック。ショートコーナーを使い、クロスが入った。ヘッドが枠をわずかに外れた。
惜しかった。スタンドがどよめいた。
しかし次の瞬間、チュニジアがボールを持った。
そこで、桐島は気づくべきだった。
チュニジアのアンカーがボールを受けた瞬間、右ウイングが背後へ走り出した。その動きを、桐島は一瞬、見失った。霞の中で、判断が一手遅れた。
いつもなら、ここで横にポジションを修正する。相手のコースに体を入れる。しかし体が反応した時には、もう遅かった。
縦パスが通った。
チュニジアのウイングがDFとの一対一になった。加速した。振り切られた。フォワードにボールを渡し、そのままそのフォワードはゴールに向かって走り込んでくる。ディフェンスはスライドが間に合わない。日本のGKが前に出てきた。シュートが来る、そのタイミングで——
宮内が、横からスライディングで飛び込んだ。
ペナルティエリアの手前だった。相手の足ごと、引きずり倒した。
笛が鳴った。
主審が走ってきた。ポケットから出てきたのは、赤いカードだった。
スタジアムが揺れた。
宮内は抗議しなかった。カードを受け取って、ゆっくりとピッチを出ていった。
桐島は、その背中を見ていた。
何も言えなかった。
十人になってからの日本は、守備を固めた。
チュニジアの攻勢が続いた。フリーキックの場面、コーナーキックの場面。山岸を筆頭として日本のDFが体と声を張り続けた。GKが何度もビッグセーブをした。
桐島はピッチにいた。しかし、もう判断の精度を上げることはできなかった。体だけを動かして、コースを消し、ブロックの一部として機能するだけだった。
試合はそのまま動かなかった。
最後の笛が鳴った。
零対零。
勝ち点一。スウェーデン戦で最低でも引き分けが必要になった。
* * *
ロッカールームで、浜田は「自分のミスだ」と認めた。
選手たちは沈黙していた。負けたわけではなかった。しかし、誰も満足していなかった。宮内の椅子は、空だった。
桐島は着替えながら、自分の判断ミスを何度も頭の中で再生した。あの瞬間、ウイングの動き出しを見落とした。一手遅れた。宮内が体を張らなければ、失点していた。
それが事実だった。
* * *
翌朝、練習前にグラウンドへ行くと、宮内がいた。
一人で軽くジョギングをしていた。次の試合は出場停止だった。それでも体を動かしていた。
桐島は近づいた。宮内は桐島に気づいて、足を止めた。
「昨日は、すみませんでした」と桐島は言った。
宮内は少し首を傾けた。「何が」
「私の判断が遅れなければ、あなたがカードをもらうことはなかった」
「俺が判断してカードをもらったんです。桐島さんのせいじゃない」
「でも——」
「桐島さん」と宮内は遮った。声が静かだった。「あの場面で、俺には二つの選択肢があった。行くか、行かないか。行かなければ失点していた。行けば退場になる。俺は行くことを選んだ。それだけです」
桐島は黙った。
「敢えて言うなら」宮内は続けた。「ここで桐島さんとの旅が終わったら、嫌だと思った」
桐島は宮内を見た。
二十四歳の顔だった。怒っていなかった。後悔もしていなかった。ただ、真っすぐだった。
「……ありがとう」
「お礼はいりません」と宮内は言った。少し間を置いてから、「一つだけ」と続けた。
「何ですか」
「スウェーデン戦が終わったら、デートしてください」
桐島は一瞬、黙った。
「ごめんなさい」
「即答だ」
「それはそれ、これはこれなので」
宮内は笑った。声を出して笑った。桐島も、少し笑った。
二人の笑いが、朝のグラウンドに短く消えた。
* * *
練習が始まる前、桐島はグラウンドの端で一人、スパイクの紐を結び直した。
宮内は次の試合に出られない。その事実は変わらない。しかし宮内は、チームと桐島のために体を張った。余計なことを、と言える立場ではなく、それはピッチのなかでしか返せない借りだ。
スウェーデン戦に出て、引き分け以上の結果を作る。宮内を決勝トーナメントに連れていく。それが今の桐島にできる、唯一の返し方だった。
チュニジア戦での判断ミスは、体の状態が原因だった。しかし言い訳にはしない。あの一瞬の遅れが、宮内のキャリアに傷をつけた。その重さを、桐島は背負うことにした。
スパイクの紐を引いた。
グラウンドに朝の光が伸びてきていた。
スウェーデン戦まで、四日ある。




