グアダラハラ
グアダラハラのスタジアムは、試合開始三時間前から埋まり始めていた。
収容五万のスタンドの半分に、オレンジ色が広がっていた。オランダのサポーターだった。ワールドカップの常連国だけあって、遠征慣れした集団が世界各地から集まってくる。日本のサポーターは、それでもスタンドの一角をしっかりと青く染めていた。
ロッカールームは静かだった。
大会二日目の開催。対戦相手はオランダ。グループステージ突破のためには、この初戦を落とせない。全員がそれをわかっていた。だから逆に、言葉が少なかった。各自が自分のルーティンをこなしていた。テーピングを巻く者、イヤホンをして目を閉じている者、黙って天井を見ている者。
桐島はベンチ入りメンバーとして、サブのユニフォームに着替えた。
スターティングメンバーは、今の代表が組めるベストの十一人だった。守備の強度と攻撃の速さを両立できる布陣だった。桐島の名前はベンチにあった。
入場のとき、スタンドの熱気が一気に来た。
五万人分の声が、空気を動かしていた。オレンジの壁が揺れ、日本のサポーターが旗を振っていた。桐島はピッチのサイドラインに立って、その光景を見た。
君が代が流れた。
桐島はスタンドの日の丸を見ながら、音楽を聞いた。歌詞を口にはしなかった。ただ、聞いた。
この歌を、自分が代表のユニフォームを着て聞く日が来るとは、かつての男性の体では想像もしなかった。そのことが今は、不思議でも何でもなかった。ただ、ここにいる、という事実だけがあった。
* * *
試合は開始八分で動いた。
日本のフリーキック。ゴールまで二十五メートル。壁を作ったオランダの選手たちが、整然と並んでいた。川田が助走に入り、ボールを蹴った瞬間、桐島はそのコースを目で追った。
壁の脇を抜けた。GKが逆を突かれた。ネットが揺れた。
スタンドの青いゾーンが弾けた。ベンチも立ち上がった。桐島も立ち上がっていた。
しかし喜びは、長くは続かなかった。
先制された瞬間、オランダが変わった。
変わった、というより、スイッチが入った、という表現の方が正確だった。それまでの探るような入り方が消えて、パスのテンポが一段上がった。縦への速さが増した。選手の動き出しが鋭くなった。
十五分、左サイドのウイングがDF二人を外した。切り返しが一度。加速が一度。それだけで二人を置き去りにした。クロスが入り、ファーサイドに走り込んだMFが合わせた。
一対一。
三十二分、今度は右から崩された。ショートパスを三本つないでペナルティエリアに入り込まれ、シュートコースを作られた。GKが反応したが、届かなかった。
二対一。
ベンチから見ていた桐島には、日本の守備が何に後手を踏んでいるかがわかった。オランダのパス回しは、パスの速さとともに、三角形を2つ繋げる形で選手が動き、そのため受け手が次の動き出しに入るタイミングと、出し手のパスのタイミングが、ずれなく合っている。それが、日本のプレスが届く前に、ボールを動かす基になっている。奪いに行けばいくほど、逆に使われた。
前半終了のホイッスルが鳴った。
二対一。先制しながら、実力で逆転された。
ハーフタイムのロッカールームは重かった。
選手たちが椅子に座り、タオルで汗を拭いていた。口ではまだ行けるとみんな鼓舞しているが、先制点を取ったことで生まれた期待が、逆転されたことで余計な重さに変わっていた。追いついた場所から突き落とされた感覚は、最初から負けているより堪えることがある。
浜田が前に立った。
「後半、頭から桐島と宮内を入れる」
ルームが静かになった。
「宮内はインサイドハーフ。桐島は相手のバイタルエリアの前。守備では奪わなくていい。コースを消せ。攻撃では桐島が受けて、宮内が走る。川田は引き続き前線で動き続けてくれ」
浜田は一度全員を見渡してから、続けた。
「オランダは強い。それは認めていい。だが、強いチームは焦れると崩れる。焦れさせるのが、後半の最初の仕事だ」
桐島は顔を上げた。浜田と目が合った。浜田は何も言わなかった。桐島も何も言わなかった。それで十分だった。
* * *
後半が始まった。
桐島と宮内がピッチに入ると、スタンドがざわめいた。背番号を確認した観客が、また別の観客に何かを言っている。オレンジのスタンドの一部が、ユニフォームでは隠しきれない女性的シルエットの、華奢で小柄な桐島を不思議な目で見ていた。
最初のボール。日本のGKからのビルドアップ。桐島は中盤の少し低い位置に立った。オランダの選手が桐島を見た。一六八センチ。周囲の選手と比べれば頭一つ以上小さい。マークの優先度が低いと判断されたかもしれなかった。
それでよかった。
オランダが攻撃に入った。右サイドから組み立てを始めた。センターバックからインサイドハーフへ、インサイドハーフからアンカーへ。縦パスのコースを探していた。
しかし桐島はそのコースに、すでに立っていた。全力で追い回すのではなく、先回りしてオランダが出そうとするコースを、三角形の形から逆算して常に塞いでいる。オランダは仕方なく横にボールを繋いで、また縦を探した。またそこにはコースに桐島がいた。
二度、三度と繰り返されると、オランダのパス回しが少し遅くなった。カウンターを警戒して余裕を持って縦を狙おうとするのに、縦が使えない。横に動かしながら、どこかに綻びを探していた。傍目には自由にパスを回しているようだが、最後のパスをどうしても差し込めない。
六十二分、オランダのMFが焦れた。
強引にドリブルでペナルティエリアに侵入しようとする。桐島が素早く寄せてスペースを奪い、後ろにいた欧州組のDFがスピードの落ちたドリブルにチャージし、こぼれたボールを奪った。ためらいのないターン。奪った瞬間に顔が上がっていた。
桐島に出した。
ボールが足元に来た瞬間、オランダの選手が三人、桐島に向かってきた。体格差のある選手が、距離を詰めてきた。
桐島は動じなかった。
一人目をボールとともにかわした。重心を低く保ち、体を小さく使って向きを変えた。二人目が手を伸ばしてきた。当たる前に体を流した。三人目が迫った。その脇をすり抜けた。
二十歳の体の柔軟性と、四十八年分の駆け引きの経験が、その数秒に同時に働いた。
顔を上げた。
宮内がいた。斜め前方に広大なスペースが開いていた。
出した。
宮内はボールを受けた瞬間に走り出していた。一歩、二歩。オランダのDFラインが戻りきっていなかった。縦のスペースが、まだあった。宮内はそこへ向かって加速した。DF一人が追ったが、届かなかった。
ペナルティエリアの右。川田が入ってきていた。宮内は横を見た。パスを出した。
シュート。
ネットが揺れた。
スタンドの青が爆発した。
桐島はピッチの上で、しばらく動かなかった。
駆け寄ってきた宮内が、桐島の肩を叩いた。叩いて、また走っていった。
二対二。
同点になってから、試合の空気が変わり、落ち着かない展開になった。
オランダが攻め急いだ。リードしていたチームが追いつかれると、焦りがプレーに出る。パスのテンポが上がりすぎて、ミスが増えた。日本もポゼッションを取り戻し、攻める時間が増えてきた。
七十一分、日本のコーナーキック。
欧州組のMFがボールをセットした。川田がショートコーナーのポジションに立ち、川田が短いパスを受けた。
ゴール前は混戦だった。大柄な選手たちが入り乱れ、ポジション争いをしていた。オランダの選手たちはゴール前の高い選手に集中していた。
桐島は、その混戦の外、ペナルティエリアの外から、ゴール前を見た。
ショートコーナーでディフェンスが1人コーナーに向かい、それに伴うスライドで生じる間が見えた。
オランダと日本の大柄な選手が密集するゾーンに、1秒後にぽっかりと真っすぐ飛び込めるコースが空く。
カウンターを本来警戒するべきなのかもしれないが、逡巡する間もなく、桐島は助走をつけ、まっすぐ一直線にゴール正面に飛び込んだ。
GKがぎりぎり届かない位置に、川田が高めのカーブのかかったアーリー気味のクロスを入れた。その直後、桐島は垂直気味に飛んだ。それは、見る人が見ればバレーボールのバックアタックの飛び方だとわかっただろう。
タイミングが、ピッタリ合った。
オランダの選手のDFがボールをクリアしようとしていたが、アーリー気味のクロスへのタイミングに準備が間に合わず、十分に踏み込めなかった。通常なら、190cmを超える身長のディフェンダーを飛び越えるボールをすぐ後ろで捕らえられないという計算もあった。しかし、その中途半端なジャンプの上に、小柄な桐島の頭があった。
GKも後ろから出てきた桐島のヘッドを予測しておらず、ステップはその後ろに流れるボールを意識していた。崩れた体勢からその2メートルの身長から伸びる長い手を伸ばし、指先がボールに触れたが、掻き出すことはできなかった。
ボールはゴールラインを越えた。
* * *
最後の笛が鳴ったとき、桐島は中盤のピッチに立っていた。
三対二。
スタンドが揺れた。オレンジの壁が静まり、青いゾーンが立ち上がっていた。日本のサポーターが叫んでいた。日の丸が揺れていた。
チームメイトが走り寄ってきた。誰かが背中を叩いた。誰かが抱きついてきた。名前を呼ばれた気がしたが、誰の声かわからなかった。
浜田監督がピッチに入ってきた。選手たちと一人ずつ握手をして回っていた。桐島のところへ来て、手を出した。
「よくやった」
それだけだった。桐島は握手を返した。
ロッカールームに戻ると、喧騒があった。歓声、笑い声、誰かが叫んでいる声。
桐島はその端に移動して、いつものように壁際にいきスパイクを脱いだ。
身体は疲れていた。しかし気持ちはぐるくると回ってふわふわしている。頭の中に、いくつかの場面が残っていた。縦パスのコースに立ち続けた時間。体をかいくぐってボールをつないだ瞬間。そして、ゴール前に飛び込んだ、あの一秒。
バックアタックの動きが葵の体の記憶だったのか、それとも自分の経験か、桐島には判断がつかなかった。どちらでもよかった。あの瞬間、体が動いた。
背後で足音がした。
「桐島さん」
振り返ると、山岸キャプテンが立っていた。
「隅で一人で何してるんですか」
「着替えてます」
「後でいいでしょ」
岸田は桐島の腕を掴んだ。
「ちょっと待て汗臭いきゃぶて——」
引きずられた。
輪の中に連れていかれた。チームメイトが桐島を見て、また声を上げた。誰かがまた背中を叩いた。宮内が笑っていた。川田が何か叫んでいた。欧州組のDFが親指を立てていた。
桐島は、抵抗するのをやめた。
笑った。小柄で華奢な桐島の姿が、大柄な選手たちの中心にあった。
グアダラハラの夜は、まだ続いている。




